15 / 17

03. 動き出した禁断魔法 5

桜の花もすっかりと散り新緑の葉が揃い始めた頃、始業式から数えて四月も終わりに差し掛かっていた。 その頃には新入生も在校生も既に新しい高校生活に溶け込み始めており慣れていない者の方が少ないのではないかという程である。 正悟も通常の生活を送り、今では恒例行事のように千草と昼食を共にして何気ない会話をしていた時のことだ。 「先輩、今日委員会?」 「そうだけど」 「放課後遊びに行っていい?」 「駄目」 「えー」 「お前が来ると仕事が捗らない。それに店じゃないんだから校内であんまり話しかけるな」 「たまにはいいだろ?」 「駄目」 千草は相変わらず諦めることを知らず、月並みの否定ではめげることもなくそばに居たがる。 それに放課後、毎日一緒に居るという訳ではないのだからたまにぐらいはいいだろうというのが千草の解釈であった。 だが他人と一緒に居ることなど普段滅多にない正悟からしてみれば、それはとても異質なもので不慣れなことこの上ない。 今もこうして昼食を共にして、毎日でなくても居られる時は一緒に居るのだからそれで十分なのではないかと正悟は思うのだが、どうも千草はそうではないらしい。 ただ、このような形で一緒に居ることが千草は本当に楽しいのだろうか──正悟はふと、そんなことを思う。 それに図書室に遊びに来たところで何が楽しいのか理解出来ない。 図書委員の仕事と言えば本の貸し借りを記録し、本棚の整理、図書室の清掃などやることは地味な作業ばかりだ。 それを見ているのが楽しいと言うのであれば変わった嗜好の持ち主だと言わざるを得ない。 正悟がそんなことを考えていると千草は次の話題に移りたかったのか、勝手に質問を変え脈絡もない質問を投げかけてきた。 「先輩ってさ、休みの日とか何してんの?」 「鍛錬とか家事とか仕事とか勉強」 「うわ、凄い真面目……」 「いいだろ、別に」 千草の質問にはいつも困らされる。 今の質問も普通の高校生なら友達や彼女と遊びに行ったり家族で休日を過ごしたりするものなのだろう。 しかし正悟はそのどれもが実現不可能で、いつも独りで過ごしていた。 せいぜい禅の店で雑談をする程度しか他人とは会話することもなく、家に帰っても独りなのは変わらない。 そんな生活に嫌気が差しつつもどうしようもないことなのだからと諦めている。 「今度さ、一緒にどっか行かない?」 「…………行かない」 「そっか……」 千草に誘われても正悟は行く気にはなれず、その話を断った。 仕方のない話でもある。 正悟が人混みに紛れることがあれば何が起こるか分からない上に、人を避ける生活を送っていると人混み自体がつらくなってくるからだ。 人酔いはするし酷いと気分が悪くなって倒れることも有り得るそんな状態で遊びに行っても千草に迷惑をかけるだけなのだから正悟は断るしかない。 しかし断られた千草としては少しだけ気持ちが落ち込み、それを悟られないように誤魔化す術を身に付けなければと必死で心を宥めているといつも通り予鈴がなるので、少しばかり安心して教室へ戻ろうとする。 それに付随するように、正悟は階段を下りて教室へ向かうのだが最近になって階段下までは一緒に行くことが増えてきて正悟の気持ちは少しだけ緩んできていた。 「じゃあね、先輩」 「ん……」 千草の言葉に正悟は小さく声を出して返事をすると、二人は別れて各々が目指す教室へと足を踏み出す。 そんな二人を遠く離れた廊下の窓から眺める人物がいる。 物静かな場所から気配を察知されないよう、正悟に見つからないように──。 校舎の構造上、屋上は死角になりやすいのだがとある場所からは屋上へと続く階段下が見通せる。 この階は人の行き来が少なく本来ならば必要な時だけしか教師も生徒も来ることはない。 だからこそ正悟にとっては憩いの場であり校舎内で唯一気が休まる場所として安心していた。 自分が見られている──否、狙われているということなど普通に考えてみても誰が想像するだろうか。 正悟に至っても当然そのような事を考えることはなく、教室に着けばいつも通り授業を受けていくだけなのだが午後の授業を受けていると正悟はふと視線を感じる。 正悟はこの教師の授業が苦手なのだが、理由と言えば簡単なことで視線が厭らしく身体の隅から隅まで見られているような感覚になるからだ。 そんなことはないと分かっている──というより思い込もうとしている。 他の生徒が教科書を音読させられている時でさえも見られ、他の生徒が授業を真面目に受けているか教室を巡回している時でさえもその厭らしい視線を感じて気味が悪いと思うことが多い。 この現代文の授業を担当する中塚という教師が正悟は何よりも嫌いであった。 そんな授業から解放され放課後のホームルームの後は図書室で委員会の仕事をしなければならない。 中塚の授業後は正直に言えばつらい点が多く、委員会の仕事も一人ならば良いのだが今日は苦手な三年の先輩との当番であった。 それでも正悟は行かなくてはならないので図書室に向かい、仕方ないと感じながら決められた仕事を熟していくことにする。 「あーあ、まーじかったりぃ」 仕事をしていると、突然正悟の耳にそんな言葉が飛び込んでくる。 の声か──正悟はそう思いながら本の整理をしていると、その人物から突然呼ばれたため先程始めたばかりの整理を止めそちらへ向かうことにした。 「……なんですか」 「ほら、あっちの奴。本借りてぇんだと」 「分かりました……」 正悟はその呼び付けて来た男が指差した方を向くと、一人の女生徒が居たので、その生徒が借りたいと言っている本を記録し貸し出せるようにする。 それを受け取った生徒が図書室から出るとその空間は二人だけになり正悟は気まずいと思いつつも先程の作業の続きをやってしまうことにした。 しばらくすると何人か生徒が入れ替わりやってきて珍しく図書室が賑わうことになってはいたが、その間も正悟はほぼ一人で仕事を熟し続け、残りの本を棚の方へ戻そうと思いその場所へ向かうと、よりにもよって棚の一番上、それも踏み台がなければ確実に届かない所だ。 正悟は自分でも背が低いことは自覚している。 だからこそ何事もないように踏み台を用意して本を戻す瞬間であった。 「せーんぱい!」 「──っ!?」 後ろから突然、聞き覚えはあるが何故ここに居るのか分からないといった、そんな声を聞いたら驚きもする。 それにタイミングが悪かった。 持っていた残りの本を支えるため正悟は手も使えずに、驚きのあまり足を踏み外して背中から倒れるように踏み台から落ちそうになる。 「……大丈夫?」 それを間一髪、正悟の肩を抱く形で身体全体を千草が支えていた。 千草に顔を覗き込まれて正悟はつい顔を赤らめてしまう。 普段は意識したことなんてなかったにも関わらず、千草の顔が近くその綺麗な瞳が瞬きをする度に自分を捉えているのかと思うと突然恥ずかしくなり直視出来なくなる。 それは時間にすれば数秒だったのかもしれないが、正悟にとっては永遠を意味するのではないかという程の感覚であった。 「戻す本ってこれ?」 千草に支えてもらったあと床に下り立ち上を見上げると、先程戻そうと思っていた本が中途半端に飛び出ている。 それを千草はいとも簡単に戻し正悟を見て微笑みを浮かべていた。 向けられた笑みを正悟は先程と同じように何故か直視出来ず、顔を伏せていれば千草と目が合わないからいいと思ったのだが、そうすると千草からすればどうしたのかと心配してしまうことになる。 「先輩?」 「…………ありがと」 正悟はその赤らめた顔のまま千草の腕の袖を引っ張り伏せがちな顔で礼を言う。 それを見て千草も気付いたように顔を赤らめる。 ──可愛い。 千草は正悟のことを恋愛感情で好きだと自覚している。 だからこそこんな風に照れている正悟を見て可愛いと思うのは当たり前なのかもしれない。 しかし正悟はそうではなく自分でも何故このように恥じらうことがあるのかと分からないでいる。 今はただ千草の顔を見たらどうにかなってしまうのではないかと言うほど自分の感情が浮かれているのだけは理解出来た。 二人してその気まずい空気を作り出している時だ。 遠くの方で相変わらず仕事をしない内山の声が聞こえ、二人が我に返り現実へと引き戻された時、正悟は呼ばれた方へと千草に挨拶も無く向かってしまう。 残された千草としては今更恥ずかしさが増したのか、その場にしゃがみ込み口元を手で覆うようにして赤面した顔を隠すことにした。 「なんであんな顔すんだよ、先輩……」 先程まで賑わっていた図書室は、気付けば千草と正悟そして内山の三人しか残ってはいなかった。 静まり返った室内では千草がしゃがみ込んでいる間も正悟と内山の会話は続いていて、それに気付いた千草は正悟に気を遣い出ていくのを止めたのはいいものの会話の内容はほぼ丸聞こえで、まるで盗み聞きしているようになった千草は何となくだが気まずくなってしまう。 「おい、瀬奈。ちゃんとやってんのかよ、サボんなよ?」 正悟はつい黙ってしまう。 本当なら言い返したいことは山ほどあるが、先輩だと言うことと自分の立場、立ち振る舞いを考えたら言える訳がない。 仕事を怠け後輩にそれを押し付け更には暴言を吐く──それがなどという立場でいいのかと、そんな風に思う正悟はふと千草のことを思い出す。 千草にとって自分はで、目の前に居る男とどう違って見えているのだろうか、同じようには見えてなくとも知らない間に傷付けているのではないかなど色々と考えてしまった。 そんな風に考えていると自然と顔を伏せてしまい、内山から見たら余計に苛立ちが増すのだろう。 「お前の仕事が終わらねぇと帰れねぇだろ、早くしろよ」 「……はい」 「大体なんで俺が図書委員なんてやらなきゃなんねぇんだよ。こんな本のためによ」 「……っ!」 内山が図書委員に乗り気ではないのは知っている。 だからこそ仕事を押し付けられて嫌味を言われても我慢してきた。 そうすれば無害のままこの時間を過ごすことが出来たからだ。 だけど今回のように本を粗雑に扱われたことはなく、それだけでも正悟は心に傷を負う。 正悟は幼少期から禅の勧めで本ばかり読んできた。 友達も満足に出来ず人とも触れ合えない──そうなれば何かに依存するには自分が好きで没頭出来るものを作るしかなく、それが本だった。 「これもそれも面倒いからさっさとやっとけよ」 笑いながらその言葉を放ち内山は積まれた本を床に投げ捨てそれを拾わせることで愉しみにしようとしていた。 正悟は何かを言う気すら起きず床に落ちた本を拾うためにしゃがんでその本に手を伸ばそうとした時だ。 誰かがその本を先に広い声を掛けてくる。 「手伝うよ」 聞き覚えのある“声”の持ち主は先程まで話していた千草だ。 それが目の前に居て数冊の本を拾い上げてくれて、それだけでも正悟は涙が零れそうだったが何とか堪え千草の顔を見てみると、視線を合わせて優しそうな柔らかな印象のまま微笑んでいる。 溢れ出そうな涙を堪えていたつもりだが一瞬だけ正悟はつい瞳を潤ませてしまう。 とはいえそのまま泣くわけにもいかないのでそれを隠すように下を向き小さい声で礼を言う。 しかしその一連の行動が内山には気に食わなかったようで、突然出てきた千草が正悟を庇うように本を拾うものだから苛立ちが頂点に達したかのような振る舞いを千草へとぶつける。 「お前、誰だよ」 「一年の天ヶ瀬千草」 「あぁ、お前理事長の孫で落ちこぼれの新入生か。どうせチヤホヤされて育ったんだろ?いいよなぁ、親の七光りは!」 正悟は内山から発せられた千草の悪口を聞いてつい反応しそうにもなったのだが出来なかった。 自分の立場と今までの経緯を考えたら何か言えるわけもなく、ただ千草が傷付く姿を見ているしかない。 それでも悔しさで満たされていたのは事実で、自分に関わったが故に言われなくてもいい悪口を言われ、助けてもやれなくて、これで何がなのだと、正悟は自分の心を余計に傷付けていく。 それでも千草は平気そうに内山から言われた言葉を無視して正悟の手伝いをしようと思い、座り込んでいた正悟に手を差し伸べる。 正悟は初め、その手を取るべきか悩んだ。 それはこれ以上千草の迷惑になりたくなかったからで、本当なら自分で立てるのだから自分で立つべきだとも分かっていた。 だが千草の表情と差し出された手を見たら無意識に手を伸ばしてその手を取ろうと思ってしまい、その思いは千草によって現実となる。 正悟が伸ばした手を千草は正悟が握って来るよりも先に手に取り、そのまま身体を立たせるほどの力加減で引っ張ると正悟は何事もなく立ち上がることが出来た。 そのまま本を受け取りながら正悟は黙ってしまい下を向いてしまう。 一連の動作を見ていた内山としては正悟を助け自分を無視した千草が癇に障り、次は正悟のことを罵倒し始める。 「いい人ぶってさ、お前コイツがどんな風に言われてんのか知ってんの?根暗、陰キャ、陰鬱、本オタク、その他にも相当言われてるけど、言っちまえば暗いんだよ!こういう奴が一人居るとマジで空気悪いんだよな。あーあ、図書委員になんてなりたくなかったぜ」 普段から事実とは異なることで悪口や陰口を言われている正悟はこれくらいの罵倒などは慣れているが、千草は自分の好きな人を傷付ける言葉を聞くのは我慢出来ずにいた。 そのせいで頭に血が上り今にでも手が出そうになったが、それを正悟が服の袖を引っ張り頭を小さく横に振り必死になって止める。 それでも千草は納得が出来ずに居ると内山が極めつけに正悟を揶揄するものだから、我慢の限界が来た千草は手ではなく口が出てしまう。 「こんな陰湿なやつと一緒なんてあり得ねぇよ、マジ勘弁しろよな!」 「……だったら帰れ」 「あ?」 「先輩(この人)のこと悪く言ってんじゃねぇよ」 その瞬間、千草の瞳が急に鋭くなり殺気にも近い威嚇した目付きとなったため、内山が少したじろぐと同時に戦意喪失と言った感じになり次の言葉が出てこない状態になる。 それを横で見ていた正悟は思う。 ──なんで、そこまで俺のことを庇うんだ。 そう問い質してみたくなったが今は二人の膠着状態をどうにかしなければと思い、正悟は内山に帰宅するよう声をかけることにした。 「内山先輩。あの……後やっておくので、大丈夫です」 「チッ……おい、根暗。ちゃんとやっとけよ」 「はい……」 その言葉を最後に内山は荷物を持って図書室を後にする。 千草の苛立ちはまだ消えないらしく少しの間だが雰囲気がいつもとは違い正悟としては落ち着かない。 それにやはり自分が千草のでいいのかという疑問は消えなかった。 少なからず正悟はこの件に関して言えば自分のせいで気分を害したと思うと謝らずにはいられなかった。 「嫌な思いさせて、ごめん」 「先輩のせいじゃないから」 「けど……」 「コレ、早く終わらせちゃおう?」 「え……」 千草は表情をすぐさま変えることにより、正悟を安心させようとする。 正悟を守りたいと思っている千草がその本人に気を遣わせるわけにはいかないと思ったのか、なるべく正悟が先程の件を思い出さないように作業の話へ切り替えて、笑顔を絶やさないように正悟を気遣った。 正悟はその気遣いに救われたと同時に嬉しく感じ、この間まで助けたつもりでいたのが気付けば助けてもらっている立場になっていることに、正悟は自分自身でも気付かない感情を抱き始める。 その優しさを他の人に向けないで欲しい──率直に言えば独占欲のようなその感情を正悟は霞のように儚く抱く。 当然そんな思いには正悟も千草も気付くわけもなく、この時も普段通りの関係性に戻り、二人は一緒に作業を終わらせると図書室を出る前に戸締りをしてから帰宅するため正悟は図書室の扉に鍵をかけてそれを職員室へ返しに行くことにする。 ただいつもの通り千草が付いてくるのではと思いどうしたものかと悩む。 図書室から昇降口に続く階段までは一本道になるので仕方がないとしてもこのまま職員室まで付いてくるのだろうかと、そう思いながら歩いていると目前にその階段が見えてくる。 正悟は瞬間、横目で千草を見るとそれに気付いた千草が先に言葉を発してきた。 「オレ、先に帰るな」 そう言われて正悟は自分の感情に違和感を感じたが今の段階ではどう説明したらいいのか分からずにいる。 千草のことだから付いてくると言い出すのかと思っていたので拍子抜けしたというのが正しいのかもしれない。 自分の感情をどんな風に表現したらいいのか分からなかった正悟が数秒間無言でいるうちに状況も変わり、階段を下りるため千草が動こうとした瞬間、その動きを止めるため正悟は自分でも意識しないうちに手を動かし千草の腕の袖を引っ張り引き留めてしまう。 千草もそれにより少し驚いたようであったがすぐに嬉しそうな顔をして正悟の方を向くと一言だけこう告げる。 「下で待ってる」 千草は正悟にそう告げて微笑えむと、正悟も腕を放したのでそれが了承の合図だと思い先に昇降口へ向かうことにした。 その微笑みを見て、正悟は安心して職員室の方へ歩き出す。 職員室に着き入口のドアを開け中を見渡すと、目的とする人物が見当たらない。 鍵を返す際に本来であれば顧問である教師に渡すのが通例なのだが今日に限って不在であり、正悟が困っていると自分を呼ぶ声がしたのでそちらを向き声の人物を確認する。 そこには見慣れた郁磨の姿があったので正悟は少し安心したようであった。 「小梨、先生……」 「どうした?」 「あ、えと。図書室の鍵を返しに来たんですけど……」 「あぁ……中塚先生ならさっきどこかに行ったが──」 郁磨がそこまで言うと正悟は安堵したように息を吐く。 しかしその姿を見て郁磨は少しだが訝しげに表情を曇らせた。 何故教師であるの名を出した時に吐息をもらしたのか、郁磨としてはそれが不思議に思ったからだ。 確かに中塚という教師は生徒からあまり評判が良くない。 だが、そうかといって正悟までそう思っているのかと言えば、その手の話は聞いたことがなかったので郁磨は少しだが心配にもなってくる。 「瀬奈、何か心配なことでもあるのか?」 「え、あの……大丈夫、です」 「そうか……」 職員室の扉の前でまさか私的な話をするわけにもいかず、千草のことも中塚のことも郁磨には何も相談出来ずに正悟は口ごもってしまう。 郁磨もそれ以上聞くことも出来ずにいたので、まずは鍵を受け取り正悟を帰らせることにした。 正悟もそれについては安堵しつつ、鍵を渡して帰宅しようと郁磨に挨拶をしてから千草と合流するために職員室を出る。 すると、階段を下りて昇降口を目指しながら歩いていた際に遠くの方で話し声が聞こえてきたのだが近付くに連れて聞き覚えのある声が二人居ることに気付く。 声に気付いた正悟は耳を澄ましてその声の主を想像すると案の定、千草ともう一人──それも出来れば今一番会いたくない人物。 「下校時刻はとうに過ぎている。こんなところで何をしている」 「別に、アンタには関係ない」 「教師に向かってその口の利き方はなんだ」 「チッ、うるせぇな……」 千草はこの中塚という教師が何よりも嫌いであった。 最初に説教をしてきた時もこのような上から目線で詰るような話し方をする教師という印象しかなく、何故今もこれほどまでに執拗に説教をされる必要があるのか分からない。 とはいえ正悟を待っている以上どこかに行くわけにもいかず渋々聞いていた時であった。 「最近瀬奈にちょっかいを出しているようだな」 「それがなんだよ。つーかちょっかいなんか出してねぇし」 「お前のような素行の悪い生徒が近付くと悪影響になるのだから近付くな」 「それこそアンタには関係ない」 その後も二人が言い争っているのが聞こえてきて正悟は一瞬出ていくのを躊躇うが、自分の名前が出たことで二人の前に姿を現すことにした。 千草は今日、自分のせいでどれほど嫌な思いをしたのかと、それを考えると胸が締め付けられるように痛くなる。 これ以上千草を自分のせいで困らせたくないというその一心であった。 千草の言葉を最後に正悟は教師に対して横から声をかける。 「あの、中塚先生……」 「瀬奈……どうしたんだ?お前のような優秀な生徒がこんな時間に──」 「あの委員会で……鍵、小梨先生に預けて来たので、よろしくお願いします」 「分かった。気を付けて帰るんだぞ、不良に絡まれないようにな」 中塚はそう言うと、千草をわざとらしく一瞥してその場を立ち去る。 千草は既に外履きに履き替えて待っていたので正悟も帰るために靴を履き替えて鞄を背負い直すと千草と肩を並べて歩き出すことにして、まずは正門を目指して進む。 その間、二人揃って話しかけづらく気まずい空気を作ってしまうが、それでも時間は徐々に進み別れが近付いてくるのだろうと正悟は思っていた。 正門に着くとようやく千草が声をかけてくる。 「先輩、今日バイトは?」 「今日は休み……」 「そっか」 「あのさ……天ヶ瀬……」 「ん?」 「あんまり、俺と一緒に居ない方が──」 そこまで言ってしまったがその先が出てこなかった。 出てこなかったというよりも言いたくなかったというのが正しく、正悟は悩んでいた。 自分と居たら嫌な思いをさせてしまう、だけど千草と一緒に居るのは心地良い、そんな二つの感情が交わる狭間でずっと悩み、答えが出ないままでいた。 それでも何か言いたくて口に出してみるも中途半端になるだけで却ってつらい気持ちになるどころか千草を傷付けてしまったのではと思ったのだが、千草はそれでも気分を悪くするどころか正悟の心配ばかりする。 正悟はその度に胸のどこかが痛くなる気がしてならない。 「オレさ、先輩と居るの好きなんだ」 「俺、何もしてやれないけど」 「何かを期待したり求めてる訳じゃないよ」 「でも……」 「先輩が心配することなんて、何も無いよ」 千草も心の中では思っている──望んでも良いならば期待したい、そばに居させて欲しい、もっと自分を好いて欲しい。 そのような欲望は確かにあった。 だからとはいえ自分のことで正悟が傷付くのだけは許せないしもっと頼って欲しいと思っている事実がそこにはある。 しかし、それだけだ──正悟のせいで自身が傷付いたなどと考えたことはなく、今日の一件だって自分の不甲斐なさが招いた原因であるのも理解しているのだから、正悟が責任を感じることなど何処にもない。 それにこの状況になって一つ言えるのは正悟のことを本気で好いていると断言出来る自分が居て、守りたい、力になりたいと願う心は変わらず抱き続けているということであり、それに向けて自分の取るべき行動も理解してきている。 それよりも今は、どうすれば正悟と一秒でも長く一緒に居られるのか考える方が先決と言えた。 「先輩、帰り道どっち?電車?」 「……徒歩」 「家、近いんだ」 「ううん、ここから四十分くらい」 「え……毎日、徒歩?」 受け答えしていた正悟は、千草からの最後の問いに対しては頷く形で返事とする。 その後もう少し詳しい帰り道を正悟に聞いていくと、千草は正悟の家と自宅が近いことが判明したため分かれ道までは一緒に帰ることになった。 千草にとっては凄くありがたかったし正悟も隣に千草が立っているだけで心が軽くなる気がして二人は先程の空気など忘れたようにいつもの調子で会話をしながら帰宅する。 ──このまま時間が止まればいいのに。 二人は以心伝心したように同じことを思う。 千草はそう思えば思うほど正悟のことが好きになるし、正悟はそう思えば思うほど本人も意識しない心の氷が溶けていく。 外は大分薄暗くなってきたが正悟の表情が読み取れるくらいには明かりもあった。 その正悟を見ていて千草はとあることに気付く。 後ろから追いかけるのではなく表情を横目に見て感じ取れるほどその距離は近付いていて“隣”に立つことが出来ている。 最初からそばに居られるとは思いもしなかったが、正悟が自分を拒まないでいてくれるから自分は今ここに居られると思うと、どうしても千草はそれ以上の感情を告げたくなるが、それを言ってしまったらやっと手に入れた心地の良い居場所を失うことになるかもしれない。 そう思うと今抱えるこの感情を上手く伝えることは出来るのだろうかと千草は思いもした。 「先輩、家まであとどれくらい?」 「あと五分くらい」 「ホントに近かったんだな。オレの家もあと十分くらいだから」 「……そう、なんだ」 そう言いながら指を使い目的地を伝える千草に対して、正悟は千草の家があるらしい方向を見るとそちらは駅がある方であった。 普段、駅に用がない正悟からすればその方向の家だと近所と言えども興味がなければ知らない家ばかりであろう。 それでも学校からここまで一緒に帰れるのは何となくだが少しだけ嬉しく感じた。 しかしその嬉しさも終わりに近付き、正悟は別れの挨拶をして自宅へ向かおうとしたその時だ。 「あ、そうだ先輩。ちょっと待って」 そういうと千草は鞄からメモ帳を取り出しペンを軽やかに走らせその書いた紙を切り取り正悟へ渡す。 何かと思い見てみるとそこに書かれた文字を見て正悟は少しだけ驚くと同時に戸惑った。 英数字が羅列されたそれはいわゆる連絡先というもので正悟には無縁と言ってもいいほどのものであった。 「これって……」 「オレの連絡先。いつでもいいから」 「……気が、向いたらな」 「うん、それでいいよ」 正悟の受け答えと表情は一致しておらず、見ているとどう思っているのかは千草でもすぐに分かる。 これほどまでに分かりやすい正悟を見たのは今日が初めてで、このことで千草は一つ心に決めたことがあった。 ──いつか先輩にこの想いを伝えたい。 そんな風に決意すると、それを満面の笑みに込めるようにして正悟へ別れの挨拶を向ける。 しかしその別れは寂しいものと言うわけではなく、明日もまた会おう──そんな前向きな意味合いの挨拶だ。 「じゃあ、先輩!また明日!」 そういうと千草は一人で自宅を目指して歩き出そうとする。 少し前の正悟であれば冷たくあしらっていたかもしれない千草の言葉も今の正悟であれば受け止めることが出来る。 その返事として少しだけ口元を緩め微笑みを浮かべると、正悟は優しく想いを言葉に乗せて千草を呼ぶ。 千草も呼ばれた方を向いて正悟の顔を見てはっきりと返事を返すと、正悟が嬉しそうに微笑んでいるのが目に映る。 「天ヶ瀬!」 「ん?」 「その……また、明日な──」 「うん!」 正悟は千草の後ろ姿を目で追って見送ると、自身も自宅へと戻るために足を踏み出す。 散々な目にあったのにも関わらず、正悟の足取りは軽かった。 嫌なことが無くなった訳ではないしこれからも続いていくであろうが、それでも千草にそばにいて欲しい、その“声”で話しかけて欲しい──そう願うのは悪いことなのだろうか。 しかしこの時の正悟は考えもしていなかった。 千草の好意を全て受け止めきれるほどの器が自分にあるのかどうか、時が満ちた頃に正悟は知ることとなる。 改めて感じる自身に課せられた宿命を──。 呪われし、禁断魔法の始まりを──。

ともだちにシェアしよう!