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4.5 sideセレ 長兄シルヴィオ
アズマは、一体どうしてしまったのだろう。
閉じられてしまった扉を見つめ、私は静かに考える。
何か呪いをかけられていたことは間違いない。今は平和な時代であると認識しているが、か弱き人間を食い物にする魔族……マナの使い手がこの時代にもいるのだろうか?
──いや、いるに違いない。残念ながら我ら精霊の民と違い、他の種族は欲望に満ちているのだから。いかにうわべを取り繕ったとしても、悪意に渦巻いているのだろう。家族たちの言うように。
そう考えて、はたと我に返る。根拠もないことを疑ってもしかたがない。それこそ愚かな幼い者のすることだ。長命なエルフの中にあって私はまだ年若いから、時折そうした感情に振り回されてしまう。
冷静に、客観的に。アズマが呪いを受けた原因は、彼自身が知っているかもしれない。その答えを待っても遅くはないだろう。
言い聞かせるようにして、少々の落ち着きを取り戻す。そして気付くと私の指は、唇に触れていた。
アズマと。口付けを交わしたのだ。彼が望んでいたかはわからない。呪いのせいであったかもしれないし、それに彼ら人間にとってその行為がどういった意味合いを持つのかまで、確信があるわけではないけれど。
「……アズマ……」
対等に見ようと考えた矢先のことだ。アズマのことを考えると、胸がザワザワする。先ほどのキスの感触を思い出してしまいそうで、私は着ていたアズマの服に手をかけた。
これらは彼に返さなければいけない。……だが、そのまま返していいのだろうか? アズマはよく洗濯機なるものを使用していたが、それを私も使ったほうが良いのか? だが使い方もわからない。とはいえ、なんとなくだが、私の着用したままの状態で返すのもどことなく気が引けた。
思案しつつ、とりあえず着替えようと首に手をやって、そしてはっとした。
プリュネルだ。
背筋が冷たくなるほどの不安に襲われる。私の危険を家族らに伝えるこのチョーカーは、先程の出来事を「事件」だと認識しなかっただろうか? ドクドクと鼓動が重くなる。
もし、家族たちにバレていたら……。
そんな私の不安は、呆気なく的中してしまった。
夜、眠りについてすぐ、私は夢の園の一角へ辿り着いた。そこは洗練された白い石造りの建物と植物が調和する我が屋敷だ。人間の世界と違ってガラスに隔てられない窓からは、鳥や精霊たちがこちらを恐る恐る覗き込んでいるのが見えた。
「セレ」
低い声で名を呼ばれると震えあがりそうになる。視線を向ければ、すぐ近くにシルヴィオ兄様の姿があった。
上質な精霊絹で織られたローブは光を纏って眩いほど。白に近いほどの金髪は、膝にも届くほどに長く滑らかに流れている。顔立ちこそ、サヴァン兄様にも似ているけれど、その表情は怜悧なもので、私を見下ろす視線も鋭い。
思わず俯いて視線を逸らす。それでシルヴィオ兄様から逃れられるわけもないのだけれど。
「プリュネルから連絡が届いた。お前が外界で人間に襲われた、と。間違いはないな?」
「……はい……」
小さな声で頷く。しかし、そうしてから私は焦った。ただ認めてしまったら、絶対にいい流れにはならないだろう。慌てて言葉を添える。
「しかしシルヴィオ兄様。その人間は、なにか呪いにかかっていたようなのです。彼自身が悪かったわけでは……!」
「呪い。外界は呪いが横行するほど治安が悪いのだな。思った通り、ろくな場所ではない。それに、どうせその人間も、善良なお前を食い物にしようと思っていたのだろうよ。人間はエルフに特別な感情を持ちやすいからな」
「そ、そんな。そんなことは、ないと思います。彼は私のことをよく理解しようと努力していました。彼は本当に良い「同居人」で……」
「「同居人」? セレ、今お前は同居人と言ったのか?」
シルヴィオ兄様の言葉に、私はハッと口を噤む。それを見て、兄様は額を押さえ、首を横に振りながらため息を漏らした。
「お前を外界へ出す条件は、サヴァンのそばにいることだった。それなのに、お前はサヴァンとではなく、矮小で愚かな人間ごときと共に過ごしているのか?」
「それは、その、理由があって……」
「言い訳は聞きたくない。お前は人間と共に暮らしていて、ソレに襲われた。そうなんだな?」
「……は、い……」
私は、肯定するしかない。実際、それが事実なのだから。そんな私にシルヴィオ兄様はまた深い溜息を吐き出した。
我がシェルロフィ家の長子であり、次期当主であるシルヴィオ兄様は、この世界に平和が訪れる前から生きている。諍いの絶えない戦争の歴史を見てきたからこそ、彼の眼差しはエルフ以外の者に厳しい。それも、殊更人間に対しての評価は厳しいものだった。
「セレ。お前がサヴァンのごとき愚かな男に心酔していることを、咎めはしないが──」
十分、咎めたい気持ちが溢れ出ている言葉を皮切りに、シルヴィオ兄様はいつものように人間について語り始める。
人間は欲望が強すぎる。だからこそ、精霊と語らうこともマナを操ることもできず、屈強な肉体もなく長命でもないのにあれほど繁殖し、悪知恵を働かせて勢力を拡大したのだ、と。シルヴィオ兄様に言わせれば、人間は平気で嘘をつき、欲のために他者を陥れ奪い、兵器を用いて侵略を繰り返した愚かで野蛮な種族、なのだ。
私はいつだって、兄様に言い返せない。それは歴史的な事実。覆しようのない、確かなことだ。けれど、過去がそうだから、今もそうだとは言えないと私は思う。あの多様な種族が溢れる街で、皆々が衝突を越えて共に過ごしているというのに、人間ばかりがそのままだとは思えない。
それに、欲が深いという点では人間以外の種族もそうは変わらない。我々エルフにしても、時代が変わったにも関わらず安寧の中にいたいと願い、いつまでも郷に籠っているのも、欲ではないのか。
そうした反論を、私はいつも呑み込んでしまう。シルヴィオ兄様の鋭い視線を見ると、どうにも声が出せなくなるのだ。
ひとしきり人間を悪し様に罵ったあと、シルヴィオ兄様は深い溜息を吐き出して、こちらへ歩み寄る。びくり、と身体が引きつったが、逃げるわけにもいかない。じっとしていると、シルヴィオ兄様は私のことを優しくその腕で包み込んだ。
兄様の体は冷たい。こうして密着しても、心が温まらない。アズマとは随分違った。アズマと一緒にいると、私は優しく温かい気持ちにもなれたというのに。
「ああ、私の美しく愛しいセレ……」
兄様は私の気持ちなどお構いなしに、本当に愛しげな声で私の頭を撫でる。その手付きは穏やかなのに、そのことに安心できたことなど、ずいぶん前からなかった。
「兄の気持ちがわかるな? 私は、すべてお前のためを思って言っているんだ」
それはシルヴィオ兄様が毎日のように私へ言い聞かせる言葉だった。
「お前はまだ、我等の中では幼い子どものようなものだ。子どもゆえに、浅はかな夢も見ようし、考えも至らないこともあるだろう。しかし、私にはわかる。お前は人間などと関わるべきではない。本当は今すぐ、この郷へ連れ帰りたいところだ。実際、お前は危ない目にあったのだから」
「……し、しかし、兄様。私は……」
「ああ、わかっているとも。お前の気持ちも尊重したいと兄は思っている」
シルヴィオ兄様は私から離れ、じっとこちらの顔を覗き込んで言った。まるで命令するように、子どもに言い聞かせるように。
「もし次に、またプリュネルがお前の危険を報せるようなことがあれば。私はお前を問答無用で連れ帰る。それこそはお前の夢や理想と、外の世界は違うという証拠だからだ。わかったな?」
「……はい……」
小さく頷くよりほか、私に何ができるだろう。答えを聞いて、シルヴィオ兄様は満足したらしい。笑みを浮かべると、私に背を向けて歩き出す。
「まったく、今度はサヴァンを呼び出さなければ。あの愚弟にひとつ文句でも言わねば気がすまぬ。アレがセレのことをよく看ていれば、そもそもこんなことには──」
そうしてシルヴィオ兄様の背中が遠ざかっていくことに、私は静かな安堵の溜息を零し。
これから私は、どうするべきなのか。見慣れた屋敷の天井を見上げて、目を閉じた。
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