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第5話

 総一郎さまの部屋には立派な本棚があり、そこには所狭しと新旧さまざまな背表紙の本が並んでいる。ほぼ毎日掃除や雑用などで部屋に入るが、そのたびに本が増えているような気がするのは気のせいだろうか。 「こちらに座って話さないか」  本棚に見入っていた俺は、総一郎さまの声に振り返った。彼は部屋の中央のソファに腰掛け、自分の隣の座面を叩いている。 「あっ、いえ。俺はこのままで結構です」  使用人がソファでくつろぐなどおこがましくて、俺はぶんぶん顔を振って答える。すると総一郎さまは「頼む、座ってくれないか」と小首を傾げた。  俺はその顔を見て「ひぇ」と悲鳴を上げたくなった。    家の外は年下であることを感じさせないくらい堂々とした態度なのに、何か俺に頼みごとをするときはこんな風にかわいらしく首を傾げるのだ。はっきり言ってずるいと思う。だって俺は、今までこの頼み方をされてはっきりと断ることが出来た試しがない。  俺は「はい」と仕方なく頷き、総一郎さまの隣に腰を下ろした。 「体調はどうだろうか」 「あ、はい……。問題はないです」 「なら良かった。今日は一日中様子がおかしかったからな。良太郎も心配していた」 「……すみませんでした」  俺が申し訳なさから謝ると、総一郎さまは笑って首を振った。 「謝ることはない。人間なら調子が出ないときだってある」  総一郎さまは本当に優しい人だと思う。  今日だって、図書館でいきなりトイレに駆け込んでしばらくの間戻ってこない俺を辛抱強く待っていてくれた。聡い彼のことだから、俺の顔色の悪さもおかしな様子にももちろん気づいているだろう。しかし訳を聞くことはなく、ひたすら俺の体調を気遣ってくれた。  俯いた俺の肩に総一郎さまの手が乗り、ぽんぽん、と優しく叩く。その手のひらの励ましに安心して、どん底まで落ち込んでいた俺は、ずっと抱えていた心のわだかまりを聞いて欲しくなってしまった。 「実は俺、ああいうことが多くて……」  総一郎さまは一瞬動きを止めたが、すぐに穏やかな声で聞き返してくれた。 「ああいうこととは?」 「今日の『maruyama』の人みたいなことです。なんて言ったらいいんだろう、変な人に気に入られちゃうというか……。俺は普通にしているつもりなんですけど、きっとどこかおかしいんでしょうね。家族にも、友達にも、勤めてた会社にもたくさん迷惑かけちゃって」  物心ついたころからそうだった。  小学校の頃の担任の先生や、中学の時の部活の顧問の先生、塾の講師、仲良くしていた友人の兄。最初はただ親切なだけの人が、だんだん手を触ってきたり肩を抱いてきたり、気がつくと距離感がおかしくなっている。  最後に営業として勤めていた建築会社では、上司である課長と取引先の部長とが俺を巡って揉めに揉め、『お願いだから辞めてくれ』と社長に言われて退社した。 「俺はきっと、疫病神なんです」  本当はどこの場所も去りたくなかったし、誰のことも傷つけたくなかった。でもこのおかしな体質があるかぎり、出来るだけ目立たないようにひっそりと生きていくしかないのだろう。  情けなさに涙が出そうになり急いで俯いた。総一郎さまは黙って立ち上がると、ティッシュを二、三枚取り俺の顔に押し当ててくれた。 「和希は疫病神なんかじゃないよ」  優しい声につられて顔を上げると、総一郎さまはまっすぐに俺を見ていた。 「俺も良太郎も、母さんや父さんだって、君にたくさん助けられてる。いつも頑張ってくれてありがとう」  温かな手のひらが、優しく肩を撫でる。 「俺は和希がここにいてくれて嬉しい。君は仕事が早いし、気が利くし、そして誰も見てないところでも手を絶対に抜かない、人に優しくできる愛情に溢れたすばらしい人間だ。おかしいなんて言わないでくれ」 「総一郎さま……」  俺は総一郎さまが渡してくれたティッシュで顔を覆ってしばらくの間震えた。本当に優しくてすばらしい人間は俺じゃない、総一郎さまの方だ。身に余るほどの言葉をもらって、俺の心は暖かいもので満ちあふれた。  でもなんか悔しい。 「俺の方が年上なのに……」  そうくぐもった声で文句を言うと、総一郎さまは「そうだったな」と小さく笑う。  俺が盛大に鼻水をかみ終わって落ち着いたころ、総一郎さまが「ところで」と切り出した。 「君に聞きたいことがあるのだが」 「はい、なんでしょう?」  改まって一体なんだろう。  総一郎さまは普段とても率直なものの言い方をする。もちろん他人を傷つけるようなことは決して言わないけれど、こんな歯にものが挟まったような話し方はしない。何かを口にする事を躊躇っているような、迷っているような気配がした。 「俺は和希によく触るだろう。嫌ではないか」 「……えっ」  思ってもいなかった言葉に、俺は口をぽかんと開いた。総一郎さまの言葉の意味を考えて、(え、というか……)と俺はもう一度驚く。  今の今まで何の遠慮なしにあんなに触っておいて、今さらそんなことを言い出すのか。  唖然とする俺には気づかず、総一郎さまは小さな声でぼそぼそとしゃべり続ける。 「今日図書館で見知らぬ男に手を握られている君を見て、ようやく気づいたんだ。君はあのとき真っ青になっていた。もしかしたら他人に接触されるのに苦手意識があるのじゃないかと。俺との接触も、もしかしたら苦痛だったのではないか?」  いつも自信に満ちて切れ上がっている目尻も、今は悲しげに垂れ下がっている。初めて見る総一郎さまの表情だった。 「もしそうだったら君には申し訳ないことをした」  この通りだ、と頭を下げられて俺は焦った。 「ちょ、ちょっと! 頭を上げてください、総一郎さま! 俺は別に苦痛なんかじゃ……!」  確かに最近はちょっとやり過ぎだし場所も選ばないから困ってはいるけど、別に今日の男性ほどに不快かというと決してそんなことはない。  ん? 不快ではない?  自分の思考に首を傾げた。不快か不快じゃないかと聞かれたら、決して不快じゃない。ちょっと頻繁すぎて、人がいるところでされるのが嫌なだけで。では、ほどほどの回数で、人がいないところでされる分には……? いいのか、俺……? 「……っ」  瞬間脳味噌が沸騰したような衝撃を感じた。首筋から頬にかけて熱が上がってくる。俺の異変に気づいた総一郎さまが、顔をのぞき込んできた。 「和希?」 「あっ、いや。その、違くて」  しどろもどろの俺を眺めて、総一郎さまは目を瞬く。 「違うっていうのは、不快じゃないってことに対してじゃなくて、というか全然不快じゃないっていうか、全然不快じゃないから困るっていうか……」  言葉を重ねるほどにドツボにはまっている気がするが、訳のわからない言葉は止まらない。そんな俺を見つめて総一郎さまはぽかんとしていたが、やがてがばっと抱き着いてきた。 「んぎゃっ、ちょ、そう、いち、ろうさ……」  太い腕で抱き込まれ、頬に固い胸板が押し付けられる。じたばた暴れて抜け出そうとしていると、総一郎さまの小さな声が聞こえた。 「少しだけでいいから、このままで」  その切なげな声を聞いたら、俺の身体はぴくりとも動かなくなってしまった。  総一郎さまの身体に触れている頬が、腕に包まれた背中が熱い。どくんどくんと、体中に血が巡る音がする。  これ、総一郎さまの心臓の音……?   そう思った瞬間、ぶわっと身体の奥から甘い疼きが湧き上がった。彼の早い鼓動のリズムに合わせるように、俺の心臓の音も強く早くなっていく。  俺はぎゅっと目をつぶり、自分の身体の中と外から二重になって響いてくる二つの鼓動の音をいつまでも聞いていた。  

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