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第1話
「ティト坊ちゃん! ティト坊ちゃんが目を覚まされました!」
泣きそうな顔をしたメイドと目が合ったかと思えば、メイドはすぐティトの視界から消え、スピーカーのように大きな声を出しながら屋敷内を走り回り始めた。
ティト・ロタリオは、いまだ覚醒しないのかぼんやりとした様子で起き上がると、まず自身の手を見下ろした。金の長い前髪が揺れ、まだ曖昧な碧眼を微かに隠す。白く綺麗な手と、金の髪。見たことのない上質なシーツ。ティトの目が、ひとつ一つ順番に確認していく。
「あ、そっか」
「ティト! 目が覚めたって!?」
真っ先に部屋に入ってきたのは、ティトの兄、ルギスであった。慌てた様子で、すぐさまベッドまで駆けつける。続けて、スピーカーメイドに呼び集められた使用人や両親、そして担当医もやってきた。
「坊ちゃん、目は見えておりますか?」
年配の老医師だ。ロタリオ伯爵家のおかかえで、両親もルギスもずっと世話になっている。
ティトは老医師をじっと見ながら、真剣な眼差しで口を開く。
「見えてる。……僕、生まれ変わったみたい」
「……な、なんですかな?」
「だから、ここでは僕は当て馬なんだよ」
「ユリアーナ!」
可愛い息子の口から出てきた意味不明な言葉に耐えかね、心労が限界を迎えた母、ユリアーナがふらりと倒れた。無事隣にいた父に支えられたが、顔色は一気に悪くなっている。
まだ何かを言おうとしたティトを遮り、ルギスが老医師に強く掴みかかる。
「先生! ティトを治してください! 頭を打ったんですよね! ティトはこんなおかしなことを言い出す子ではないんです!」
「ルギス坊ちゃん、私も重々存じておりますとも。……ティト坊ちゃんは少し混乱しているのでしょう。あのような場で階段から落ち、頭を強く打ったのですから当然です。今は安静にしてあげてください」
老医師はティトに軽く触診をして無事を確認すると、あとは邪魔にならないようにと退室した。ユリアーナを支えたまま、父もそれに続く。使用人たちも心配そうにはしていたが、仕事に戻らなければとそれぞれの役割に戻ったようだった。
残ったルギスは、心配そうにティトを見下ろす。
「……ティト、まだ頭が痛むんだろ? 混乱してるんだってさ。すべて忘れて、ゆっくり横になって」
残ったルギスが、ティトを支えながら横たえる。しかしティトは不思議そうにルギスを見るばかりだ。
「僕、混乱なんかしてないよ?」
「いいや、してる。まだ八歳のおまえには衝撃的なことだったんだ、仕方がないよ」
頭を打ったからなのか、ティトはどうして自身が寝かされているのかが分かっていなかった。
正確には、頭を打ったという記憶がない。それこそ脳の混乱で、前後の記憶が飛んだのかもしれない。いや、寝ている間に見た「夢」の衝撃が大きかったからだろうか。なんにせよ、ティトはおかしくなったわけではないし、前後の記憶がなくともどうでも良いと思えるほどには今も大変な衝撃を受けている。
「ねえ兄様、僕、前世の記憶を思い出したんだ」
じっとルギスを見上げる瞳は真っ直ぐで、混乱しているような色はない。ティトの様子を伺っていたルギスは、難しい顔をしている。
ティトは兄がなにも言わないことを気にすることなく言葉を続けた。
「あのね、僕、前世では一人ぼっちだったんだ」
ルギスはひとまず弟にすべてを語らせてやろうかと「それで?」と続きをうながしたが、使用人が置いて行った飲料の乗るワゴンを前に、どれをティトに飲ませるかと悩んでいるようだ。ベッドサイドにもおらずやや背を向けて、話を深く聞くつもりはないらしい。
「両親もいなくてね、『施設』ってところで生活してた。本を読むこととお勉強が大好きでね、ほとんど誰も僕に近づかなかったよ。だから恋愛なんかしたことなくてさ、ずっと憧れだったなぁ、恋をして、家族を作ること」
結局、水差しとグラスを選び、ルギスは丁寧に水を注ぐ。慎重にティトに渡してやれば、まだ話したそうではあったが、それでも少しだけ起き上がり、素直に喉を潤した。しかしふた口目は不要だったのかすぐにベッドに横になった。「それでさ」と続けるティトを見て、手持ち無沙汰なルギスも、ようやくベッドサイドに置いていたチェアに腰掛ける。
「僕はこの世界で、当て馬って役割があるみたい」
「……ティト、大丈夫だよ。兄様が居るだろ。兄様が居る限り、ティトを悲しい気持ちにさせないから」
ルギスがティトの頭をゆっくりと撫でる。優しいその手つきに、すぐにティトを眠気が襲った。返事をしたかしなかったかは定かではなかったが、ティトはゆっくりと目を閉じる。
「……兄様が絶対に、おまえを守ってやるから」
ルギスが少し寂しそうにつぶやく頃には、ティトはすでに眠りに落ちていた。
ティトは夢の中に居た。
夢の中のティトはまだ二十歳と若く、大学に通っており、性別は男で、そして恋愛対象も男だった。友人が多かったわけではない。賑やかな人種でもなく、むしろ一人でいることに気楽さを覚えるような、そんな大人しい性格をしていた。
異性が好きな同性を好きになってばかりだったから、恋が叶ったことは一度もなかった。告白すらできず、彼の恋はいつも人知れず散っていた。
そんなとき、とあるゲームに出会う。ゲームなどはあまりやらないし、ゲームコーナーにも行かないから詳しくもない。だからそのゲームもゲームコーナーで見つけたというわけではなく、リサイクルショップでガジェットを見ていたら偶然近くに置いてあっただけだった。
最初は「イラストが綺麗だな」ということから興味を持った。パッケージの後ろで内容を見て、BLゲームであることを知る。「最近流行ってるよな、悪役系」と冷めた目で見ていたのだが、内容を読み、大きな衝撃を受けた。
なんとこのゲームには、悪役だけでなく当て馬役も居るらしい。さらにこのゲームの世界には男性も妊娠が出来る「オメガバース」という、男女のほかにも性別があった。番契約や発情期など初めて聞く設定もあり、彼は妊娠をしたかったわけではないが、男同士の恋愛が普通であるというその世界設定に心が惹かれてすぐにゲームを購入した。
自分の恋が叶ったことなどなかったから、ゲームの中だけでも結ばれるということが彼にとっては幸福だった。ゲームの中でしかその幸福を得られないことは少し悲しかったが、彼はそれでも、擬似的にでも両想いになることができて確かに心から嬉しいと思っていた。
(……まさか自分が、そのゲームのティト・ロタリオだなんて)
目を覚ましたティトは、あくびを漏らしながらベッドの上で両手をめいっぱいに伸ばす。
自身がそのゲームの世界に居るのだと分かったときにはすべてを疑ったものだ。まさかそんなことになるとは思ってもいなかったし、さらに自分が「当て馬」になったなど信じたくもなかった。当て馬ということは、誰とも結ばれないということだ。自分はまた前世のように誰にも相手にされないのかと、その点に関しては絶望すら覚えた。
しかし間違いない。
目を覚ましたあと、ルギスの顔を見て確信した。
ルギスはティトの兄として、ほんの少しだけ描写があったキャラクターである。ルギスはティトをとにかく可愛がっていた。その甘やかしのせいでティトは頭が悪いまま育ち、空気も読めずわがままになり、周囲の貴族からは「残念な天使」と揶揄されていた。
ティトはベータだ。だからアルファである攻略対象を好きになろうとも相手にされず、むしろ頭が悪く空気も読めないものだから常に迷惑がられていた。
(……僕も幸せになりたいなぁ……)
ひとまずゲームを終わらせて、幸せな恋愛をしよう。ティトはひっそりと心に決める。
「ティト坊ちゃん、お目覚めですか。お時間ですので、ご準備いたしますね」
使用人が複数入る。ティトが「何の準備?」と聞くと、ティトの着替えを担当していた使用人が「聞いていらっしゃらないのですね」と意外そうな声をあげた。
「急遽入ったってこと?」
「はい。その……先日、坊ちゃんが階段から落ちた事件があったと思うのですが、そのパーティーのやり直しとのことで。本日は王宮にてガーデンパーティーでございます」
そういえばティトは階段から落ちたのだったか。しかし記憶がないために「やり直し」と言われてもピンとこない。
「ねえ、僕そのときのこと覚えてないんだけど、僕はどうして階段から落ちたの?」
ティトの寝巻きを脱がせ、別の使用人がティトに服を着せる。二人は少し気まずそうだ。
「……その、ティト坊ちゃんは突き落とされたのですよ」
「突き落とされた……? どうして?」
「私たちも話に聞いただけなので真実は分からないのですが、どうやらあのエレア・ジラルド様が……」
「え! ジラルド侯爵家の!?」
「きゃ! どうされたんですか坊ちゃん!」
ティトは、シャツのボタンを閉めていた使用人の手を興奮気味につかんだ。
「本当に!? 僕はあのエレア様に突き落とされたの!?」
「い、いえ、聞いた話によるとそうなんですが、真偽は……」
「えー! そうなんだ、どうしよ、えー! ねえ、エレア様は今日いらっしゃるのかな」
「は、はい、そのように聞いております。ですから、ティト坊ちゃんのパーティへの参加をルギス坊ちゃんは大反対していらっしゃいますが」
「反対なんてとんでもない! 僕は絶対に行く!」
エレア・ジラルドといえば、ゲームの中では悪役令息の立場であった。どのルートでも出てくる当て馬と同じく、どのルートでも主人公に嫌がらせをする役割である。攻略対象と接触する必要のある当て馬のことも敵視しており、当て馬もなかなか困らされていたものだ。
(困っていたなら、困るような状況にしなければ良いんだ。そもそもエレア様を悪役になんてしなければいいんだよ! そしたらエレア様もハッピー、僕も意地悪されずにハッピー! まだ八歳なら軌道修正ができる……!)
ティトの記憶によれば、エレアは根っからの悪役というわけでもない。ともすれば、物語開始前から仲良くしておけば良いだけのこと。エレアのために今日は気合を入れてオシャレを……と思ったところでふと「突き落とされた」と言われたことに引っ掛かりを覚えた。
(……こんな幼い頃から、どうして僕を……?)
物語の開始は十五歳、主人公含むキャラクターたちが学園に入学してからのはずである。悪役と当て馬に幼い頃からの確執があるなど、キャラクター設定にも載っていなかった。
「坊ちゃん、こちらへ。おぐしを整えますね」
着替えを終えると、ティトは鏡の前に連れられた。考え込んでいたティトが顔を上げると、とびきりの美少年と目があった。
「わ! びっくりした、鏡か。天使かと思った」
「ふふ、坊ちゃんは本当にお美しいですよ」
「いや、忘れてたわけじゃないんだけど、前世の顔を思い出すことが多かったからびっくりしちゃった」
前世のティトは「ずっと見ていたらまあ可愛い気がする」くらいの顔立ちだったが、現世のティトは当て馬らしいというのか、とんでもなく美少年である。
手入れの行き届いた金の髪は艶やかで、長い前髪を真ん中で分けた先にはぱっちりとした碧眼がある。顔も鼻も小さく、唇も薄い桜色。まるで雪のように白い肌はしっとりとした触り心地で、毎晩のボディケアの成果が出ている。
当て馬としては完璧だ。このまま怠ることなく継続して美を追求しなければと、ティトは心で決意した。
「いや、外見だけじゃダメだ……僕、お勉強も頑張りたい! 歴史とヴァイオリンは嫌いだけど、これからは頑張るよ!」
「まあ坊ちゃん! どうされたんですか? きっと旦那様と奥様も喜ばれます!」
「うん! ひとまず今はとびきり可愛くして!」
「はい! 精神誠意努めます!」
その場にいた者はみなグッと拳を握り締め、ティトをいつも以上に美しく仕上げるべく気合を入れた。
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