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第1話

石畳に落ちる木漏れ日だけが、昔と変わらずそこにあった。 リオ・アヴェルノは足を止め、そっと顔を上げる。 薄曇りの空からこぼれる陽射しが、学問院の東回廊を静かに照らしていた。 すでに講義は終わり、生徒の姿もまばらだったが――この場所だけ、時間が止まっているように思えた。 何かを思い出そうとしたわけではなかった。 けれど、ここに立つだけで、胸の奥が静かに疼いた。 ここで、彼と初めて目を合わせた。 ここで、名前を――居場所を、与えてもらった。 誰にも話しかけられない子だった。 昼食の時間になると、人の少ない裏庭や、誰も使わない講義室に逃げ込んで、冷めたパンを齧っていた。 母は貴族の出だったが、父は商家上がりで、家の空気はいつも重たかった。 家柄だけで笑う子たちに囲まれ、リオは笑わなかった。笑えなかった。 静かに空気を読むのが癖になっていて、それがいつしか、誰の記憶にも残らない癖になった。 だから――あの春の昼下がりに聞こえた声は、世界が急に色を持ったようだった。 「こっちに来いよ。……お前、ひとりじゃ味気ないだろ?」 振り返ると、陽の光を背に、ひとりの少年が手を伸ばしていた。 その笑顔が、なぜかまぶしくて、リオはただ黙って頷いた。 それが最初だった。 その日から、彼の隣には陽の気配があった。 名前を呼ばれた。何でもない話をした。時折、肩が触れた。 それだけで、心臓が跳ねた。 彼が笑ってくれるなら、僕の人生なんて、全部差し出したっていい―― そんなことを、誰にも言わずに、少年のリオは思っていた。 風が、髪を撫でる。 リオはゆっくりと目を開けた。 「……生きていてほしい」 ぽつりと、誰にも聞こえない声で、言葉がこぼれる。 彼に、何かを返したいわけじゃない。 ただ、生きて、笑っていてほしい。 それが、自分が生きてきた意味になる。 そう思えるほど、あの言葉は、あの春の光は、今でも胸に焼きついている。 *** 古い学問院をあとにして、リオは帝都の外れにある離れ屋敷へ向かった。 そこは、かつて五大貴族のひとつ――ルヴェール家の別邸だった場所。 今では、帝都に残された『最後の火種』が、 誰の意図かもわからぬまま、静かに包囲されるように追い詰められ、 仮初の静けさだけが残された庵に、最後の火種は息を潜めていた。 重い扉を開けると、白いカーテン越しに西陽が差し込んでいた。 薄暗い応接間の奥で、アレクシス・ルヴェールは机に伏していた。 いつもなら誰より早く声をかけてくるはずの彼が、こちらを見ようともしない。 「……寝てるのかと思ったよ」 リオの声に、アレクシスは微かに肩を揺らした。 だが顔は上げず、目元を手の甲で隠すようにして答えた。 「……ごめん。見せたくなかったんだ、こんな顔」 その声には覇気がなく、憔悴がにじむ。 乱れた黒髪の隙間から覗く横顔は、やつれていた。 かつて、昼下がりの回廊で陽光をはね返していた少年の面影は、もうどこにもない。 財産目録の紛失、後継者の急死、旧臣による内通。 名家たちは、誰に狙われたわけでもないはずの手口で、 一つずつ静かに、ほつれ、ほどけ、消えていった。 不思議なことに――その崩壊の始まりは、すべて『ダリオン』の登場と重なっている。 アレクシスが、まるで信仰のように心酔している、あの男。 ……だが、リオだけは、あの微笑の奥に沈む『意志』を疑っていた。 「この家も……もう終わるかもしれない」 リオにはわかった。 アレクシスは、壊れてしまう。 このまま何もせずにいたら、本当に『消えてしまう』。 だから、リオは笑った。 静かに、けれど強く。 「大丈夫、アレクシス。僕がなんとかするから」 その声に、アレクシスははっとして、ようやく顔を上げた。 「……リオ?」 「君が僕を『誰か』にしてくれたように、今度は僕が君を守るよ。  きっと、僕にできることがあるはずだから」 *** リオ・アヴェルノが足を踏み入れたのは、帝都の北端、静かな石畳の屋敷だった。 ここは、かつて名門オルディーニ家の分家――ヴァンサンの私邸。 政争の表舞台には立たず、情報と財で動く『観察者』として知られていた。 リオとは、かつて学問院で同じ講義を受けた仲だ。 級友。友達――だが、アレクシスのように肩を並べて笑ったことは、なかった。 ヴァンサン・ド・オルディーニは、いつも少し離れた場所から、 「君たちは綺麗に世界を信じるんだな」とでも言うように、微笑んでいた。 *** 「アレクシスを助けたい」 静かに告げたリオの声に、ヴァンサンは眉をわずかに動かした。 だがその目は、すぐにいつもの無表情に戻る。 「助けられなくはない」 椅子に腰かけたまま、彼はグラスを回す。 「ただ、対価がいる。地位か、力か、金か。 その対価を払う覚悟があるのか?」 「払えるものなら、何でも支払う」 リオの目に浮かぶ静かな決意に、ヴァンサンの胸が少しざわつく。 「……ダリオス・ディ・セレスタの情報が知りたい」 リオの返答は明確だった。 「なぜ、彼を?誰もが称賛する奇跡の人だぞ」 「……気のせいかもしれないが。 アレクシスを滅ぼそうとしているのは、ダリオスではないかと思っている」 「ほう……」 ヴァンサンは目を細めた。 「ダリオンの名を君の口から聞くとはね。……あれは、安くないぞ」 リオは少しだけ視線を落とした。 だがその背筋には迷いがなかった。 「僕にできることなら、何でもする」 わずかな沈黙。 空気が張り詰める。 そして、ヴァンサンは立ち上がった。 ただ近づくだけで、部屋の温度が変わるようだった。 「……なんでも、か」 低く響いた声。 その直後――リオの唇に、柔らかな熱が触れた。 軽い――ほんの一瞬のキス。 けれどリオの心臓が跳ねるには、十分すぎた。 「……え……なんで?」 「別に」 ヴァンサンは肩をすくめた。 「……君には何もないだろう? だから、断っても良かった。 だけど、俺は退屈してた。 金もある、女もいる、地位も名誉も揃ってる。欲しいものは何もない」 それでも、ヴァンサンの指先はリオの頬に触れたまま離れなかった。 「……君、慣れてないな」 囁くように言いながら、唇がもう一度、今度はゆっくりと触れた。 「こういうのは、初めてか?」 リオは返事をしなかった。 ただ、わずかにまばたきの間が長くなった。 それだけで、十分だった。 「そっか。……アレクシスとは、そういう関係だったのか?」 その名前を聞かれた瞬間、リオのまつげが微かに震えた。 「……違うよ。そういうんじゃない」 「へえ」 ヴァンサンの声は、少しだけ掠れていた。 まるで、その言葉に胸を撃たれたのは、自分でも予想外だったかのように。 そのまま、彼の指がリオの髪に絡んだ。 口づけは深くなる。 だがどこまでも、優しい。 怒りも、欲望も、押しつけてこない。 ただ、知ろうとするように、確かめるように、触れる。 「じゃあ……俺が初めてか」 呟いた声には、どこか遠い痛みがにじんでいた。 リオは、また何も言わなかった。 けれど、されるがままではなかった。 指がヴァンサンの胸元に触れた。 わずかに、服を掴む。 それが、拒絶ではないと伝わるには、十分な仕草だった。 ヴァンサンはゆっくりとリオを抱き寄せた。 まるで、ガラス細工に触れるような手つきで。 *** ヴァンサンの指先が、ゆっくりと腰骨をなぞる。 まるで、リオの中にある「言葉にならないもの」を探っているかのように。 唇が耳元をかすめ、低い声が囁いた。 「……気持ちいい?」 リオは答えなかった。 けれど、息を呑む音がした。 その喉がかすかに震えるのを、ヴァンサンの唇が感じ取った。 「慣れてないくせに、ちゃんと反応するんだな」 「……俺のこと、どうでもいいのに」 嫉妬とも欲情ともつかない感情が、その声に混じっていた。 触れるたびに、リオの身体が少しずつ熱を帯びていく。 脚がわずかに強張り、肩が跳ねる。 目を閉じて、声を殺す仕草が、却ってすべてを語っていた。 「……そんな顔されたら、優しくしかできないじゃないか」 首筋に口づけられたとき、リオの胸が大きく波打った。 「でも、それも困る。……俺は、君がどうしたいのか、わからなくなる」 そう言いながら、ヴァンサンの手がリオの指を絡め取る。 まるで恋人のように、優しく、逃がさぬように。 そして―― リオの睫毛から、また一筋、涙が零れた。 「……なんで泣く?」 「嫌じゃないだろ?」 リオは小さく、首を振った。 ただ、それでも涙が止まらない。 「……わからない」 喉の奥から、かすれるように漏れた声。 それは、リオ自身が戸惑いながら口にした、心の底の本音だった。 ヴァンサンは黙った。 そして、唇をそっと額に落としながら、震える声で呟いた。 「それでいいよ」 「君がわからないままでいてくれたほうが、きっと……俺には都合がいい」 その夜、リオの涙は、何度も頬を伝った。 快感に溺れたわけじゃない。 でも、触れられるたびに、「自分が誰かのものになっていく感覚」だけが、刻み込まれていった。 その夜の情交に、声はなかった。 ただ触れ合う皮膚の音と、息遣いの揺れだけが、ふたりの距離を測っていた。 そして、すべてが終わったあと―― まだ名を呼ばぬまま、背中を撫でる指先で、 ヴァンサンはそっと囁いた。 「……忘れててもいい」 「でも今夜だけは、俺のこと、ちゃんと感じてくれ」 リオは、目を閉じたまま、頷いた。 その顔には、涙の跡が一筋だけ残っていた。 *** 朝の光が、薄いカーテンを透かして差し込んでいた。 白いシーツの上、リオは静かに目を開けた。 隣には、ヴァンサンが横たわっている。 腕の中に、まだリオを包むようにして。 呼吸は穏やかで、ぬくもりだけがそこにあった。 けれど、心の中は落ち着かなかった。 “これは、愛じゃない” そう思った。 でも、“あのとき、確かに温かかった”とも思った。 思考が巡るたびに、胸の奥がじくじくと痛んだ。 脚の付け根に残る余韻が、それをより深く刻んでいた。 リオはそっと身を起こそうとした。 その瞬間、背後から腕が伸びて、腰を引き寄せられる。 「……もうちょっと寝てろよ」 低く掠れた声。 まるで、リオがいなくなることを、夢の中で予感していたかのような口調だった。 「早く戻らないと」 リオがそう言った瞬間、ヴァンサンは小さく息をついた。 それはため息のようでもあり、抑え込んだ熱のようでもあった。 「……アレクシスか」 ベッドの中、ヴァンサンは目を閉じたまま呟いた。 リオは答えなかった。 ただ、静かに身を起こし、衣服を探しながら言葉を探していた。 「……ダリオス・ディ・セレスタ」 名を呼ぶ声に、リオの指先が止まる。 「君が知りたいって言った、その男の情報は、手に入れられる限り渡す。……ただ、気をつけろ。奴は、血筋も思想も危うい。いまさら誰かに止められるような存在じゃない」 リオは顔を上げた。 その瞳には、迷いではなく、意志があった。 「僕はアレクシスを守る」 その言葉に、ヴァンサンは目を開けた。 そして、皮肉めいた笑みを浮かべた。 「……やれやれ」 ゆっくりと身を起こし、ベッドの縁に腰掛ける。 片肘を膝に置いて、髪をかき上げながら言った。 「守るのは……難しい。おそらく、誰よりも難しい」 「でも、やってみろよ、リオ。……お前なら、もしかしたら」 リオは無言で頷いた。 「無理はするな。 ……生きて、もう一度俺の前に来い」 リオはそれを聞いて、少しだけ驚いた顔をして、笑った。 そして言葉にしなかった『ありがとう』を瞳に込めて、部屋を出ていった。 扉が閉まる音のあと、ヴァンサンはひとり、ゆっくりとベッドに沈み込んだ。 胸の奥に、熱がまだ残っていた。 「……ほんと、俺はなにをやってるんだか」 そう呟きながら、彼は誰もいない部屋の天井を見つめた。 *** 再びルヴェール家の別邸の応接間に戻ると、空気は静かすぎて、壁にかけられた時計の音がひどく耳に障った。 窓から差す夕暮れの光が、アレクシスの影を長く伸ばしている。 「アレクシス」 名を呼ぶと、彼は顔を上げた。 その微笑は変わらない―― けれど、どこか遠くを見ているような目だった。 「君に、話したいことがある」 「……うん」 いつも通りに返される声。 けれど、リオの心は、落ち着かなかった。 「ダリオス・ディ・セレスタのことだ」 アレクシスの目が、わずかに細められた。 「……何?」 「彼は、君を利用している。  周囲の家を意図的に潰し、君を“王の器”に仕立て上げてる。  そして最後には、君自身さえも──不要になれば消すつもりなんだ」 リオは封筒を差し出した。 中には、ヴァンサンから渡された写しが入っている。 財産目録の改ざん、旧臣の転属記録、そして数件の事故に見せかけた不審死。 いずれも、“偶然”にしては、あまりに整いすぎていた。 「ここに証拠がある。全部じゃない、けど……君だけは、見てくれると思ってた」 沈黙。 アレクシスは、ゆっくりとソファから立ち上がった。 表情は――笑っていた。 けれど、その笑みはまるで氷のようだった。 「それが……君の本心か」 「……アレクシス?」 「僕を守るために来たんだろう?」 淡々とした声。 「でも、君の言葉は、まるで彼を貶めることしか考えていないように聞こえる」 リオは言葉を飲み込んだ。 それは違う――でも、何を言っても、彼の目はもう閉ざされていた。 「これ以上、ダリオスのことを侮辱するなら……君とは、もう話さない」 その言葉が、刺さった。 どこにも傷はないのに、胸の奥が、ひどく痛んだ。 リオの顔が、わずかに歪む。 目を見開き、何かを言おうとして、そして口を閉じた。 ほんの一瞬、ひどく傷ついた顔をして――だがすぐに、表情を戻した。 「……そう、か」 リオはただ、それだけを呟いた。 アレクシスの表情は、変わらなかった。 悲しみも怒りも浮かべず、ただ、他人に戻るような目をしていた。 (違う……こんなつもりじゃなかった) ――君を守りたかった。 ――壊れていく君を、見ていられなかった。 ――たとえ、嫌われたとしても、君だけは守りたかった。 けれど、それはもう届かない。 届かないどころか、裂け目にすらならなかった。 リオは、静かに頭を下げた。 痛みはあったが、涙は出なかった。 背を向けて扉を出たあと、 彼の心の中で、何かが音もなく折れた。 *** そして数日後、アレクシスのもとに、名誉ある決闘の果たし状が届けられた。 名目は政争の一環。だが、仕掛けた者の手口と時機――全てが、リオが得た情報と符合していた。 相手の名を聞いた瞬間、リオは言葉を失った。 その名は、若き剣士として知られ、剣術の名門家系に連なる者。 実力では到底、アレクシスが敵う相手ではなかった。 「……受けるよ」 アレクシスの声は静かだった。 まるで、その言葉に迷いなど初めからなかったかのように。 リオは口を開きかけて、けれど止めた。 止められないと、分かっていた。 だから、黙ってうなずいた。 *** アレクシスは、その夜も疲れていた。 書簡をまとめ、領地からの報告に目を通し、家名に関する噂を一つ一つ処理しながら、 彼は静かに、目の下に影を落としていった。 「……リオ、君、ほんとに暇だな。 隣でずっと見てないでさ、たまには街にでも遊びに行けば?」 軽口に応じず、リオは静かに笑った。 「遊びに行っても、君の顔が浮かんで楽しめそうにないからさ」 アレクシスは黙った。 そして少し肩を落とし、頬杖をついたままリオに顔を向ける。 リオは立ち上がって、湯を沸かし、静かにカップに注いだ。 その所作は日常の一部のようでいて、どこか丁寧すぎるくらい、やさしかった。 「ほら、ホットミルク」 アレクシスは湯気の立つカップを両手で受け取り、ふっと目を細めた。 「……懐かしいな。これ」 「シナモンと……蜂蜜と……少しだけクローブ。僕の『スペシャル』だよ」 「……池に落ちたとき、震えてた僕に、君が黙ってこれを出してくれたよな」 リオはカップを持つアレクシスの指先を見つめながら、静かに言った。 「覚えてる」 「ほっとする」 アレクシスは少し笑って、机に伏した。 やがて、静かな寝息が漏れ始めた。 リオはそっと立ち上がり、その身体を抱き上げて、寝室のベッドへと運ぶ。 布団をかけてやり、乱れた髪をそっと撫でた。 その沈黙の中で、リオはただ思っていた。 (君が幸せでありますように) (君が、僕を忘れてもいい。君が生きていてくれるなら、それでいい) (僕の気持ちが、恋かどうかなんてどうでもいい。ただ、君に何も起きないなら、それで) その想いを、声にすることはなかった。 ただ、静かにアレクシスの髪にそっと触れた。 そして―― ヴァンサンから聞き出した標的の条件、 アレクシスが普段着ている上着の位置、 薬の強さ、量、持続時間。 それらすべてを、リオは一つひとつ、確認していた。 まるで、それが習慣の一部であるかのように。 最後に、もう一度アレクシスの寝顔を見た。 「おやすみ、アレクシス」 その声には、微笑みがあった。 けれど、それは未来に向けられたものではなかった。 もう、二度と交わされない『最初で最後の別れ』だった。 *** 決闘の日の朝。 仮面と黒い外套に身を包んだひとりの影が、静かに決闘場に現れた。 身にまとう気配は細く、鍛えられた兵のそれではない。 だが、剣を手にした姿に、誰もが緊張を覚えた。 名乗る者はいなかった。 ただ、アレクシス・ルヴェールの代わりに剣を持つ者として、その場に立った。 対峙するのは、名門カシェリオ家の剣士、ヴォルテ・カシェリオ。 幼き頃より剣に親しみ、数々の試合で無敗を誇った青年だった。 初手こそ互角に見えた。 素早い身のこなしと的確な足運びで、黒衣の影は数合を凌ぎ切った。 だが、差は明らかだった。 防御は正確だったが、攻撃は決して届かない。 相手は余力を残しており、次第に削り取られていく。 そしてついに―― 一太刀が肩を裂き、仮面の下で、リオは苦悶の息を漏らす。 それでも、立った。 歯を食いしばり、剣を構える。 アレクシスの名を守るため、ただそれだけのために。 だが、次の瞬間―― 打ち下ろされた一撃が剣を弾き飛ばし、その身を石畳に叩きつけた。 仮面が砕け、地に崩れる。 その姿を見た周囲がどよめいた。 誰もがアレクシスだと思っていた。 「……リオ!」 誰よりも早く駆け寄ったのは、ヴァンサンだった。 群衆を押しのけ、膝をついてその身体を抱き起こす。 リオは目を閉じたまま、唇をわずかに震わせた。 「……ヴァンサン……なんで」 その声は、微かだった。 ヴァンサンの手が震えていた。 その額を押し当て、肩に顔を伏せる。 「……わかった。俺が、アレクシスを守る」 その誓いは、血の匂いと涙に染まっていた。 そして数日後―― 帝都には、一つの情報が流れた。 『アレクシス・ルヴェールは、決闘の傷がもとで命を落とした』と。 その報せは、政敵たちの動きを止めるには充分すぎた。 そして、ヴァンサン・ド・オルディーニがその死を公式に証明したことで、混乱は静まった。 だが、真実を知る者は少なかった。 アレクシスは生きていた。 リオの命と引き換えに、その命は守られたのだった。 *** *** リオは、かすかな光を感じてまぶたを開いた。 天井は白く、どこか馴染みのない香りがした。シーツは柔らかく、肌に冷たくも温かい。呼吸の音すら静かな部屋で、リオはゆっくりと瞬きを繰り返す。 ぼんやりとした頭。痛み。身体が重い。腕を少し動かすだけで、鈍い感覚が走った。 「……ここは……」 掠れた声で呟いたリオに、椅子に座っていた男がそっと身を乗り出す。 「目が覚めたか」 低く、けれど優しい声だった。 リオはその男を見た。けれど、名前が思い出せない。 「……誰?」 男はわずかに目を細め、静かに笑った。 「……覚えていないのか? あの決闘を」 「……決闘? なんで……僕、なんで怪我を……?」 「それは……」 男の口元がわずかに動く。だが、ある名を口にしかけて、やめたようだった。 「まあ、いいさ。……そのうち思い出す」 「……そうだね……君は?」 「俺はヴァンサン」 それから、少し考えて、ふと思いついたように告げる。 「……君の恋人だよ」 「…………恋人?」 リオの目が驚きに見開かれる。けれど、その瞳はまだどこか焦点が合っていない。 「……信じられない」 「嘘だと思うか」 言いながら、ヴァンサンはリオの額に手を当て、その熱を確かめた。 それから、顔を近づけて、唇を合わせる。 その感触は、どこかで覚えがあるような気がした。 「……もしかしたら、嘘じゃないかも」 リオの言葉に、ヴァンサンが形容しがたい表情を浮かべる。 どこか、痛みを抱えながら、それでも喜んでいるような。 「そうだな」 ヴァンサンが、指で優しく顔の輪郭をなぞると、今度はもう少し深く口づける。 優しく、滑り込むように舌が忍び込むと、口の中を愛撫した。 「ん…」 リオは少しだけ身じろぎして、痛みに顔をしかめる。 「これ以上はやめておこう……まだ身体が治ってない」 ヴァンサンの声は、思いのほか優しかった。 だがリオは、苦笑いのような表情を浮かべて呟く。 「……大丈夫。僕……平気だから」 その言葉に、ヴァンサンの指先が止まる。 「君、ほんと……そういうとこ、変わらないな」 リオはかすかに首をかしげた。 「そういうとこ?」 「自分のこと、全然大事にしない」 小さくため息をつくと、ヴァンサンはリオの手を取り、そっと自分の胸元に引き寄せる。 「無理しなくていい」 ヴァンサンが、リオの額に自分の額を重ねた。 「……今日は、もう眠るといい」 立ち上がろうとしたヴァンサンの裾を、リオが引っ張る。 「じゃ、今日は一緒に眠ろうか」 「うん」 そう返したリオは、ヴァンサンの肩に額を預ける。 そのまま二人の呼吸が、ゆっくりと重なっていった。 *** リオが眠るベッドに、ヴァンサンの指先がそっと触れる。 額から頬、耳の裏へ―― 撫でるというより、確かめるように、境界をなぞるように。 「……こんな顔をしてるのに」 ヴァンサンは低く呟いた。 「また、誰かのために死にかけるんだな。ほんと、君ってやつは……」 唇が触れる。 眉間に、まぶたに、そしてゆっくりと――リオの唇へ。 柔らかく、浅く。 けれど何度も、時間をかけて、リオの反応を引き出すように。 「……ん……」 リオの吐息が漏れると、ヴァンサンの手がゆっくりと首筋をなぞる。 その触れ方には、狂おしいほどの丁寧さがあった。 「……こわいんだよ」 囁く声が、唇をなぞる。 「君がまた、誰かのために死にに行くんじゃないかって。……だから、繋ぎとめたくなる」 「身体の奥まで、全部、俺だけのものにしてしまいたくなる」 リオは、目を閉じたまま小さく首を振った。 拒んでいるのではない。ただ、何かを考えているようだった。 「……僕、ずっと、誰かに選ばれたくて……名前を呼ばれたくて……」 「でも、今は……君に、触れられていると……『ここにいてもいい』って思える」 それは、初めて自分のために口にした言葉だった。 ヴァンサンの瞳が、一瞬揺れる。 「……そうか」 彼の手が、喉元を撫で、鎖骨のラインに沿って、布越しに胸へと降りていく。 ボタンを一つ、また一つと外していく指先は、愛撫というより儀式のように慎重で――執着がにじんでいた。 肌が露になるたびに、唇がそこに落ちる。 リオの身体は、すでにうっすらと汗ばんでいた。 「ねえ、リオ……」 囁きながら、彼の指がリオの腰骨に触れる。 「“気持ちいい”って……俺に教えてくれないか?」 「誰かのためじゃなくて。君の、君自身の言葉で」 リオは目を開けた。 その瞳の奥には、確かな意思が宿っていた。 「……じゃあ……ちゃんと教えて」 自ら、ヴァンサンの首に腕をまわす。 その仕草が、ヴァンサンの全身を強く打った。 「……教えるから、ちゃんと……触れて。全部、君で……」 ヴァンサンは、微笑んだ。 けれどその笑みは、静かな熱狂に歪んでいた。 「……君がそう言うなら、全部、壊してしまいたいくらいに愛してやるよ」 ベッドの軋む音すら、息遣いのなかに溶けて消えていった。 *** 唇は深く、舌は甘く絡まり、喉奥の震えまで追い詰めるように与えられる快感。 リオは声を殺そうとするが、それがかえってヴァンサンの執着を刺激した。 「……声を隠すな。もっと、聞かせて」 指が、膝の裏から腿をなぞり、リオの脚をそっと開く。 ヴァンサンの口づけが、その太腿の内側を滑り―― 「ひ……っ……」 リオが震え、指がシーツを掴む。 だが逃げない。その身体は、もう、彼を受け入れていた。 「……感じてる。いい子だね、リオ……」 吐息が、震える肌をなぞる。 そのたびに、快楽は熱を持って内側からせり上がる。 リオの目に、涙が滲む。けれど、それは苦しみのものではなかった。 「……こわいよ……」 「でも、もう……逃げたくない」 ヴァンサンは、リオの額に唇を落とし、優しく囁く。 「じゃあ、俺のものになって」 「言葉で、動きで、全部で……俺に応えて」 リオは頷いた。 そして、初めて――自ら腰を動かし、ヴァンサンを受け入れた。 その瞬間、二人の身体が、呼吸が、溶け合った。 リオは、痛みと快感の境を越えた先で、「誰かのために」ではなく「自分の意志で」ヴァンサンを選んだ。 狂気のように優しく、 優しさのように狂おしい夜が、幕を開けた。 *** 「……俺に、応えて」 そう囁いたヴァンサンの声に、リオは一瞬だけ目を閉じ、 次の瞬間、自ら身体を引き寄せるように動いた。 「……んっ……」 かすかな吐息。けれどその声音は、さっきまでとは違っていた。 指が絡み、腰が触れ合い、 ヴァンサンがリオを押さえつけるのではなく、 リオが“その位置に自分を差し出していく”。 「……そう、リオ……君が、自分で……」 ヴァンサンの声が震えた。 「こんなふうに、俺に触れてくれるなんて……夢みたいだ」 その目は、確かに微笑んでいた。 けれどその奥には、寂しさに似た影がにじんでいた。 「ねえ、リオ……君は気づいてる?」 「……何を」 「俺が、君をこんなにも求めるのは…… 君がただ綺麗で、優しくて、誰かのために動くからじゃない」 「そうじゃない」 「君が、自分を少しずつ大事にしようとしているから、怖くなるんだ」 「そのうち、俺なんかいらなくなるんじゃないかって、怖いんだよ」 リオはその言葉に、静かに瞬きをした。 そして、そっと指を伸ばし――ヴァンサンの頬に触れる。 「……君、そんなふうに思うんだ」 「思うさ。俺は、君みたいな人間を愛してはいけない人間なんだ」 「違うよ」 その声は、震えていなかった。 「僕は、君に拾われたから、まだここにいる」 「たとえ今は、名前も過去も曖昧でも……君が傍にいたから、生きてる」 「……それは、違う。俺は君を――」 「違わない」 リオはそのままヴァンサンの手をとり、自分の胸に添える。 「僕は、ここでまた生きたいって思ってる」 「君と一緒にいると、心臓がちゃんと動く。……だから、怖くない」 そう言って微笑むリオの顔は、はじめて、“与えられる存在”ではなく、“在る存在”としてそこにあった。 その一瞬、ヴァンサンの表情が崩れた。 「……ほんと、君って……」 彼はもう言葉を継げなかった。 代わりに、リオの身体をそっと抱き寄せる。 そしてそのまま、キスではなく、額と額を強く重ねた。 「……君がそう言ってくれるなら、俺は何度でも、君に恋をする」 その囁きは、どこまでも真剣だった。 *** 再び唇が重なったとき、そこにあったのは征服でも、許しでもなかった。 ただ、“共にいたい”という願いだった。 リオの脚が絡み、身体が熱に震える。 けれどもう、リオは目を背けない。 自分が“ここにいてもいい”と認める、その感覚に、初めて正面から身を委ねていた。 ヴァンサンのキスは、深く、優しく、狂おしかった。 そしてその夜、 二人は快楽と孤独を溶かし合いながら、互いの“渇き”を埋めた。 ヴァンサンにとっては、 “絶対に失いたくないもの”を手にした夜。 リオにとっては、 “もう一度生きると決めた”夜。 そして、ふたりにとって―― 愛よりも深い、罪と救済の始まりだった。 *** リオは、薄い朝の光の中で目を覚ました。 枕元には、静かな寝息を立てるヴァンサンの姿があった。 その腕の中で眠っていたのだと、ゆっくり思い出す。 触れられたぬくもりは、まだ身体の奥に残っていた。 少しずつ、記憶が戻ってきている。 過去のこと、アレクシスのこと。 けれど、なぜか胸は穏やかだった。 思い出すほど、確かな気持ちが浮かんでくる。 ――今、ここにいたい。 その思いが、ただまっすぐにあった。 *** 「……久しぶりだな」 玄関先に立ったアレクシスは、わずかに目元を落として言った。 「助けてくれてありがとう。変なこと聞くけど……リオをここで見たっていう人がいて」 しばらくの沈黙ののち、ヴァンサンは短く息を吐いた。 「そんなわけない。  それに、もしそうだとしても。 ――お前にはリオと会う資格もないと思う」 その言葉に、アレクシスは表情を動かさなかった。 けれど、ほんの一瞬だけ、瞳が揺れた。 「……そうだな。ごめん」 それだけを告げて、アレクシスは背を向ける。 そのやり取りを、階段の影でリオはそっと聞いていた。 何も言わず、ただ胸の奥に、ひとつの感情が落ちた。 ――彼は、来てくれた。 それだけで、もう十分だと、不思議と思えた。 *** 夜。 書斎にいたヴァンサンは、グラスを片手にぽつりとこぼした。 「……資格がないのは、俺のほうかもしれないな」 窓の外を眺めるその背は、どこか寂しげだった。 「君が、アレクシスのもとに戻りたいなら……そうしていい。  もう、無理に傍にいさせようなんて思わない」 その声に、背後から静かな声が返る。 「でも、僕はここにいたいよ」 振り返ると、リオが立っていた。 あたたかな部屋着に身を包み、けれどその表情ははっきりと迷いがなかった。 「君といると……ちゃんと自分を感じられる。  思い出すたびに、怖くなくなる」 「……それでも、君が泣くようなことになったら、俺は……」 「泣いてもいいよ。 でも、泣いても、君に触れてほしい夜がある」 そう言って、リオはヴァンサンに歩み寄り、そっと額を寄せた。 それは、以前とは違う触れ方だった。 ただ受け入れるのではなく、自分の意思で、そこにいると伝える手だった。 *** 唇が重なる。 ゆっくりと、何度も確かめるように。 服の隙間から指が入り、肌と肌が触れ合う。 リオの手が、今度はヴァンサンのシャツの胸元に触れた。 そのまま、そっと服を引いた。 誘うようでも、誘われるようでもない。 ただ――今夜を、自分で選ぶというしるしだった。 「……君がこんなふうに触れてくれるなんて、思ってなかった」 「僕が、そうしたかったから」 言葉が落ちて、また唇が重なる。 深く、やさしく、心の底まで満たすように。 リオの脚がヴァンサンの腰を引き寄せ、二人の身体がぴたりと重なった。 触れられるたびに、熱が広がっていく。 それでも、リオはもう顔をそらさなかった。 ヴァンサンの手が、リオの背を撫でる。 その指先は、どこまでも優しくて、けれど確かに独占を願っていた。 「……リオ、壊れそうで怖い」 「僕はもう、壊れないよ。 君が……僕をちゃんと、大事にしてくれるから」 その一言が、ヴァンサンの奥に沈んでいた不安を、やわらかく溶かしていった。 呼吸が重なり、鼓動が交わり、 静かな快感の波が、二人の身体をひとつに包み込んでいく。 リオは、すべてを受け入れていた。 泣きながら笑っていた。 それは、快楽のせいではなく―― 誰かのためじゃなく、生きていたいと願った自分のためだった。 *** 朝。 リオは、穏やかな光を感じながら目を開けた。 となりには、まだ眠るヴァンサンの横顔。 その指先にそっと触れたとき、ヴァンサンが目を細める。 「……おはよう」 「おはよう、リオ」 「……君の恋人でいいなら、これからも隣にいるよ」 その言葉に、ヴァンサンはほんの少しだけ、瞳を伏せた。 「……じゃあ、俺は君のために生きてみようかな」 それは、どこまでも不器用で、あたたかな朝の誓いだった。 互いに名を呼ばずとも、 ふたりの間には、確かな呼吸があった。 それはもう、誰かに許されるためじゃない。 ただ、ふたりで未来を選ぶための朝だった。 *** 数日後。 ヴァンサンは書斎の棚に、一通の封筒をそっとしまった。 白い封筒の表に、滲むような筆跡でこう書かれていた。 「アレクシス・ルヴェール殿」 リオが書いた、けれど投函しなかった手紙だった。 中には、わずか数行しかなかった。 僕は、君に救われていた。 でも、僕はもう、誰かに『許されたい』とは思わなくなった。 君が生きていてくれて、よかった。 それだけで、もう十分だよ。 封筒を閉じて、ヴァンサンは目を閉じた。 その手を、リオがそっと握る。 「……見つけちゃった?」 「悪趣味だったかもしれない」 「ううん。君のそういうとこ、好きだよ」 ただ、それだけの会話。 でも、それだけでよかった。 冬が終わろうとしていた。 霜が溶けて、光がやわらかくなっていく。 リオとヴァンサンは、庭に出て、肩を並べて立った。 「これから、どこに行く?」 「……行きたいところ、ある?」 「うん。あるよ」 「じゃあ、行こう。二人で」 そして、二人は歩き出す。 もう過去に囚われず、でも忘れもせず―― 選び取った未来へ。

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