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第3話

 街路樹のケヤキの木が午前中の瑞々しい光を浴びてきらきらと輝いている。五月の半ばの空は雲ひとつなく、歩道にときおり吹く風は穏やかで心地よい。  ここからは歩いていこう、という総一郎さまの提案を受けて、図書館にほど近い駐車場に車を停めた。特に時間を気にする必要もないので、二人で目的地までの道をぶらぶらと歩く。 「気持ちがいいですね」 「ああ、そうだな。歩いてきて正解だっただろう」 「ええ」  しばらく歩くとじんわり汗が出てくる温度だったが、道路脇に植えられた街路樹の日陰はひんやりして気持ちよかった。平日の午前中は大通りを走る車もまばらで、のんびりとした雰囲気が漂っている。  抜けるような空を見上げて、胸一杯に空気を吸いこんでゆっくり吐き出す。新鮮な空気が体中に運ばれて、ケヤキの新緑のように、体中の細胞が芽吹いてくるような心地になった。 「良かった」  ぽつりと耳に届いてきた言葉に、俺は視線を総一郎さまに移した。 「君はうちに入ってから、ずっと緊張していただろう。少しは気分転換になったかと思ってな」 「えっ」  俺はすっかり驚いてしまった。図書館に同行するように言ったのも、歩いて目的地までいこうという提案も、全部俺のためだったということか。 「……ありがとうございます、総一郎さま」  彼のの心遣いにじんわりと暖かい気持ちが溢れてくる。  いつも抱き着いてきたり手を握ってきたり、わけのわからない行動ばかりしている総一郎さまだが、優しい人なのはこの一か月近くで見てきたのでよく知っていた。  だけど俺みたいな役に立つか立たないか分からない新入りの使用人にまで心を砕いてくれるなんて。  ……と感動に胸を熱くしていると、左手にすうっと温かな温もりがすり寄ってきた。指の一本一本に絡みつき、すりすりと俺の指に擦りつくもの。見ずとも分かる、総一郎さまの右手だ。俺はたまらず「ひょえっ」と声を上げた。 「ちょ、ちょっと! 総一郎さま」  手を離してもらおうとぐいぐい手を引いても、しっかり『恋人つなぎ』された左手は引き抜けない。しかも天下の公道で男と男が、いや違う、雇用主のご子息と手をつなぐなど俺の常識では言語道断である。焦りに焦る俺を見て、総一郎さまは快活に笑った。 「まあいいじゃないか!」  ちっとも良くないです! 俺がそう文句を言う前に総一郎さまは走り出した。しっかり俺の手を握って、しかも全速力で。  お陰で無事に図書館に着いた頃には俺は息も絶え絶えだった。「貧弱だな!」などと笑い飛ばした総一郎さまは、さっさと目的の本を取りに行っている。  俺は開いている閲覧席に腰を下ろし、机の上に突っ伏した。呼吸は落ち着いたというのに、心臓がどくどくとせわしない。  ――なんなんだろう、この感じ。  浮足立ったように、思わず笑い出してしまいそうに胸の中がむずむずしてくすぐったいのだ。俺は机に顔を伏せて込み上げる感情に耐えていたが、やがてのそのそと起き上がった。 「……しゃっきとしなくちゃ」  今は仕事中なのだ。気分を入れ替えなくては。  俺は頭を小さく振って深呼吸をすると、持ってきた鞄の中からノートパソコンを取り出した。空き時間に経理の書類を作ろうと思って持ってきたのだ。  関係書類が閉じられたファイルを出し、起動したパソコンの画面に向かったとき、左隣からふと陰がさした。 「早かったですね。予約してた本ありました? …………ってあれ?」  てっきり総一郎さまだと思って見上げた先には、一人の見知らぬ男性が立っていた。年のころは三十代後半だろうか、すっきりした紺色のジャケットを羽織っている。彼はにこにこ笑って「久しぶりだね、こんにちは」と言った。    こんにちは、と返しながら俺は戸惑った。目の前でさわやかに笑う男性の顔に見覚えがないのだ。 「あの、どこかで……?」  と恐る恐る尋ねると、男性はにっこり笑って隣の席に腰掛けてきた。 「あれ、覚えていないかなー? 前に何回もお店に来てくれたじゃない。俺、『maruyama』っていう花屋やってるんだけど」 「ああ、『maruyama』の」  そういえばと思い出した。奥様のお使いで何度か訪れた店だ。西園寺家の店舗に花を卸している出入り業者でもあった。……でもどうして俺の名前を知っているのだろう。背筋にひやりとしたものが上がってくる。  男はもう一度にこっと笑うと、そのまま身体を近づけてきた。 「ずっと和希くんが来るのを待ってたんだけど、全然来てくれないからお屋敷の方に会いに行っちゃおうかと思ってたよ。僕のこと焦らしてたの? だったら悪い子だなあ」 「え……?」  わけのわからない言葉に固まっていると、男はテーブルの上にあった俺の左手の上に自分の手を乗せてきた。 「会いたかったよ、和希くん」  じっとりと湿った他人の手のひらの感触に、喉の奥から吐き気がこみ上げる。一気に体中から汗が噴き出す。  「っ……あ……」  震える声は言葉にならない。頭が真っ白になりかけたとき、地を這うように低い声が響いた。 「何をしている?」  驚いて顔を上げると、なんと総一郎さまが男のすぐ後ろに立っていた。総一郎さまはまっすぐに男を見据え、温度のない声で繰り返す。 「何をしていると聞いているのだが? 君は『maruyama』の店主だろう。なんの許可があって彼に触れているんだ? 俺には和希が嫌がっているように見えるのだが」 「……そ、総一郎様!」  後ろから突然現れた総一郎さまの剣幕に恐れをなしたようで、花屋の男は一瞬で青ざめた。俺の手に乗せていた手を慌てて引っ込めると、「いや僕はなんにも」などともごもご言いながら、逃げるように去っていく。  総一郎さまが大きなため息をついた。 「やれやれ、油断も隙もない……。あそこの店との取引は中止だな」  呆然と男が去っていった方向を眺めていた俺は、総一郎さまの言葉にはっと我に返った。慌てて頭を下げる。 「す、すみませんでした……。俺のせいでご迷惑を……!」  手を握られたくらいでこんなに取り乱すなんて、なんと情けないんだろう。そのうえ西園寺家にも迷惑をかけてしまった。  「待ってくれ。君はちっとも悪くないだろう。悪いのはあの男だ」 「でも、俺、が……」  出した声はみっともなく震えていた。涙が出そうになり、俺は慌てて唇をかむ。 「君……もしかして何かされたのか」 「大丈夫です、別に何も……」 「でも顔色が悪いぞ。もし何かされたなら言ってほしい。西園寺家としても――」 「大丈夫ですったら!」  俺の大声に、総一郎さまが目を見開いた。 「す、すみません……あの、ほんとに俺、大丈夫ですので!」  俺は視線をそらして立ち上がった。自己嫌悪と申し訳なさで目を合わせることができない。 「ちょっとトイレに行ってきます!」  返事も聞かずに飛び出した。トイレを目指してほとんど小走りといえるような早歩きをしながら、俺の頭の中は、総一郎さまの前から消えたいということでいっぱいだった。  

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