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第8話
「ああ、もう駄目です……もう穴に埋まりたい……それか記憶を全部消してほしい……恥ずかしくて死にそうです……」
総一郎さまの部屋のベッドの上、いつものように彼に後ろから抱きしめられながら俺は両手で顔を覆って項垂れた。そんな俺を総一郎さまは「はははっ」と笑い飛ばす。
「大丈夫だ和希、問題ない。すべて丸く収まったのだからいいじゃないか」
「全然丸く収まってないです」
いくら動揺していたとはいえ、旦那様と上司の前で総一郎さまと濃厚な抱擁をかまして大号泣してしまったのだ。旦那様と黒沢さんが俺たち二人を見守る視線の生ぬるいこと生ぬるいこと。……ってあれ?
「どうしよう、旦那様たちに誤解されたんじゃないでしょうか」
「誤解?」
「はい、俺たちが、その……」
なんと言っていいかわからず、俺は口をつぐんだ。
総一郎さまが俺に好意を抱いていることはなんとなくわかるのだが、きちんと言葉にされたことがなかったのだ。当然俺たち二人の関係を表す言葉などない。俺が口を閉じたり開けたりしていると、総一郎さまが実にあっけらかんと言い放った。
「ああ、それだったら知っているよ。俺が和希に懸想していることは」
「は……?」
知っている? 旦那様が、総一郎さまの気持ちを?
「え、なん、なんで⁉」
「なんでと言われても、俺が話したからだ。そのうえで君を秘書に付けてもらえるように頼み込んだ」
信じられないと俺は頭を抱えた。
「でも俺はただの使用人で普通の庶民だし、あなたの秘書だなんて」
「君の気持ちを確認しなかったことについては申し訳なく思っている。だけどこの方法以外、君を俺のそばに置いておく方法を思いつかなかったんだ。まあなんとかなる! ともに励もう!」
総一郎さまは快活に笑っているけど、俺は全然笑える心情じゃない。というか俺をずっとそばに置きたいだなんて、なんて熱烈な言葉なんだろう。
それに総一郎さまは『和希に懸想している』とはっきり言っていた。俺の勘違いじゃなければ、懸想って好きと同じ意味だ。
正直に言うとかなり嬉しい。だがよくわからないこともある。俺は汗ばむ手を握りしめながらしどろもどろと口を開いた。
「あの、どうしてそこまで俺を? だって俺たち、知り合って二か月も経ってないじゃないですか」
「……うん、それはまぁそうなんだが」
総一郎さまはそう言ったきり、しばらくの間黙っていた。そして軽く息を吐き、俺の身体をぐるりと反転させた。正面から向かい合う形となり照れくさくなったが、ちらりと伺い見た総一郎さまの顔は今までにないくらいに真剣だった。
「和希、初めて会ったときのことを覚えているか?」
「え? あ、ここに勤め始めたときですか?」
そういえば初めてこの西園寺家の館で引き合わされたとき、総一郎さまは俺の顔を見て、なぜかとても驚いた顔をしていた。だがそれが何なのだろう。
「違う、そうじゃないんだ。俺たちはもっと昔に一度会っている」
「どういうことですか?」
俺が首を傾げると、総一郎さまは「やはり覚えていなかったか」と視線を落とした。
「俺は昔、変質者に襲われたことがあったんだ。10歳の時だ」
「え……」
「学校からの帰り道だった。いつもは家の車で送り迎えしてもらってたのだが、その日だけ迎えが遅かった。学校の門の前で待っていたら猫を見かけて、ついつい後を追いかけてしまって」
猫は近くの公園へと入っていき、総一郎さまも初めて公園というものに足を踏み入れた。そして茂みの中に消えていった猫を探していたとき、男に後ろから羽交い絞めにされ公衆トイレの中に引きずり込まれそうになったというのだ。
「そこに偶然通りかかったのが和希だった。君は俺たちを見つけるとすぐさま持っていた防犯ブザーを引いてな。驚いた変質者が逃げた後、迎えの車が来るまで君はずっと俺に付き添っていてくれた。震えながらも必死に俺の頭を『大丈夫だよ』と言いながら撫でてくれたんだ」
総一郎さまの話に、だんだんと記憶がよみがえってきた。確か中学生のとき、公園で子供を助けたことがあった。
「覚えてます。あのときの子が総一郎さま? ……俺はてっきり女の子だとばかり思ってました」
そう言うと、総一郎さまは苦い顔で笑った。
「俺は小さいころ発育が遅くて、身体がとても小さかったんだ。和希が俺のことを女の子だと勘違いしても仕方ない。だからこそだと思うが、あの時の君は格好よく見えてな。ヒーローだと思った」
「ヒーローだなんてそんなこと……。だって俺、何もしてない。何も出来なかった」
あのときの俺は、みっともなく震えながらようやく防犯ブザーを引いただけだ。しばらくの間怖くて動けなかったし、それで言えば当時10歳の総一郎さまの方がよっぽど落ち着いていたように思う。
だけど総一郎さまは微笑んで首を振った。
「そんなことはない。震えながらも必死に俺を助けてくれた君は、10歳の俺にとって最高に格好いいヒーローだったよ。ずっと忘れられなかったし、黒沢に君のことを調べさせたりもした……たぶん初恋だったんだと思う。だから君がこの屋敷にやってきたときは驚いたし、奇跡だと思った」
総一郎さまがまっすぐに目を覗き込んでくる。
「好きだよ、和希」
言葉が出なかった。総一郎さまの言葉が、真摯な目が、冷え切って縮み上がっていた心の奥のしこりを溶かしていく。
ずっと自分は疫病神だと思って生きてきた。どんな場所にいても、何をしていても、自分という存在がある限り誰かに迷惑をかけてしまう気がしていた。それは恐怖とも絶望ともつかない冷たく寂しい感情で、常にまといつくその考えは自分の身体にまでこびりついている。これからだって決して消えることはないだろう。
それでも、こんな俺でもいいと、好きだと真摯に求めてくれる人がいる。
「俺も、好きです」
気が付くと俺はそう口にしていた。そうすると体の芯からまっすぐで確かな思いが突き上げてくる。
「あなたのことが大好きです」
総一郎さまは目を見開き、そしてゆっくりと瞬きをした。
「それは本当か?」
「はい」
「本当に?」
「……本当ですよ」
ふっと笑いが込み上げた。俺の気持ちなどとっくにバレていたとばかり思ったが、本当に気が付いていなかったらしい。それなのにあんなにちょっかいをかけたり自分の秘書にしようとするのだから、本当に総一郎さまという人間は俺の理解の範疇を軽々と超えていく。
総一郎さまは本当に驚いているようでしばらくパチパチと瞬きをしていが、急に破顔した。
「そうか、そうか!」
総一郎さまが晴れやかに笑った次の瞬間、俺の身体はぶわっと宙に浮いていた。
「ひっ」
一瞬何が起きているのかわからなかった。総一郎さまの力強い二本の腕に両脇を支えられ、俺の身体は天井に頭をぶつかりそうになるほど高く掲げられたのだ。
た……高い高いだ。小柄とはいえ成人男性を、しかも四つも年下の男が、軽々と。
俺はあわあわと全身を強ばらせることしかできない。
「和希も俺のことが好きか! それでは両想いだな!」
総一郎さまはベットの上に立ち俺を頭上に掲げながら、嬉々として目を輝かせた。
「ちょっと! 怖いっ! 怖いです!」
申し訳ないけど俺はそれどころじゃない。いかに総一郎さまが身体を鍛えていようと、こんな大人になってからの高い高いは恐怖でしかない。下ろして下ろしてと顔を青くする俺を快活に笑い飛ばすと、こともあろうか腕の力を急に抜いた。
「んぎゃっ」
俺は総一郎さまの上にもろに落下した。俺の身体を受け止めて、総一郎さまはベットに後ろ向きに倒れ込む。ぼすんとベットからは大きな音がして埃が舞い散る。
「だ……大丈夫ですか!?」
俺は急いで身を起こした。まともに身体の上に落ちたのだからいくらなんでも痛かっただろう。
「……死にそうだ」
「えっ!」
やっぱり痛かったか! 焦って総一郎さまの顔をのぞき込むと、彼はゆっくりと微笑んだ。
「幸せで死にそうだ……」
細められた彼の目の際が、ほんのり染まる頬や耳たぶが、だんだん赤みを増し神々しく光るようだった。
たまらず俺はゆっくりと覆い被さり、彼の薄い唇に自分のものをくっつけた。唇を離すと、総一郎さまは大きな目をこれでもかと見開いている。初めてみた年齢相応の表情だ。可愛いな、という感情が湧いてきて俺は微笑んだ。
「あなたが幸せなら俺も幸せですよ」
「和希」
総一郎さまが素早く身体を起こし、身体の上下を入れ替えられた。俺の身体はベットに沈み、ぎしりとスプリングが軋む。
彼の分厚い身体が密着し、至近距離で目があった途端にかぁっと体の全部が熱くなった。
総一郎さまの目の真ん中には強烈な光が宿っていた。欲しい、欲しいと突きつけてくるような激しい感情が伝わってきて、背骨の下から上まで甘いしびれが駆け上ってくる。
「好きだ、和希、ずっと好きだった」
彼の顔がゆっくり近づいてくる。俺が目を瞑ると、ちゅっと可愛らしい音ともに口づけられた。
上から押さえつけられるように何度も角度を変え上唇を吸われ下唇を吸われ、わずかに開いた唇の間を舌先で舐められる。たまらずもっと口を開くと、熱い大きな舌が押し入ってきた。
「……っ、ん……」
舌同士が触れた蕩けるような感触に、下腹が重くなる。初めて知る総一郎さまの匂いに、味に、頭が沸騰しそうなくらい興奮した。熱い息を分け合い、そして奪い合う。
「はぁ……」
ようやく唇が離れた。俺の濡れそぼった唇を総一郎さまが親指で拭う。一心にこちらを見つめる彼は、すっかり欲情しきった男の顔だった。
「いいか?」
総一郎さまが俺に聞いた。
何を? なんて野暮なことは俺も聞かなかった。総一郎さまが望むことがどんなものであっても、返事なんて決まりきっている。相手がもっともっと欲しいのは俺だって一緒だ。
「はい」
俺は頷き、首の後ろに腕を回した。ゆっくりと近づいてくる濡れた唇。俺はその愛しい人を受け入れようと目をゆっくり閉じた、その時。
――トン、トン、トン
かすかに聞こえた物音に、俺たちはビクッと身体を揺らした。鼻先がくっつきそうな至近距離で、お互いの目を見つめ合う。
「聞こえましたか?」「聞こえたよな」と目だけで語り合い、固唾を呑んで音が聞こえた方向に意識を集中させる。
――トン、トン、トン
するとやはり聞こえた。遠慮がちでありながらも、しっかりとした意志を持った、部屋の扉をノックする音だ。
えっ? えっ? と俺が焦り始めた時、
「まずいぞ」
と総一郎さまが低く唸った。
「鍵を閉めていない」
何だって!? なんで鍵を閉めてないんだ!? 俺が衝撃で言葉を失っていると、
「兄さん……? 和希さん?」
遠慮がちな良太郎くんの小さい声が聞こえた。一拍置いて、キイィと扉が開き――。
「ぎえっ!」
焦った俺は、おかしな悲鳴をあげて総一郎さまの胸板を力いっぱい突き飛ばしたのだった。
(おわり)
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