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07 揺れる心と信じる力

 小さな頃の思い出の中のあの女の子が、実は僕の推しの葛城結斗(かつらぎゆうと)くんで、その結斗くんが僕のストーカーだったという奇妙な事実が判明したのが、高校卒業を間近に控えた高校三年生の冬のことだった。それまでは見ているだけで幸せだった推しと恋人同士になったという事実は、いまだに信じられず夢なんじゃないかと思っている。  それでも少しずつ恋人という存在に慣れ、『結斗くん』と名前で呼ぶことにも隣にいることにも慣れ、とても幸せな日々を送っていた。結斗くんと過ごす時間は、引きこもりの僕にとって、キラキラした宝物のようになっていた。  高校を卒業してから、僕は通信制の大学へ進んだ。高校の時に学んだ分野をさらに深く追求し、将来の仕事の幅を広げるためだ。家族の理解があってこうやって引きこもっていられるけど、卒業後はちゃんと自立して社会人としての一歩を踏み出したいって思ってる。  そう強く思えるようになったのは、双子の弟の潮が頑張っているのを見ているというのもあるけど、やっぱり一番は結斗くんの存在だ。僕の生きがいだった推し活のときから、結斗くんにはたくさんの勇気をもらってきた。それが恋人になったら、今まで以上に僕の大きな影響を与える存在になっている。  結斗くんの隣りにいても恥ずかしくないように、僕はしっかりと前を向いて歩んでいこうって思えたんだ。  僕は洗面台で顔を洗いタオルで拭き取ったあと、鏡越しの自分の顔をじっと見つめる。我ながら、いい表情になったと思う。今は忙しくてなかなか結斗くんに会えないけど、いつ会っても恥ずかしくないようにって、気をつけているんだ。  結斗くんは人気俳優だから、普通の人のようなデートはできない。僕が男だから、友達同士といえばそれで通るのかもしれない。それでも、何かあったときに迷惑をかけてしまうかもしれないと、僕は人目につかない場所を選んで会うことを提案していた。  結斗くんはちょっと不満げだけど、引きこもりの僕にとってはその方が気持ちが楽なんだよって話をしたら、納得してくれた。  その代わり、会えた時の喜びはとても大きい。会えなかった時間を埋めるように、僕たちはぴったり寄り添ってたくさんの話をした。遠くへ出かけることもできなかったけど、それでも十分幸せだった。  でも、そんな幸せな日々に、突然暗い影が落ちた。  結斗くんと恋人同士になってから、三年が過ぎた春のことだった。  朝いつものように推し活──結斗くんの情報収集をしようとスマホの画面を見たら、目を疑うような通知が目に飛び込んできた。 『葛城結斗、若手女優との熱愛発覚!』  びっくりして慌ててクリックすると、トップページに大きく表示されたのは、結斗くんが女性と笑い合ってる姿。  え……? どういうこと? 僕は震える手でスマホの画面をスクロールする。『葛城結斗、若手女優、星野真衣(ほしのまい)との熱愛発覚!? 深夜の密着デート!』というタイトルと、その下に続く記事には、『撮影現場での親密な様子』とか『夜遅くまで一緒にいた』とか、胸がざわつく言葉が並んでいた。 「うそ、だよね……?」  結斗くんは最近、ドラマの撮影で忙しくて会うどころか連絡も減っていた。だからって、疑うとかそんなことはしたくないのに、心のどこかで「もし本当だったら?」って囁く声が止まらない。過去のトラウマも邪魔をして、結斗くんを信じたいって気持ちがグラグラと揺れる。  引きこもりの僕には、ネットの情報がすべて。スクロールするたびに、好き勝手書かれた記事や、SNSでの一般人の心ない投稿が目に留まる。見なきゃいいのに、見ちゃだめなのに、画面をスクロールする手が止められない──。 「……ぎ! なぎ!」  肩を揺さぶられる感覚と、力強く名を呼ばれてハッとして顔を上げた。そこには心配そうに僕を覗き込む潮の顔があった。 「しお……?」 「大丈夫か? 顔色悪いけど……」 「だ、大丈夫だよ」 「……なぎ? 俺に隠し事してもだめだよ?」  そう言って潮は俺の手をそっと握った。そこで初めて自分の手が小さく震えている事に気付いた。潮は優しく背中をさすってくれて、少しずつ落ち着きを取り戻した僕は、潮に記事の話をした。 「なぎはさ、ずっと結斗を見てきたんだろ?」 「うん……」 「それなら、心配することないよ。結斗を信じよう」  そうだ。僕の推しは、誠実で仕事にも真摯に取り組んで、ファンを大切にしてくれる人だ。こんな軽率な行動をするわけがない。何かちゃんと訳があるはずだ。潮の言葉で、やっと僕は落ち着きを取り戻してきた。そんな時、手にしていたスマホが震えて、画面を見ると結斗くんからの着信だった。 「あ!」  僕は慌てすぎて、スマホを手から滑らせて投げるような形になってしまった。それを潮が笑いながら取ってきてくれる。 「じゃあ、俺は行くから。ちゃんと話せよ?」 「うん、ありがとね、しお」  静かに部屋を出ていく潮を見送り、僕はスマホをタップした。 「もしも……」 「渚くん!? あれ、嘘だからね!」  僕がもしもしと言い終わらないうちに、スマホの向こうからは慌てた結斗くんの声が聞こえてきた。前後の話を飛ばして、とにかく伝えたいことを伝えたいという気持ちが伝わってきた。その慌てた声を聞いて、僕は自分が悩んでいたのがすごく馬鹿みたいに思えてきた。結斗くんを信じる。大丈夫だ。 「結斗くん、落ち着いて」 「で、もっ!」 「あの記事のことでしょ? 大丈夫、僕は結斗くんを信じてるから」 「よか……った!」  結斗くんがこんなに慌てるなんて珍しい。本当に僕のことを心配してくれていたんだと思うと嬉しくなった。  今はドラマの撮影中のはずだ。きっと隙間時間を見つけてかけてきてくれたんだろう。後ろの方から、マネージャーさんの結斗くんを呼ぶ声が聞こえてきた。 「結斗くん、僕は大丈夫だから。今は撮影に集中してね。終わったら連絡してね、待ってるから」 「うん。後でちゃんと話すから」 「がんばってね」 「うん、がんばるよ」  僕は切ってしまうのが名残惜しかったけど、結斗くんのお仕事の邪魔をしたらいけない。ぐっと我慢をして、通話終了ボタンを押した。  もう大丈夫と大きく深呼吸をしてから、再びスマホの画面をタップし、掲示板を開いた。結斗くんファン同士のコミュニティだ。さっと目を通すと、あれはあの若手女優の売名行為なのではないか? という噂も出ていた。 『おそらくあの写真は、深夜まで続いた撮影の休憩時間だと思います。まわりには他のキャストや関係者がいて、ここだけ切り取られたと考えるのが妥当でしょう』 『あの女優の恋人を隠すための、カモフラージュの可能性もありますね』  あくまでも憶測の域を越えることはないけど、だんだんそうなのではないかという気がしてきた。もちろんあの情報が嘘だと本人から聞いているから、冷静に書き込みを見ていられるのだけど、他のファンはどんな思いで見ているのだろうか。 『とにかく、本人の口から聞くまでは、噂に惑わされず、信じて待ちましょう』  僕はゆっくりと打ち込むと、皆に同意を求める気持ちで送信ボタンを押した。  早くこの報道に終止符が打たれ、またいつものように穏やかに推し活ができますように。

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