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第1話

 白崎は、黒川とは何も起こらないと思っていた。けれど、物事はいつも予想外の方向へ転がっていく。それこそが、ハプニングを嫌う理由だった。  彼はごく普通の医大生で、決して引きこもりではない。ただ、論文や試験に追われる毎日で、動く気力も湧かず、生活必需品を買う以外は、ほとんど家にいることにした。そんな日々が、延々と繰り返されていた。  最近ではスーパーに行くことすら億劫になってしまい、彼はついにネット通販の軍門に下った。日用品や食料品は、ほとんどを通販で済ませた。その結果、部屋の隅にはいつの間にか、山のような空き段ボールが積もっていた。  通販はとても便利だ。子どもの頃のように、荷物を受け取る際に対面でサインをすることがなくなった。配達員がマンションのエントランスでモニターホンを押したら、オートロックを解除すれば、自宅のドア前に荷物を置いてくれる。そのまま、受け取るだけでいい。  人付き合いが苦手な白崎にとって、これほどありがたい仕組みはなかった。  最近、白崎はあることに気づいた。  自分の荷物を届けてくれる配達員が、いつも同じ人物らしいのだ。その配達員は背が高く、モニターホンに映るのは鼻から下、決して笑わない口元とシャープな顎だけだった。 「こんにちは、新川急便です」 「はい、どうぞ」  ーー会話と呼ぶにはあまりにも形式的だが、それでも白崎にとっては、貴重なやりとりだった。なぜなら、彼は白崎の休日における唯一の、「会話相手」だった。  ふと気がつくと、あの人の顔が気になって仕方がなかった。どんな目をしているのか、眉間は固いのか、それとも柔らかいのか。  配達員の足音が玄関に近づくたびに、段ボールを置く音や端末の電子音、そして帰っていく足音を、白崎は息をひそめてじっと聞いていた。  ただ一枚の扉を挟んでいるだけなのに、その距離が不思議と、とても近く感じられた。  そんなある日を境に、白崎は気づいてしまった。もし配達に来るのがいつもの人でなかったら、心がほんの少し沈むのだ。  次にその人が来たときには、心の中で「なんで前回来なかったんですか」と思いながらも、何食わぬ顔で「はい、どうぞ」と告げていた。  ある日、白崎は高熱でソファにくるまっていた。厚手の毛布でも寒気は止まらず、おでこに貼った冷却シートはむしろ頭痛を誘うほど冷たかった。  モニターホンが鳴ったとき、彼は壁にすがるようにして玄関にたどり着き、ようやく通話ボタンを押した。 「こんにちは、新川急便です」  苦しい中でもその声は耳に優しく響いた。白崎は鼻声で「…はい、どうぞ」と答えた。  モニターの中の配達員は、明らかに一瞬、動きを止めた。白崎が解錠しようとしたその時、「少々お待ちください」と言い残して、画面からすっと姿を消してしまった。  十数秒ほどして再び映像に現れ、インターホン越しに「開けていただいて大丈夫です」と告げた。  白崎は戸惑いながらもロックを解除し、通話を切った。  何が起こったのか分からなかったけれど――たった今、彼から初めて聞きえた言葉があって、それだけでなぜか少し嬉しかった。  それから間もなく、玄関先で物音がした。白崎はしばらくソファに横たわって体力を温存し、ようやくの思いで立ち上がり、玄関へと向かった。  扉を開けると、ひんやりとした風がすき間から差し込んできて、思わず肩をすくめる。体をかがめて荷物を取ろうとしたそのとき、段ボール箱の上に、一本のレモンCが置かれているのを見つけた。  透き通った黄色の液体が、陽の光に照らされて箱の上で輝いていた。  信じられず、白崎はまばたきを繰り返した。熱で幻覚でも見ているのかと頬をつねってみたが、現実だった。  彼は廊下の奥、閉じたエレベーターのドアを見つめたまま、そのレモンCをそっと胸に抱きしめた。ほんのり冷たいそのボトルが、彼の手の中で少しずつ温もりを帯びていくようだった。  ある穏やかな午後、白崎は机に突っ伏しながら、配達中の荷物の状況をスマホで確認していた。あと少しで、あの人が来る。いつの間にか、週末の楽しみはそれだけになっていた。  画面越しにしか見たことのない相手。交わす言葉も、数えるほどしかない。それでも、届いた荷物にあの人の体温を感じ、廊下に残る微かな香りまでも意識するようになっていた。  ピンポーン。  モニターホンの音に、ビクッとして体を起こし、スマホを床に落とした。 「何考えてるんだ、香水の香りって……キモすぎ」と自嘲しつつ、咳払いして通話ボタンを押した。  画面に映ったのは、あの見慣れた口元と顎。「こんにちは、新川急便です」と、いつも通りの声が届いた。  深呼吸したあと、白崎は「はい、どうぞ」と返し、オートロックを解除した。  エレベーターで上がってくる時間は約360秒、そこから玄関まで歩くのも45秒。近づく足音に、心臓は最高潮に達した。  足音が玄関前で止まり、白崎はいつも通り耳を澄ませた。機械の操作音、段ボールを置く音、そして…  あれ?  今日だけは、何かが違った。荷物を置いた後、去っていく足音がすぐには聞こえなかった。  扉の向こうに、その人が立っている。  たった一枚の扉を開ければ、その人の顔が見える。声の主に、触れられる。  ……なのに、この沈黙はなんだろう?  息をひそめる白崎の耳に、ついに聞き慣れたーーでも生で聞いたことのない、澄んだ声が届いた。 「こんにちは」  扉越しに響いたその言葉に、白崎の顔は熱くなった。なにも返せないまま、じっと黙り込んだ。「今日は、最後の配達です。今までありがとうございました」  えっ?  目の前の空気が、一気に冷え込んだ気がした。白崎はドアの外の物音から、彼がきっと一礼し、いつものように足音を残して去っていったのだと察した。  最後……?  もう、あの人の声を聞くことも、気配を感じることも、荷物のぬくもりに心を和ませることもできないのか?  慌てて靴を履き、そっとドアを開けて廊下をのぞいた。けれど、見えたのはエレベーターのドアが閉まりかける中、すっと細くなっていく彼の背中だけだった。  それは、まるで失恋のような衝撃だった。  スマホの画面に目を落とすと、買い物カゴには欲しかった物がずらりと並んでいた。けれど、「もう、あの人じゃない」と思った瞬間、指はどうしても購入ボタンに触れられなかった。  一つずつ削除していき、全部消えたあと、長く深いため息をついた。  彼は、未だにあの配達員の名前を知らなかった。

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