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 これは喜劇だ。  僕が初めて主役を張る、一世一代の喜劇だ。  笑って、笑って、涙を流して笑い続ける。  そんな舞台で終わらせよう。  男はぐっすり眠っていた。ソファの背もたれにだらりと体を預け、軽くいびきをかいている。その様子を眺め、逢坂瑛壽(おうさかえいじゅ)はふぅ、と細い息を吐いた。 (酒に強い男だ)  酒に少々薬を混ぜ、やっとのことで酔い潰れてくれた。こちらが潰れる前に潰れてくれて良かった、と逢坂は自身の酒の強さに感謝した。  入浴を済ませ、冷蔵庫から水を取り出し、コップに注いだ。ぐいっと一気に呷り、深く息を吐き出す。軽く口元を拭うと、一度深呼吸をし、男の前に立った。逢坂はまた深呼吸をすると、男のベルトに手をかけた。  澤村(さわむら)音楽学院、通称『澤学(さわがく)』は中高一貫の全寮制男子校である。ある地方の山中にある音楽の専門教育機関であり、山一つ越えた所に姉妹校の女学院が存在するが、関わりはほとんどない。クラスは声楽クラス、ピアノクラス、弦楽器クラス、管楽器クラスの四クラスで構成されており、全国から選ばれし才能溢れる少年たちが、更なる音楽エリートを目指すべく日々レッスンに励んでいる。 「先生、おはようございます」 「おはよう」  学院の駐車場から校舎へ歩を進める途中、逢坂は声楽クラスの生徒と顔を合わせた。生徒の挨拶に、一片の変化も表れない顔で挨拶を返す。 「先生、今日個人レッスンをお願いしたいのですが」 「ああ、何時からだ?」  逢坂はスマートフォンを取り出した。 「三時半からお願いします」  『澤学』専用のアプリを開き、自身のスケジュールを確認する。空いていた。 「分かった。入れておこう」 「お願いします」  生徒は軽く一礼すると、去っていった。  さて、『澤学』の専門教科の指導者は二種類に分けられる。一つが『澤学』の専属教師で、彼らは『澤学』でのみ専門的な指導を行っている。生活が安定している反面、学校内の雑務を任されることがあるのが難点だ。普通教科の教員は皆専属であるため、生活指導など生徒の日常に関わる校務は主に普通教科の教員が行っているが、だからといって専門教科の教員が『私は専門教科の教師なので、専門教科の指導のみを行います』と主張することは通らない。学内で行事があるなら会場の準備や受付などを行わなければならず、そのためなら土日でも出勤しなければならないのだ。それに対する細やかな特別手当は出ても代休はない。  もう一つが外部からの講師である。専属教師のみでは全ての生徒に十分な指導を行うことができないため、『澤学』は外部から講師を招いている。彼らは年度ごとの契約となるため生活が不安定だが、専属教師に比べ自由が利く。特別行事に駆り出されれば特別手当が発生するし、依頼を断ることも自由だ。学院での指導を続けたいのであれば断ることは得策でないという実情はあるが、特別行事は一年にそう何度もあるものではない。特別手当の魅力もあって、大半の講師は『手伝い』を望んでいた。  逢坂は高等部二年声楽クラスを受け持つ専属教師である。先程の生徒は二年の生徒ではなかったが、個人レッスンは内外問わず、どの教師、講師から選んでも構わないため、逢坂は生徒の要望を受け入れたのだった。  生徒たちが個人レッスンをするにあたり、やはり一番の人気は自分たちを受け持つ専属教師だ。一年の生徒は一年の専属教師のレッスンを受けたがり、二年の生徒は二年の専属教師のレッスンを受けたがる。ところが、専属教師は各学年に二人しかいない。一クラス二十人ほどであるとはいえ、受け持つ専属教師の個人レッスンはときに争奪戦となる。  あぶれた生徒が次に頼るのは、他の学年の専属教師である。さて、ここで一つの疑問が生じる。受け持つ専属教師の個人レッスンが争奪戦ならば、それは全学年の専属教師に言えることではないか。一年の専属教師のレッスンが取れなければ、二年の専属教師に頼みこむ。そうすれば、二年の生徒がますますあぶれてしまうのではないか。そう考えられるだろう。  ところが、実際はそうはならないのである。『澤学』には様々な講習が存在する。学院は時折、さる音楽機関の高名な教授や、海外で活動する指導者を招請し、講演会を行う。外部の講師に特別講習を任せることもある。音楽の能力を高めるにあたり必要な外国語講座なども存在する。レッスンの他に、特に管楽器クラスの生徒に人気が高いのはジムでのトレーニングだ。無論、自主レッスンに勤しむ生徒もいる。『澤学』は生徒の多様な希望に合わせ、様々なカリキュラムや施設を提供しているのである。つまり、全ての生徒が毎日個人レッスンを行うわけではないため、一年の専属教師が手一杯でも二年の専属教師は暇、などということもあるのだった。 (今日は、今のところ三人か)  逢坂は今日の予定をチェックした。まだ一日の始まりである。そのうえ、今日は三学期の始めでもあるのだ。それでも午後になれば、もっと増えるだろう。個人レッスンは早い者勝ちである。それは生徒たちが日々の予定を素早く立て、チャンスを逃さないための訓練でもあった。  逢坂はスマートフォンをコートのポケットにしまうと、職員室のある校舎へと歩を進めた。枯れた木々の隙間から、灰色の雲がぼんやり見えた。  職員室に着くや否や、逢坂はマフラーを取った。外の冷たい空気で喉を痛めないように、車通勤でもマフラーは欠かさない。既に一線を退いてはいるが、それでも声楽家の端くれである。長年の癖は抜けなかった。  職員室は十分な温かさで満たされ、加湿も完璧だった。それは外から入ってくると暑さを覚えるほどだった。 「おはようございます」  逢坂は他の教員に挨拶をしながら、自分の席に向かった。教員たちも逢坂に挨拶を返す。職員室は普通教科、専門教科区別なく、全ての教員のための部屋である。生物準備室や体育準備室など、各専門の準備室は別途設けられているが、所謂『自分のデスク』があるのは職員室のみとなっている。全教員、例外はない。生徒の機微を察知するため、普通教科の教員と専門教科の教員が疎遠になるのを避け、情報交換を怠らないようにする学院の方針からだった。  デスクに着くと、逢坂はコートも脱ぎ、すぐ傍にあるロッカーに掛けた。普通教科の教員と比べ、専門教科の教員は午前に時間の余裕がある。それは大抵、普通教科の授業が午前中、専門教科の授業が午後にあるためだ。ただ、今日は普通教科の授業が無いため、普通教科の教員にも余裕があるようだ。  逢坂は椅子に腰を下ろした。ツキン、と鋭い痛みが腰に走り、逢坂は思わず眉間に皺を寄せた。 「先生、どうしました?」  逢坂の右耳に声が届いた。二年声楽クラスの担任であり、体育教師である郷司絹穂(ごうじきぬほ)の声である。 「あ、いえ、少々眩暈が」  逢坂が適当に誤魔化すと、 「風邪には気をつけてくださいよ。先生、細いからもっと肉でも食べないと」  と、郷司が豪快な音を立てて笑った。それに逢坂は淡い愛想笑いを浮かべる。  ――肉で治ればどんなにいいか。  逢坂は白い目を左に流した。 「先生、疲れが溜まっているんじゃありませんか? 『あの事件』以来、ほとんど休んでいないでしょう」 「いえ、……『その事件』が表沙汰になる前は、ずっと休んでいたんですから大丈夫ですよ」 「それなら良いですが」 「ところで、お話があったのではありませんか?」  逢坂は話題を変えた。直接的な言葉に置き換えると、『話がないのなら、そっとしておいてほしい』ということだ。郷司は豪快な男である。声も大きい。『絹穂(きぬほ)』などという古風で繊細な美を表す名前を持つが、本体はガタイの良い体育会系そのものである。幕末に活動した某集団の組長に顔が似ていることから、郷司を陰で『イサミ』と呼ぶ生徒がいるらしいと逢坂は風から聞いた。そのことを郷司が知るのかどうかは、逢坂の知るところではないが。  郷司はそのガサツ、いや、豪快な性質から、一部の生徒にあまり良く思われていなかった。郷司を嫌う生徒には鼻持ちならない品格重視の生徒が多く、どっちもどっちだと言えなくもない。ただ、郷司はただ豪快なだけではなく、質実剛健、曲がったことが嫌いで、生徒にも誠実な男だ。逢坂は郷司の人間性を尊敬していたが、やはりその振舞いから少々苦手意識があることは否めなかった。 「ああ、そうでした」  郷司は世間話を打ち切り、本題に入った。 「今学期から、更科和季(さらしなかずき)が復帰します」 「更科君が、ですか」  逢坂の心臓が軽く弾かれた。更科和季は逢坂が担当する二年声楽クラスの生徒である。『ある事件』以降、怪我のため欠席していたが、三学期から学院に戻ることになったのだ。 「はい。それで、本来なら進級ができないのですが、『事件』の被害者ということで、普通教科の先生たちは一度会議を開かないかと話しています」 「その会議が、始業式の後にあるんですね?」  メールを横目でチェックしながら、声で確認する。 「はい。二年声楽クラスを受け持つ普通教科の教員と、担任の私、そして専門教科の逢坂先生で行います。お一人で大変だとは思いますが、よろしくお願いいたします」 「いえ、ご連絡ありがとうございます」  始業式のため、郷司は先に職員室を出ていった。逢坂も出る準備をする。準備といっても特にない。体一つで始業式の行われるコンサートホールに向かえば良いのだ。逢坂も今日のスケジュールを確認してから、職員室を出た。  コンサートホールに辿り着き、客席を見渡すと、まだ六十パーセントほどが空席だった。全席の、ではない。生徒で埋まるはずの客席の六十パーセントである。早く着席した生徒は、隣の席の生徒と談笑したり、単語帳や楽譜を眺めたりしていた。逢坂は生徒たちの様子に気を配りながら、ほどほどにホール内を巡回した。  四十パーセントの客席から、どよめきが起こった。逢坂は事態を把握すべく顔を上げた。  下手(しもて)側の扉から、小柄な少年が入ってくるのが見えた。更科和季である。  和季はその騒めきに恐怖と不安が入り交じる表情を浮かべ、小さな体をますます縮こまらせた。彼の友人三人がさりげなく和季を隠すようにして歩を進め、計四人は各々の座席に散らばり着席する。和季が着席したのを見届け、逢坂は視線を外した。  始業式が始まった。『澤学』の始業式は学院長、副学院長、生活指導員の三名が壇上で話をし、新任の教師がいる場合、その教師の紹介がある。今回はそれに該当する人物がいないため、僅かではあるが早く終われそうだ。  逢坂は学院長の挨拶に耳を傾けた。生徒たちほど眠気や怠さを覚えるほどではないが、退屈なのは否めない。ただそれを教員として、いち社会人として表に出せないところが生徒たちより苦しいところか。  すぐ後ろで、潜められた声がした。 「今日から復帰だって」 「へ~。どこにいんの?」 「二年の先輩だから……」  声の主たちが後ろを覗う様子が、気配で分かった。逢坂も顎を軽く後ろへ向ける。すぐ後ろの列に座るのは幸い声楽クラスの生徒たちだ。ほどほどに面識はある。  逢坂はじっと生徒たちに視線を送った。生徒たちはすぐ逢坂の視線に気がついた。逢坂が人差し指をスッと口元に当てると、生徒たちはばつが悪そうに黙りこくった。  細い眼鏡の下から覗く逢坂の涼やかな切れ長の目は、強い視線を刺すのに都合が良かった。生徒たちの後ろに座るピアノクラスの面々も彼らの声に便乗し囀りはじめようとしていたが、逢坂の視線を感じ取り、それをやめた。他に不穏な動きをする生徒がいないか、逢坂は首の回る範囲だけ見渡し、しっかりと視線を刺しておいた。 (せっかく復帰できたというのに、更科君も大変だな)  逢坂は内心溜め息をついた。  職員室に戻り、ノートパソコンで予定を確認すると、想像していたとおり個人レッスンの依頼は増えていた。始業日だというのに熱心なことだ、と逢坂は生徒の希望に合わせ、スケジュールを組んでいった。  レッスン希望の生徒欄に、更科和季の名を見つけた。彼の希望する時間帯と自身のスケジュール表を照らし合わせる。空いていた。レッスン室の希望もあったので、そのレッスン室の空きも確認する。その点も問題ない。ただ、引っかかるものがある。逢坂は若干不可解な表情を浮かべながらも、スケジュール表に和季の学籍番号と名前を入力し、データを更新した。そうすれば、自動的に和季のスマートフォンに連絡が行くようになっているのだ。  逢坂は『澤学』の卒業生である。つまり、声楽クラスの生徒たちは全て逢坂の離れた後輩にあたる。  逢坂が高校生のころはそれほど通信機器が発達しておらず、個人レッスンの予約を取るには教師に直接申し込まなければならなかった。教師が捕まらなければ、教師の机にメモを残すなどした。教師はパソコンで予定を管理し、生徒の教室を訪ねてレッスンの可不可を伝えていたのである。当時はそれが当たり前だったため、面倒でありつつも仕方がないと思っていたが、今思えば難儀な時代だったと痛感する。便利な時代になったものだと、逢坂は感嘆の吐息をついた。  特例の職員会議が始まった。和季の所属する二年声楽クラスを受け持つ普通教科の教員が教科ごとに集まり、適当な席に腰を下ろしていた。逢坂も適当な場所を見つけ、腰を下ろした。  会議の進行役は二年声楽クラスの担任、郷司が担った。さて、議題は更科和季の三年進級に対する特別処置についてである。  和季は怪我のため、二学期を一日も出席できなかった。病院で意識不明の重体だったのだ。  十二月に行われた『ノエルコンサート』という期末実技試験と文化祭を兼ねた行事が終わったまさにその日、和季は目を覚ました。その後も経過を見るため入院生活が続いていたが、三学期から復帰することを病院から許可されたのである。  普通教科の教師たちの意見は様々だった。真面目な生徒なので構わないのでは、と判断する教師もいれば、成績がそこまで良いわけでもないことを理由に難色を示す教師もいた。 「逢坂先生はどう思われますか?」  郷司が逢坂に意見を求めた。普通教科の教師陣が一斉に逢坂に向く。なんだかんだ言っても、発言力があるのは専門教科の教師だろう。そんな色を含んだ瞳も中にはあった。 「私は、進級を認めてもいいと思います」  逢坂は端的に答えた。それは逢坂個人の意見ではなく、声楽クラスを担当する専属教師全員と、一部の外部講師の意見でもあった。 「ただ、専門教科は優秀な生徒ですが、更科君の成績を見たところ、普通教科が苦手であることは否めません。そこで、三学期と三年の一学期を利用して、補填と追試験を行ってはどうでしょうか?」 「それはいい。私は賛成です」  ひとまずは中立の立場でなければならない郷司が、真っ先に賛成した。和季は体育が一番苦手である。逢坂にとって郷司がすぐ賛成したのは意外だったが、すぐに後ろ盾ができたことは心強かった。  他の賛成派の教師たちも逢坂の提案を受け入れる姿勢を見せた。残る難色を示した教師たちだが、彼らも開けっ広げな賛成まではしなかったものの、逢坂の意見に追随した。 「あとは、更科君がこの三学期にどれだけ頑張れるか、ですな」 「課題は問題集が使えるので手間はないでしょう。あとは通常の定期考査より試験が増えますから、その分の問題を作成して……」 「小テストを少しいじって使えませんか?」 「成程。それで補えそうですね」  賛成派の教師も難色を示した教師も、すぐ一丸となり案を出しはじめた。それはただ『澤学』の教師陣が教育熱心だからというだけではない。和季が教師たちをそうさせるのだ。普通教科の成績はあまり振るわない和季だが、小動物の様な独特の愛らしさと素直さから、教師たちからの評判は良かった。 「ところで、我々はいいとして、逢坂先生はお一人で大変ではありませんか?」  逢坂が一人で抱え込むことを、英語担当の教師が心配した。普通教科の教員も専門教科の教員と同様、二人一組でクラスを受け持っている。だが今、二年声楽クラスの専門教科担当は逢坂一人である。手分けができないことを、その教師は危惧したのだ。 「私は問題ありません」 「そうですか?」 「はい」 「それならば良いのですが……」  その教師はまだ心配の色を浮かべつつも引き下がった。 「それにしても、『雪音(ゆきね)先生』には参りましたな」  世界史担当の教師が苦々しい(おもて)を露わにした。 「まぁそうですね。我々もマスコミに追いかけられましたからね」 「学校が一時完全封鎖になった時は、泊まり込みでしたもんね。……朝がゆっくりできて楽ではありましたが」  話は『事件』の記憶へと流れた。教員たちは溜まっていたものを吐き出すかのように、口々に語りはじめた。  ノエルコンサートを三週間後に控えたその日、マスコミの群れが『澤学』に押し寄せた。なぜなのかは、事前に開かれた緊急会議で知らされていた。教師たちはマスコミとの接触を一切禁止され、通常と変わらず業務を全うするよう命じられたのだ。幸い、広大な敷地面積を誇る学院である。それを全うするのは困難ではなかった。 「私は生徒たちに危害が及ばないか、冷や冷やしましたよ」 「いや、実際危ない目に遭った生徒もいたんですよ」  マスコミの執拗な追跡は、日々過激さを増した。中には恐怖を覚えるほどの扱いを受けた生徒もいたのだ。不法侵入も頻繁となり、学院は一時完全閉鎖せざるを得なくなったのだった。 「私はマスコミより、保護者からのクレーム対応がつらかったです」  保護者からの電話は連日かかってきた。『一体、おたくはどんな教師を雇用しているのか』、『息子を通わせて大丈夫なのか』。息子が名門の音楽学校に入学したことを誇らしげにしていた保護者の一部は、『事件』以後、憤怒から憂惧まで様々な感情を学校にぶつけた。中には被害者となった和季への暴言と判断できる言葉もあり、教師たちはその言葉に何より心を痛めた。保護者への対応に追われ、心身ともに疲弊した教師も少なくはなかったのである。 「まさか、雪音先生があんなことをするとは……」  世界史担当の教師がまた、苦い言葉を吐いた。  雪音は二年声楽クラスを担当する学院専属の教師だった。温柔で社交的、生徒たちからも教師たちからも評判が良かった。意思疎通にそつがなく、そのおかげもあり二年を担当する教師陣は円滑な業務を行えたのだ。そんな男が和季の首を絞め、聖堂の窓から投げ落としたのである。 「すみません」  逢坂は一言、謝罪の言葉を述べた。自身のやったことではないが、声楽教師の起こした不祥事が他の教員たちに迷惑をかけていたことは否めなかったからだ。  逢坂の声に、世界史担当の教師が慌てた。 「いや! 先生のせいではありませんよ」 「そうです。言わば、先生も『被害者』ではありませんか」  他の教師も同調し、気遣いの声を上げる。  事件直後、ある理由から、逢坂は事件の重要参考人として警察に任意同行を求められた。学院は事を穏便に済ませるため、逢坂に一時休職を命じた。逢坂は従うほかなかった。 「それにしても、事件後の逢坂先生の活躍には目を見張るものがありましたな」 「ですね。生徒たちを見事に奮い起こしていました」  事件後、生徒の中には精神的な不調を訴え帰郷した者や、家に連れ戻された者がいた。学院に残った生徒の中にも、精神的ショックを引き摺ったまま無理やりレッスンに励み空回りする者がいた。逢坂は残った生徒にも帰郷した生徒にも同等に心を配り、ノエルコンサートに間に合うよう鼓舞し、寄り添い、導いたのである。 「失礼ですが、実のところ逢坂先生お一人となってしまって、不安もあったんです。先生は雪音先生に隠れていて目立たなかったというか……」 「そうですね」  言葉を放った教師たちが苦笑を浮かべた。その様子に逢坂も若干頬の筋肉を緩める。『雪音が太陽なら、逢坂は月(いや、むしろ闇か?)』などと囁かれたな、と記憶を蘇らせた。 「そういえば、逢坂先生は来年から教科主任をされるのでしょう? 自信がついたのではありませんか?」 「いえ、その話はなくなったんです」 「そうなんですか?」 「はい」  逢坂は来年度から、声楽の教科主任を任されることになっていた。教科主任は数年ごとの交代制である。無論、新任の教師が任されることはない。  逢坂は声楽教師の中では若輩である。来年度、初めて教科主任を任されることになっていたのだが、雪音が逮捕され、二年の担当が逢坂のみとなってしまったために外されたのだった。 「ということは、後任の先生は来年度に入るかどうか分からない、ということですか?」 「はい。恐らく、外部講師の中から選ばれるのではないかと思いますが。その代わり現在三年を担当されている鹿屋(かや)先生が特別に、進路相談役を兼任してくださるそうです」 「受験を控える三年の専属教師が一人となっては、また保護者からクレームが出そうですもんね」  他の教師も頷いた。 「でも、教科主任の件は残念でしたね」  数学担当の教師が逢坂に声をかけた。教科主任になれば、月々の給料に手当がつく。『澤学』には、勤務年数により昇給はあるが、昇進はない。それもあり、教科主任を任されることは、学内では味わうことができない昇進をした気分になり、新鮮な気分を味わわせてくれるものなのだ。 「いえ、私にはまだ荷が重いと思っていたので、ちょうど良かったんです」  逢坂は僅かな苦笑を浮かべ答えた。他の教師陣も初めて教科主任を任された時のことを思い出し、小さく頷いた。 「そうだ! 次、新任の先生が来られたら、歓迎会をしませんか?」 「先生、気が早いですな」 「いいじゃありませんか。――とかどうです?」  逢坂の耳がピクリと反応した。 「いいですね。となると、やはり新任の先生が待ち遠しいですね。来年度から来ないかなぁ」 「新任の先生は呑む口実だけですか?」  笑いが起こった。逢坂の微かな反応に、誰も気がつかなかった。  その後、教師たちは暫く雑談に興じたが、頃合いを見計らい、郷司が締め括った。  和季の課題やテストは各教師の不便のない形で進めることとなった。会議の結果はひとまず郷司が和季に伝えるということで会議は終了した。  逢坂は郷司とともに廊下を歩いた。 「あとは更科の頑張り次第ですね」 「そうですね。それにしても、郷司先生が真っ先に賛成してくださるとは思いませんでした」 「いやぁ、己の任務を忘れ、感情的になりました」  郷司が軽く頭を掻いた。 「ひとまず私の追試はレポート一本のみとし、実技については普通教科や専門教科の追試が終わってから考えようかと思っています」 「そうなんですか?」 「はい。……その、更科が休んでいる間に噂を聞いたものですから」 「噂?」 「はい。更科が私の指導を苦に自殺したのでは、という噂を聞いたんですよ」  逢坂に不可解な感情が芽生えた。和季が聖堂から転落したのは、雪音の手による殺人未遂である。自殺ではないことを郷司も知っているはずなのだが。  郷司は逢坂の心情を察するように続けた。 「結果、更科の件は殺人未遂でしたが、それでも少々更科には厳しい指導を行いすぎたのかと反省する部分もありまして」  郷司は和季に厳しい指導を行っていた。ただ、それは和季がノルマを達成できなかったために課したペナルティであり、郷司が個人的感情から和季に無理を強いたのではない。和季は体育が苦手だった。体力や腕力など身体能力に難があり、課題をこなせないことが多かったのだ。そのことは生徒の他教科の成績に関心を示さない逢坂ですら把握している。 「少なくとも一部の生徒から見れば、そう捉えられる指導があったのだと思います。なので、これからは各生徒に合った指導を行うよう気をつけようと思いまして」 「そうなんですね」  ゴリ押しをせず、生徒それぞれの個性に合わせた指導を行わなければと反省する郷司の意識は、逢坂が持っている体育会系のステレオタイプから外れていた。逢坂は郷司に対する苦手意識を若干和らげたのだった。  郷司とは職員室に向かう途中で別れた。体育準備室で作業をするらしい。  逢坂は廊下で郷司を見送った。郷司が原因で和季が自殺を図ったのでは、という噂は逢坂の耳にも届いていた。ただ、逢坂は郷司の耳に届いたのがその噂の『方』で良かったと安堵していた。  事件が解決する前、逢坂はある生徒から更科和季の噂を耳にした。それは郷司がスパルタ教育で更科和季を自殺に追いやった、というものだけではなかった。噂はエスカレートし、最終的に『更科和季が教員相手に援助交際を行っている。』、というものにまで姿を変えたのだ。『教員』などと濁しているが、その教員とはまさしく郷司のことだ。馬鹿馬鹿しい噂だと思ったが、噂を立てられた更科和季や郷司の心情を慮ると気鬱になった。逢坂はその噂が郷司の耳に入らなかったことに安堵したのである。  いや、本当は郷司も知っていたのかもしれない。だが、これ以上自身が拡散してどうすると、敢えて口に出さなかったのかもしれない。結果、真実は分からないが、逢坂は郷司が知らないものとして処理した。  辺りが薄暗くなりはじめていた。冬は日が落ちるのが早い。まだ『夕方』といえる時刻だが、太陽はすっかり店じまいをしていた。  逢坂はレッスン室に足を踏み入れた。 「おはようございます」  既にレッスン室に来ていた更科和季が笑みを浮かべ、挨拶をした。 「おはよう」  逢坂も挨拶を返す。『澤学』での挨拶はこれが常である。時刻や会う回数は関係ない。 「復帰早々個人レッスンとは熱心だな」  逢坂の声に、和季は僅かに照れた笑みを浮かべた。 「では、今日は何をしようか?」  個人レッスンの進行は、二年生からは生徒の手に委ねられることが多い。 「その前に先生……」 「何だ?」  和季は思い詰めた表情を滲ませると、ペコリと頭を下げた。 「ご迷惑をおかけしました」 「いや、君が頭を下げることではない」  逢坂はすぐ言葉を返した。和季は被害者であり、和季に責任はない。居心地の悪さに、逢坂は頭を上げさせた。和季は頭を上げたが、まだ浮かない表情を浮かべていた。  和季が雪音に聖堂から落とされた時、逢坂はたまたま聖堂の地下にある書庫を利用していた。だが腕時計が止まっていることに気づかず、予定より長く居すぎたため慌てて聖堂から出たのだ。逢坂は和季が転落したのに気づかず走った。その姿を和季を見つけた警備員に見られ、事件の重要参考人にされてしまったのである。そのことを和季は気に病んでいたのだった。 「それより、君はこれからのことを考えなければならないだろう?」 「はい……」 「職員会議で、二学期分の補填学習と追試験を設けることになったのは聞いているか?」 「はい」 「なら頭を下げている暇などないことも分かるな」 「はい」 「よろしい。では今日のレッスンに入ろう」  逢坂はピアノの前に腰を下ろした。  復帰後、まだ一度も歌っていないとのことだったので、基礎を重点的に行った。  四ヶ月以上のブランクは素直に現れた。もとから身体能力に問題があっただけに、体力が失われている点がそのまま歌となっていた。 「だいぶ、落ちてますよね……」  和季の顔には既に、軽い疲労が浮かんでいた。 「そうだな。綿密な調整が必要だな」 「はい」  逢坂はレッスンを続けた。発声練習を再度行い、技術面の細かな指導で綻びを繕っていく。和季は素直に指導についていった。  時間もあと十分となってところで、逢坂は一曲通して歌うよう指示した。曲はヘンデルの『Lascia Ch'io Pianga』である。準備が整ったと和季が小さく頷いたのを確認し、逢坂は鍵盤の上に指を落とした。  和季の淡い特徴のある声がレッスン室に広がった。少年の体から響く女性の様な高い音は、ファルセット(裏声)の成せる業だ。和季はファルセットを駆使し、女性パートと同様、またはそれに近い高さで歌う『カウンターテナー』である。ピアノを弾きながら、逢坂は和季の歌声を冷静に脳へ送り込んでいった。  一曲を終えると、和季は一度大きく呼吸した。やはり今の和季にとって、五十分のレッスンは負担が大きいようだ。 「体力や筋力が、足を引っ張っているね」 「はい……」  和季は小さく頷いた。  初めて和季の歌を耳にした時、逢坂は内心息を呑んだ。この年で、こんなにも曲の世界を纏える子がいるとは。感嘆のあまり、適切な指導がすぐに思い浮かばなかったほどだった。  和季は今まで教えたどの生徒よりも、優れた表現力を持っていた。その反面、当時からその卓越した表現力を完全にサポートできる体力と筋肉がなかったのだ。和季が技術的な弱さを見せるたびに、逢坂はこの表現力をカバーできるほどの力があれば、と惜しんだのだった。 「では、今日はこのくらいにしよう」  逢坂は自身のスマートフォンに目をやった。  その声と同時にレッスン室のドアが開いた。開いたドアの向こうには、金髪に近いくらいの明るい髪色をした生徒が立っていた。 「終わった~?」  その生徒が和季に視線を伸ばし、明るい声で尋ねる。 「うん、終わったけど……。ノックぐらいしようよ、悠吏(ゆうり)」  和季は眉を下げ、その生徒を窘めた。 「ゴメンゴメン。センセーの『このくらい……』って声が聞こえたから。って、今日は逢坂センセーだったんスね! お疲れさまッス!」  悠吏はぱっと明るい表情を浮かべた。逢坂の眉も形が変わる。それは和季のものとは違い、厳しさを表していた。 「お疲れさま」  逢坂はまず挨拶を返した。一度、眼鏡のフレームを人差し指で上げる。 「次からは、外で待っていなさい。それか更科君の言うとおり、ノックをしなさい」 「はい、すいません!」  悠吏は笑顔のまま敬礼をした。その動きに合わせ、サラサラとした長い髪が揺れる。その様子に、本当に反省しているんだか、と逢坂は小さな溜め息をついた。  高崎悠吏(たかざきゆうり)は二年弦楽器クラスの生徒である。ヴァイオリンを専攻しており、二年のヴァイオリン専攻者の中ではトップの実力だ。そのうえ派手な見た目とは裏腹に普通教科の成績も優秀で、常に学年三番以内に入っている、と逢坂は噂で聞いている。  通常であれば、声楽クラスを担当する逢坂がヴァイオリン専攻の高崎悠吏と接点を持つことは無きに等しい。そんな二人が接点を持ったのは二学期、例の事件で逢坂が自宅謹慎中だった時のことだ。事件解決に向け、悠吏は逢坂から話を聞き出すため、他の生徒二人とともに逢坂のマンションへ向かったのである。逢坂は何を訊かれるのかと生徒相手に身構えたが、まず彼の口から飛び出した台詞は『食べる物あります?』だった。炊き込みご飯を提供すると、悠吏は美味しそうにそれを平らげた。そのうえ、悠吏は紅茶のおかわりまでねだったのだ。どこまでも図々しい生徒だったが、彼特有の人懐っこさのせいだろうか。逢坂は悠吏にどこか憎めないものを感じたのだった。  しかし、逢坂は今、悠吏に会いたくなかった。 「それで、君はどうしてここへ来たんだ?」  彼のせいではないと弁えつつも、つい素っ気ない言い方をしてしまう。幸い、悠吏は逢坂の個性として処理した。 「『どうして』って、和季のお迎えに決まってんじゃないスか」 「迎え?」 「今、和季を一人で歩かせんの危ないッスから」 「それは……」 「発作とか起きるとヤバイし、ほら、今『注目の的』ッスから」 「ああ……」  逢坂は淡い声を零した。確かに、和季にはお世辞にも良いとは言えない噂が纏わりついている。真に受ける生徒ばかりではないだろうが、中には日々の憂さ晴らしに和季にちょっかいをかける生徒がいるかもしれない。 「もしかして、このレッスン室を選んだのもそのためか?」  逢坂が問うと、和季は、はい、と返事をした。今居るレッスン室は比較的古い校舎にあり、生徒があまり好んで使うレッスン室ではない。そのため人もまばらである。人目を忍んだのか、と逢坂は納得した。今になり、昼間に感じた引っかかりを取り除くことができたのだ。 「じゃ和季、帰ろっか」 「うん」  二人は逢坂に頭を下げ、レッスン室から出ていった。  それを見届け、逢坂は細い息を吐いた。 (高崎君には、悪いことをしたかもしれないな)  些細なことだったが、先程の悠吏に対する自身の対応に、逢坂は罪悪感を覚えた。  悠吏の物怖じしない明るさは、ある男を思い出させた。初めて悠吏と会った時、悠吏はその男の従弟だと語った。従兄弟とはそんなに似るものなのだろうかと疑問を感じるほどに、二人は似ていた。外見に類似点は見られなかったが、堂々とした立ち振る舞いや取り巻く空気、笑い方が似ていたのだ。  逢坂は今、その男を思い出したくなかった。そのため、悠吏と会いたくなかったのだった。

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