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読み切り

一瀬朝 (いちせあさ)のあだ名は「ホームレス君」だ。 身長は180㎝もあるが、猫背で長身者としての迫力は相殺される。それは、まだ良い。朝が異端児として有名なのは、その不潔さだ。 伸び放題のボサボサの髪には、数え切れない頭垢が付いており、 白いはずのシャツは洗っていないのか、黄色に変色している。近付けば、得体知れない匂いで失神するとまで噂されている。まさに、あだ名通りだ。  今岡慎司(いまおかしんじ)にとって、最も許し難いことは、そのホームレスが幼い頃からの幼馴染みと言うことだ。家が隣同士で、何をさせてもドジを踏む朝を、慎司は昔から面倒をみていた。小学生の頃に、朝の両親が離婚し、両方ともお荷物の息子を祖父に押し付けて家を出た。それから、朝は変わってしまった。 元々不器用だが、こんなに酷い状態ではなかった。 生きる為に必要な食事ですら、朝はまともに出来ない。朝は全てに無関心で無気力になってしまった。 元々面倒見がいい慎司は、そんな幼馴染みを見捨てることが出来ずに、朝の身の回りの世話をしてきた。学校でも、朝の世話役を期待されてきた。 虫の大国と化した朝の部屋の掃除をしたり、注意をしなければ、一週間も風呂に入らない朝の髪や体を洗ったり、次の日の授業の教科書を準備したり……まさに赤子の世話をしているようなものだ。結局、慎司は高校に入学するまで、全ての時間を朝の世話に費やした。 高校生になり、生まれて初めて女の子から告白をされた時、慎司ははっと我がに返った。自分は一体何をしているんだと。ただ家が隣と言うだけで、貴重な10代の青春を男の世話で終らせるのか。そう思った途端、 いつも傍について離れない朝が鬱陶しくなった。 その気持ちが徐々に態度に表れ、慎司は朝を避けるようになった。「慎ちゃん」と駆け寄られても、無言で立ち去り、無視をする。 一緒に登校しないし、一緒にご飯を食べない。慎司が身の世話をしなくなると、あっと言う間に朝はホームレスと化した。 こんなに露骨に態度に出しているのに、超が付くほど鈍感な朝は変わらず「慎ちゃん」と慎司に付き纏った。 朝が笑う度に、慎司は感じる必要がないはずの罪悪感で苦しめられ、段々と苛々し始めた。そして、そのストレスはある日、複数のクラスメイト達と一緒に帰っている時に、唐突に爆発した。 不潔で不気味な朝の話題でクラスメイト達は盛り上がり、 慎司は無言で聞いていた。しかし、先月付き合い始めた彼女の朝倉真弓から朝のことをどう思っているのか聞かれ、今まで溜まっていた不満を慎司は思わず打ちまけた。 いい加減うんざりなんだよ。付き纏われ迷惑なんだよ。何で、俺があいつの世話をしなければいけないだよ。あいつ、臭いし、汚いし。もう関わりたくない。 罪悪感を掻き消すように、次々と朝を非難する。真弓はケラケラと笑いながら「何だ。慎司君もホームレス君を嫌っているのね」と慎司の腕に甘えるように触れた。 その時、ふと顔を上げると、朝が直ぐ傍の校門にひっそりと立っていた。聞かれた、と思わず血の気が引いていく思いだったが、朝はいつものように「慎ちゃん」と呼んだ。そんな朝にイラつき、慎司は「もう俺を待つな」と吐き捨て、真弓の手を繋いで、無視して通り過ぎた。 ───絶対に振り返らなかった。 +++ ついに童貞を卒業する日が来た。 帰宅途中、突然、真弓から部屋に遊びに行きたいと言われ、 慎司は真弓を部屋に上がらせた。家に誰もいないことを確認すると、突然、真弓は制服を脱ぎ出した。 明らかに誘っている真弓の眼差しに、慎司はゴクリと唾を飲み込む。鼓動が激しくなり、慎司は誘われるようにベットの上に真弓をゆっくりと押し倒した。 ほんのり頬を赤める真弓の可愛さに、慎司の下半身は既に熱くなり、何度も失敗を繰り返しながら、漸く真弓の服を脱がせる事に成功した。柔らかく大きい胸。白く滑らかな肌。良い香り。何もかもが不潔な幼馴染みと異なる。 気分が最高潮になり、自分の分身が爆発寸前なった時、突然、 ドアを叩き壊すほどの激しさでノックされた。母親が帰ってきた、と思った二人は飛び上がるほど驚き、慌てて服を着替える。真弓に部屋の隅に隠れるように指示をすると、 慎司は心臓が飛び出すほど緊張しながらドアを少しだけ開けた。 「慎ちゃん、慎ちゃんっ……!」 ドアの隙間から見えたのは、顔を真っ青にした朝だった。 母親でない事に安堵した途端、邪魔をされたことに対する怒りがムクムクと沸き起こった。無意識に目尻が釣りあがる。 「慎ちゃん、慎ちゃん、ぼ…僕…っ」 ただ、慎司の名前を繰り返す朝に、慎司が切れた。 「何だよっ!俺の名前ばかりを呼ぶなっ!!」 怒鳴った慎司に、朝は目を瞠って息を飲み込む。暫くして消えかかるほどの声で「ごめん」と謝って俯く朝に、慎司は心底うんざりとなった。 「俺は忙しいだよ。いつまでも慎ちゃん、慎ちゃんと俺に頼るな。二度と俺に話しかけるな。もう帰れ!」 バンと叩きつけるようにドアを閉める。長い沈黙の後、朝が踵を返して階段を下りる気配。漸く邪魔者は消えた、と胸を撫で下ろした慎司に、真弓が抱きついた。 念願の童貞を昨日卒業し、清々しい朝を迎えた慎司は、欠伸をしながら階段を下りた。 「慎司っ!こんな時間まで何をしているの!早く、朝ちゃんの家に行って手伝いなさい」 玄関で慎司を咎める母親は何故か喪服を着ていた。首を傾げる慎司に、母親は困ったように顔を顰める。 「朝ちゃんから何も聞いていないの?朝ちゃんのお祖父ちゃんが昨日の夕方に亡くなったのよ」 「───え」 頭が一瞬真っ白になる。千切れんばかりに目を見開いた慎司に、 母親は「早く顔を洗って準備しなさい。私は手伝いがあるから、先に行くわ」と言って出掛けた。 慎司は長い間、ただ玄関のドアを凝視する。 次の瞬間、慎司はパジャマのまま家を飛び出し、隣の一瀬家に駆け込んだ。喪服で統一された静かな場所に、突然青いパジャマ姿で現れた慎司に、誰もが驚いたが、慎司は怯まずに朝の姿を探し回る。1階に朝がいないと分かると、2階に駆け上がり、もう何ヶ月も訪れていない朝の部屋のドアを開けた。 その途端、強烈な臭いに鼻が溶けてしまいそうになり、 一瞬怯んだが、慎司は意を決して部屋に入った。 朝は、足の踏み場がないほど散らかった部屋の隅で膝を抱えて座っていた。 「……朝」 静かに声を掛けると、朝はのろのろと顔を上げた。朝は別に泣いていなかった。いつもと変わらない表情。感情を表現することを知らない朝は、泣くことが出来ない。 そんな幼馴染みが悲しくて、慎司は大股で近づくと、 朝を攫うように抱き締めた。何日も風呂に入っていない朝を、躊躇いなく抱き締めた。真弓と大きく異なる体と匂い。 「悪かった。昨日は本当に悪かった」 慎司は素直に謝った。必死に謝った。 朝にとって、家族は亡くなった祖父しかいない。小学生の頃、親が離婚した朝は、両方から「いらない」と言われた。見栄ばかりを重視する朝の親は、ドジで頭が悪い朝は愛さなかった。出来の悪い息子をお互いに押し付ける両親を、朝は傍でじっと見ていた。 泣きもせずただ俯く朝を、慎司は思わず抱き締めた。 誰もいらないなら、俺がお前を貰う。 泣かない朝の代わりに、慎司はそう泣き喚いた。だから、傷つくな。俺がお前を貰う。お前の面倒をみる。親なんか必要ない。そう断言 する慎司を、朝は嬉しそうに「うん」と頷いた。 ただ、慎司は朝が可哀想だった。朝が誰よりも可哀想だった。 「慎ちゃん……好き」 唐突に朝はそう呟いた。慎司は困ったような表情で「俺が謝っているのに何を言っているんだよ」と咎めた。すると、朝は小さく笑った。 久々に見る朝の笑顔に、慎司の胸は握り潰されたように酷く痛んだ。 「好き、慎ちゃん」 朝の静かな告白を、慎司は聞こえない振りで聞き流した。だけど、何故か切なくなって涙が零れそうになった。 無意識に慎司は、朝の背中に爪を立てた。 +++ 朝の視線を完全に感じなくなった。 今までどんなに慎司が無視し、暴言を吐いて突き放しても、朝は寂しそうな眼差しで、ずっと慎司を追いかけていた。だが、あの日を機会に、朝は慎司を見ることをやめた。 鬱陶しい視線が無くなり、慎司にとって喜ばしいことのはずだった。だけど、原因不明の、胸に小さい穴が出来た。 「あれ、ホームレス君じゃない?」 教室移動で廊下を歩いていると、真弓が足を止めて窓の外を指した。 朝の名前を聞いた途端、何故か鼓動が早くなり、慎司は鬱な気持ちで真弓が指した方向を見上げた。 第二校舎の美術室の窓から、絵を描いている朝の姿が視界に映る。頭が悪く不器用な朝だが、絵だけは昔から上手かった。絵を描く時、朝は一番良い表情をする。その真剣な横顔に、思わず ドキッとしてしまった。 ───と、前に座っている佐伯豊が朝に声を掛けた。朝に話し掛ける高校生など、この世に自分だけだと信じていた慎司は思わず眉間に皺を寄せた。 「えー、信じられない!あの佐伯君がホームレス君と話をしている!」 当高校創立以来、前代未聞の美少年の佐伯と、不潔で汚い朝が話する光景が信じられないのか、真弓はそう吐き捨てる。 その時、佐伯に何かを言われ、朝が微かに笑った。 「───」 信じられなかった。視界に映し出された「それ」が信じられなかった。 朝は絶対に慎司以外に笑顔を見せない。絶対に誰にも笑ったりしない。 慎司だけに、笑顔を見せる。慎司だけに───…。 頭に血が昇って感情が高ぶる。これ以上、見ることが出来ずに、 慎司は視線を引き剥がすように逸らすと、早足で歩き出した。驚いた真弓が必死に追いかけるが、慎司は徒歩のスピードを更に速めて立ち去った。 毎晩、慎司は朝に夕食を運んでいる。 朝の食事の面倒を見ていた祖父が亡くなり、朝は見る見る痩せて行った。 元々、朝は人間離れした食生活をしていた。一日中何も食べなくても平気な人間だ。食べることを面倒臭いと思っているのだから、下手したら、餓死しかねない。危機感を持った慎司は毎晩、朝に食事を運ぶようになった。 まだ今後どうなるか未定な朝は、独りで一瀬家に暮らしている。祖父が残した財産があるが、朝にそんな大金を扱う能力があるはずもない。それに、まだ、未成年と言うこともあり、現在、家を出た両親の間でどちらが朝を引き取るか、話がされているようだった。 相変わらず鍵をかけない朝の家に勝手に上がって探すと、 朝はリビングでテレビを見ていた。だが、テレビには映像は映っていない。 朝は真っ黒の画面をただ見つめている。昔から朝は不思議な子供だった。 背後から声を掛けると、朝は「慎ちゃん」と喜んで駆け寄ってきた。慎司はテーブルの上に食事を並べると、食べろよ、とどこか苛付いた口調で言った。そんな不機嫌な慎司を気が付いているのか、付いていないのか、朝は「う、うん」と頷くと、言われた 通りに食べ始めた。小学生でさえもっと綺麗に食べるのに、と呆れるほど、朝の食べ方は汚い。ぽとぽととテーブルの上に落す。 「……お前、佐伯と仲が良いのか」 思わず声が低くなり、慎司は自分でも驚いた。 「佐伯、優しい」 「……ふーん」 胸の奥が冷たくなるような感覚だった。それなのに、何故か目尻が 熱くなる。そんな顔を見られたくなくて、慎司は椅子を蹴るように立ち上がった。朝が見上げる。 「帰る。後は自分で片付けろよ」 視線を逸らしたまま吐き捨てた後、慎司は誰もいない広い家に朝を残して出て行った。しかし、慎司は家に入る前に、何度も足を止めて振り返る。そこに人の気配はなく、ただそれだけのことに泣きそうになった。 以前なら、朝は「慎ちゃん」と慌てて慎司を追いかけていた。必死に慎司に縋り付いていた。置いていかないで、と慎司の後を追いかけていた。 朝から解放されたい、そう願っていたはずなのに、胸がキリキリと痛んだ。 +++ ───ホームレス君が転校したらしいよ 1時間目の授業後、噂を聞いたクラスメイトがそう言った。慎司はその瞬間、クラスメイトを掻き分けて一目散に走った。 唖然とするクラスメイトを尻目に、上履を履いたまま、慎司は全速力で運動場を横切って学校を後にした。必死に走った。 最初、朝の家に行ったが誰もいなく、慎司は直感的に駅に向かって一目散に走った。 何が自分を走らせるのか。何故、こんなに必死になるのか。どうしてこんなに不安になるのか、自分のことなのに本当にわからなかった。 駅のホームの入口に着いたのは、それから20分後だった。 シャツがべっとり濡れ、呼吸を整える暇もなく、慎司は必死に朝の姿を探した。財布を持っていない慎司は駅員に事情を説明し、駅の改札を抜けて辺りを見渡す。と、見覚えのあるシルエット。誰なのか分かるのと同時に慎司は「朝」と大声で叫んでいた。 「慎ちゃん」 両手に大きい鞄を持った朝は驚いたように振り返った。慎司は大股で 駆け寄ると、突然、バンっと朝の頬を殴った。朝の両手から鞄が落ちる。 「何で……何で俺に何も言わねえだよっ!」 裏切られた、そんな気持ちに近い。悔しさに目尻に涙が浮かびそうになった。ずっと朝は自分だけには 何でも話すと信じていた。何でも自分に話すと、自惚れていた。ずっと面倒を見てきた。それなのに。 「……慎ちゃんにこれ以上、嫌われたくなかったから」 長い沈黙の後、朝は殴られた左頬を拳で拭ってぼそりと呟いた。そして顔を上げた慎司に、朝ははにかむように笑う。 「声をかけるな、と言われたから。だから、それを守った」 この時、慎司は初めて、自分の言葉が凶器になることに気がついた。 感情に任せて吐き出した慎司のその場だけの言葉は、鋭い刃物と化する。 昔から、朝は出来るだけ慎司が言ったことを守ろうとする。必死に慎司に嫌われないように、努力をしていた。食事すら無気力のはずなのに……胸が張り裂けそうだった。 朝は何も変わっていない。何一つ変わっていない。変わったのは、自分だった。 「最後に慎ちゃんに会いたい、と願ったら、叶った」 嬉しい、素直に喜ぶ朝の眼差しを、慎司は真っ直ぐと見ることが出来ない。朝の澄んだ瞳を見ていると、自分が酷く滑稽で汚れた人間に思えた。 「最後って……どこに行くんだよ」 声が震える。 「父さんの所」 「……ふーん。よかったじゃん」 靴の先を見下ろして、慎司は素っ気なく言った。 「僕は、慎ちゃんと離れたくなかった」 子供のように素直な朝。嘘を知らない朝。赤ん坊のように真っ白な心を持つ朝。誰よりも綺麗な朝。 その濁りのない澄んだ瞳に、いつか、自分ではない他の誰かが映るよ うになるんだろうか。子供のような無邪気な笑顔で誰かに微笑みかけるようになるのだろうか。 ───俺を忘れるのだろうか。 電車がくることを知らせる放送。強い風と共に来た電車。鞄を持ち上げると、朝はホームに停まった電車に乗った。 それでも慎司は顔を上げない。 「慎ちゃん、僕、頑張る。慎ちゃんに嫌われないように 頑張る。言われた事を守る。だから───」 とろい朝が言い終えない内に電車のドアが目の前で閉まる。出発アナウンスが ホームに響いた。電車が出発する。朝が窓越しに何かを必死に 訴えているが、慎司にはもう聞こえない。 慎ちゃん 朝の声が聞こえた。はっとした慎司が顔を上げると、電車は既に動き始めていた。遠のく朝の姿。気が付けば、朝が乗った電車は既に慎司の視界から消えていた。 ───気が抜けるほど、呆気ない別れだった。 不意に視界が揺れ、「あれ」と思った慎司は目を拳で擦った。すると、拳がべったりと濡れていた。俺は泣いているのか、そう脳が理解した途端、慎司は崩れ落ちるように地面に膝を着いた。 激しい胸の痛みに悶え苦しんだ。 こんな痛み、知らない。こんな息苦しさ、知らない。 「……あ…さ」 朝は携帯を持っていない。だから、行き先も連絡先も知らない。もう会うことはないのだろうか。そう思っただけで、足元から何かが崩れていくようだった。呼吸が出来ない。 「…あさ…あさあさ…あ…さ」 両手で顔を覆った。弱々しい声で朝の名前を呼び続けた。 何年間も朝の面倒をみて来た。朝を捨てた父親なんかよりも、 沢山、朝のことを知っている。朝も父親なんかより、自分と離れたくないと言った。朝は嘘を言えない。嘘を知らない。だから、 それは本心だ。───それなのに、どうして、今更、 父親なんかに、朝を奪われるのか。あの父親はあの日、朝を捨てた。 だから、自分は朝を貰った。あの日、自分は朝を貰ったのだ。朝の所有権は自分にあるべきだ。でなくはならない。 沸き起こる熱い想いに、慎司はゆっくりと立ち上がった。 拳で涙を拭い、真っ直ぐと睨み付けるように前を見る。 絶対に見つけ出して、奪い返してみせる。 ───朝は俺のものだ

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