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涙雨

 誰かが亡くなった時の雨は空が悲しんでいると言われているが、その日も篠突く雨が地面を叩き、強めの雨に人々は足早に建物へと入っていった。  通夜の読経が響く中、葬祭会館の入り口は人数はまだそうはいないが、傘を畳む動作等で少々混雑している。  その様子を建物の外で傘を差し待っていた篠田時臣(しのだときおみ)は、入り口脇に立てられた『猪野 充 通夜の儀』と書かれた看板を見て、軽くため息をついた。  梅雨の折、あの日もこんな雨が降っていたなと思い出す。  8日前6月10日の夕方、三鷹のテナントビルの屋上で猪野充(いのみつる)は怯えた目で時臣と対峙し、そして時臣の制止を振り切ってビルから身を投げた。  享年19歳。行方がわからなくなり、両親が警察の他に時臣の元へ依頼をしてきた人物だった。  行方不明…と言うか家に戻らなくなったのは、依頼当初より2週間ほど前だったらしい。  一応家にはー安全なところにいるから心配しないでーとの一言ラインが来たらしいのだがそれきり何の音沙汰もなく心配をしていた所、大学には行っていると言う情報を得た両親は、大学へと向かった。  しかし充を見つけて声をかけた瞬間に充は走り出し、ー心配しないでっていっただろーと叫んでまた行方をくらましたのである。  両親は自力では無理だと悟り、その足で元々お願いしようと思っていた人探しが評判の時臣のところへやってきて、依頼をしたと言うことだった。  両親共に教育者で、依頼の時の様子だと良識のある感じだったから両親を嫌って家を出た訳でもなさそうだし、大学も有名私大で専攻科の助手や准教授に話を聞いても真面目で成績も悪くはないと言っていた。  大学にもきちんと行っており、たまたま学内を調査していたときに見かけた時は友人といたから声をかけなかったが普通に学生生活をしていた猪野充。  とある雨の日に、学校を出てたところから尾行をし、しばらく街中を一人で歩いているところに声をかけた。  が、振り向いて時臣の顔を見た瞬間に、 「うあああああっ」  ひどく怯えた顔で奇声とも言うべき声をあげて傘を放り投げると、すぐ脇の商用ビルへ走り込んで行ってしまった。 「え?」  なにがなんだかわからないまま時臣は追いかけると、猪野充はエレベーターが待ちきれなかったのかその脇のドアを開け階段で上へと昇り出した。 「猪野くん、ちょっと待って。俺は…」  そう声をかけても、猪野充は振り向きもせずに階段を駆け上がり続けている。  何か言っているようだが、時臣も若い体力に付き合うのが精一杯で聞き取りにくい。   必死で階段を駆け上る猪野充にやっとの思いで屋上まで食らいつき、屋上のドアが開いて閉まったタイミングで、時臣も屋上のドアを開けることができた。  はぁはぁと荒い息を吐きながら屋上へ出ると、そこには姿がなくあたりを伺いながら真ん中に向かって歩いていると、今入った入口の左のフェンス側に大きな給水タンクがあった。  屋上の障害物はそれしか見当たらない。  時臣はゆっくりとそれに近づき、右からゆっくりと回り出した。  すると 「来るなああ!」  と叫び声がし、人影が向こう側から走り出したかと思うと、大通りに面したフェンスへと縋りつく。 「来るな!来るなあっ」  左手を横に薙いでー来るなーと仕切りに言ってくるので、時臣も 「近寄らない、近寄らないからそこからもう少しこっちに来てくれないか」  と声をかけるが、時臣が声を発するだけで充はーうあああっーと耳を抑えて悲鳴をあげる。  一体何が起こっているのか解らなかった。  雨は酷くなってきて、音を立てて降り始める。  充は動かない時臣を雨に濡れた前髪を払ってから焦点の合ってないような目で見つめ、そして今度はフェンスによじ登り 「来るなっ!」  と叫ぶ。  その時に見えた目は、本当に心の底から怯えているようで時臣も流石に怯んだ。  しかしなぜかその目が一方で『助けて』と言っている様にも見えて、つい一歩を踏み出してしまった。  その瞬間充の目が何もかも諦めたような目になり、そのまま…時臣の目を見ながら空中へと落ちていった。 「おいっ!」  その声さえもきっと届かなかったであろう距離を詰め、フェンスから下を見ると微かに女性の悲鳴が聞こえ、8階にはその後様々な騒動が聞こえてきたが時臣はフェンスを握って下を見たまま、ここからでもわかるほどじわじわとしたものが猪野充の体の周りに広がってゆくのを見つめるしかなかった。  時臣はもう一度小さく息を吐くと、漸く入れた建物の中で受付のカウンターに香典を渡し記帳をした。  その時受付カウンターの壁際、通夜の会場入り口の脇に1人の男がいるのに気づく。  服装から葬祭会館の社員の様だが、第一印象は随分目を引く男だな、と言うものだった。  年齢は見た感じ30代半ばくらいか。  髪はワックスできっちりと後ろに撫でつけられ、尖った顎と鋭い目つきで記帳が済んで会場へ入ってゆく人々に軽く頭を下げ続けている。身長は時臣と同じくらいか少し低いくらいだろう。  時臣はその男に少々薄ら寒い印象を抱き、あまり見ない様にして通夜の焼香へと向かいながらその男の前を足早に通り過ぎようとした。が、すれ違う瞬間に視線を感じ、ついその男を見てしまった。  男は時臣と目を合わせ、見間違いでなければ口の端を上げて笑っていたように見えた。  目があってしまったと思い目を逸らしたが、その口元が気になって二度見のように振り返ってその男を見たが、もう表情はそれまでの無表情へと戻り、会場へと入る人々にまた頭を下げていた。 『なんだ?』  男に対する違和感を眉根に表して焼香の列に並び、モヤモヤしたまま順番を待つ。  前の人が終わり時臣が祭壇の前に立つと、そのモヤモヤした気持ちを一掃するような弾ける笑みをした19歳の写真がそこにあった。 「そんな顔して笑えるんじゃないか」  自分が最後に見た猪野充は、心底怯えたように自分に来るなと言って、そして諦めた様な目でビルから飛び降りた。  だからそう声に出して呟いてしまい、隣の女性が不思議そうに顔を見てくるのにー失礼ーと頭を下げ、そこから祭壇前両端の親族へと頭を下げて焼香を終わらせる。  再び親族に礼をして会場を出ようとした時に、充の母親がやって来て会場の隅へと引っ張られ挨拶をされた。 「この度は篠田さんにも大変ご迷惑をおかけいたしまして、なんと言ったらいいか…」  時臣は充と2人きりで屋上へ居たために、殺人罪もしくは自殺幇助の容疑をかけられ司法解剖の結果が出るまで『在宅事件』として扱われる処遇を受けた。(※本来『在宅事件』という処遇は、殺人罪には適用されません)  その為に三鷹署、地検の呼び出しを受けたり実況見分に立ち会ったりしていたが、司法解剖の結果他殺の判定は出ず、その間に警察が調べ上げた充の行動からくる両親からの依頼の事実等を鑑みて、自殺幇助も立証されなかったため逮捕には至らず、晴れて無罪放免となった経緯があったのである。充の母はそれを謝罪していた。 「いえ、自分のことはいいんですが、この度は力及びませんで…もう少し早く見つけてあげられたらと、後悔しかないです」  45度に頭を下げて、悔しさの中時臣も謝罪をする。 「そんな、頭を上げて下さい。息子が…自分で…なので誰も止められなかったんですから…」  母親から耐えきれぬ涙が溢れ、時臣も胸が痛んだ。  そんな会話を2.3して、母親も気丈に挨拶に戻らねばと去ってゆき、時臣はその背中を少し見送ると自身もたまらない気持ちになり足早に会場を出ようと出口へ向かう。  そこにはまだ先ほどの男が立っており、今度は普通に頭を下げているその前を通り過ぎた。一応胸のネームプレートで名前だけは覚える様にして会場を後にする。  プレートには葬儀社の名前『蓮清堂(れんせいどう)』というロゴの上に『木下裕二(きのしたゆうじ)』と書かれていた。  傘をとって建物から出ると、いまだ降りしきる空を見上げながら傘を広げ葬祭会館の駐車場へと向かう。  車に乗ったらすぐに吸えるようにタバコを一本口に咥えながら。

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