1 / 215
第1話 はじまりの足音
【第一部】
びゅうびゅうと吹き付ける夜風に胸が躍る。
寿 秀治 は両手を広げて真っ暗な空を見上げた。都会の空気は薄汚れていて、空もどっぷりと人々の陰鬱な空気を吸い込んでできた泥のような色をしている。秀治の視界の下にはネオンのきらめく街がある。秀治はここの景色を気に入っていた。この世で最後に見る光景にぴったりだといつも思っていた。だから十四階建てのこの廃墟のビルの階段を悠々と登ってこれる。もともとは建築会社のビルだったらしく、釘や合板が乱雑に置かれたままだ。
ふう、と小さく息を吐いて真下を覗く。綺麗な光だと心から思った。秀治はいつものように足を冷たいコンクリートの上に乗せてじっくりと焼き付けるように眼下の光に見入った。真下の狭い道路には人の姿は見えない。これなら誰も道連れにすることなく旅立てるはずだと疑わなかった。
走馬灯が走ることもない。ただ、目の前に広がる無の空間。大気が自分を包むように背中を押すのを感じた。すっと胸が軽くなる。体の力が抜けてひどく愉快な気分だ。こんなときには缶チューハイでも飲んで酔っ払いたい。そのまま二度と目が覚めないように酔いつぶれていたい。何度かそれも試したが効果はなかった。だからより確実な方法を秀治は選択している。
さようなら。無慈悲な世界。そう心の中で呟く。都会の空は偽物の空だと昔どこかで聞いたような気がする。どこで? どこでもいいか。両の手を鳥のように広げ、口角を上げる。もう少し、あとほんの数秒で命が終わる。それが楽しみで仕方がない。痛みは一瞬で、あとは夢のような快感に身を委ねるだけだ。最後の一呼吸を済ませると秀治は体の重心を前方へと預けた。上半身がゆっくりと崩れ、つま先がコンクリートから離れる。今ならどこまでも遠くに飛べる気がした。
ともだちにシェアしよう!

