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 彼の帰ったあと、ピアノは生まれ変わる。  打鍵すると、洗い立てのみずみずしい音が響き、それから甘い倍音が頭蓋骨にしみ込んでいく。    光樹(みつき)は完璧な音に酔いしれたまま、細く白い指で鍵盤をたゆたう。  ノクターンOP9-2。  彼の帰ったあと、いつもその曲を選ぶ。難しくはない。そのかわり、夜の湖に葉を落とし、かすかな波紋を刻むような、繊細な運指が欠かせない。  直英の調律したピアノは、そんな苦労を忘れさせる。  光樹はただ音に乗って風になり、葉を落としていく。それだけでよかった。  指を離した。  音の余韻が窓の外に吸い取られていった。  拍手が聞こえ、光樹が振り返ると、掃き出し窓に直英が座っていた。庭の木洩れ日が、彼の笑顔を彩っている。 「相変わらず、光樹くんは上手だね」  ネクタイの緩んだそこに、喉仏が見えていた。  仕事のときとは違うその色香に、光樹の胸は苦しくなる。 「前にも言っただろ。呼び捨てでいい。俺はもうガキじゃない」  直英はメガネの銀縁を光らせながら困ったように笑った。  久しぶりに眼鏡を外した素顔を見たいと、光樹は思った。  初めて会ったとき、直英は眼鏡をかけていなかった。光樹が中学三年のころだ。直英は二三歳で、音大の教授である光樹の父の教え子だった。――彼は耳がいいんだ。と、父は紹介し、その日から直英はこの家の調律師になった。  光樹は手を伸ばした。眼鏡のブリッジがひやりとし、直英が身を引くのに合わせて、眼鏡は外れていった。眼鏡をフローリングに置いた。  直英は今年二八歳になる。優しげな顔に大人の疲労が滲んでいた。  その(かげ)りを揺さぶってみたいと、光樹の体は熱くなっていく。 「僕にとって光樹くんは、ずっと光樹くんだから」  直英が言った。  光樹はフローリングをさまよう彼の手を掴み、握った。気づけば体重をかけていた。  仰向けになった直英が、眩しいものを見るように目を細め、命令した。 「どきなさい」  光樹は睨んで答えた。「どかない」  キビタキが水滴のように軽くさえずっている。 「鈴木さん、帰られましたかね。家の前に車があるんですけど」  グランドピアノの向こうで、ドアのひらく音がした。家政婦の小母さんだ。 「あれ、光樹さん?」  そう言い残して去っていった。グランドピアノの陰にいる二人には気づかなかった。  光樹は直英の肩を押さえ込んで、涙を浮かべていた。 「どうした、光樹」  直英が低く言った。調律師という仮面を脱ぎ去った声だった。疲労の(かげ)りが濃くなり、そのぶん生々しさが顔にあぶり出ていた。  ときおり光樹の目撃した、煙草の香りのような、せつない艶めかしさだ。  光樹は言葉を絞り出した。  「……留学するんだ」  涙でぼやけた視野を睨んで、光樹は必死に反応を探ろうとした。でも何もなかった。鼻の奥が熱くなった。 「しばらくこっちには戻って来れない」 「――知っている」  直英の乾いた手が頬を包んだ。 「教授から聞いた」 「俺は……」  光樹は目をきつく閉じた。閉め出された涙が、直英の手を濡らした。(もや)の去った瞳で、光樹は直英を見つめ、そして言葉にした。 「お前が好きだ」  口にした途端、持て余していた感情がせきを切った。  頭の横に肘をつくと、光樹はキスをした。直英の手が背中にまわり、シャツを握った。涙が鼻を伝って、直英の頬に達していく。    カーテンが大きく揺れた。日差しが刃のように光り、そして鬼気迫った直英の顔があった。  今度は光樹が組み敷かれていた。  直英は言った。 「好きなんて言葉を軽々しく使うな」  光樹は悟った。  大人になっても、この気持ちを殺すことなどできないのだ。誤魔化しても、隠しても、小さな弾みで解き放たれてしまう。  光樹は彼の重さを浴びながら、何度もキスをし、服を脱いだ。 「……好きだ、俺も」  耳元で直英が言い、光樹はそれに大きく頷いた。  グランドピアノの陰に、木洩れ日はゆらめいて、白いカーテンが波しぶきのように舞い上がった。  光樹は直英のそれを感じた。  熱く固いそれは、肉体を焼き尽くそうとし、その痛みを映したように直英の顔も歪んでいた。だから光樹は、はだけた襟に手を入れると、彼を抱きしめた。火傷を癒すように、口づけをした。  直英が力強く動いた。  押し殺したうめきが、光樹のなかに散っていく。コンサートを終えたあとの喜びに似た、あの甘い痺れが指先まで這いずっていった。    光樹は目を閉じた。直英の鼓動を、体温を、匂いを、そしてこの貫く痛みを、自分の体に刻み込んでいった。  目が合った。  好きだ、と直英が言って、奥を突き上げた。  刻み込んだすべてを呑む白い熱を、受け止めた。それが光樹の返事だった。  ⁂    キャリーケースを引きずってロビーに出ると、人混みをぬって急いだ。とりあえずタクシーに乗って、家に向かうのだ。  雑踏がうっとうしい。歯噛みをし、顔を上げた。  そのときだった。  体のなかに、懐かしい声が響いた。 「光樹!」   笑って待っていた直英へと、光樹は駆け出した。  一年ぶりの東京の空は、晴れていた。           了

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