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その愛、重力
目覚めてすぐの身体の重さに、枕に頭を沈め直し俺はため息をついた。 誰かがのしかかっているみたいな重さと熱。 最近はいつもこうだ。2年目の社会人、疲労が抜けきらない日々が当たり前になりつつある年頃なのかと憂鬱になる。30分ほどもベッドでごろごろと転がり、ようやく背中にべったり張り付く重りに慣れた頃合いでシャワーを浴び、出勤の準備を整える。
「それって加齢じゃねぇの?」
口の悪い同僚にむっとした顔で云い返す。
「それ云うなら過労だろ。そんな歳じゃねぇし」
「過労ってほど働いてるかよ」
確かに。仕事は殆ど座ったままの事務作業だし残業だってほぼ無い。退勤後はすぐに家に帰るし、動けなくなるほど疲れるようなことは何もしていない。考え込んだ俺に同僚が楽観的な調子で云う。
「気になるなら病院で診てもらえよ」
「診てもらったんだよなぁ」
検査の結果はすこぶる良好。どこも悪いところなんてないし健康そのもの。倦怠感(と呼べるのだろうか)に関しては全くの原因不明で、これ以上の診察を望むのならもっと大きな大学病院なんかを頼った方がいいと何の処置も無く追い返されてしまった。
「なんだろうなぁ」
独り言みたく呟いた俺に、同僚が聞く。
「何か変わったこととかなかったのか? 体調が悪くなる直前とかさ」
「変わったことねぇ」
記憶をたどる。こんな風に起き上がるのもツラくなったのは確か2週間前くらいから。その頃にあった変わったことと云えば。
「お隣さんが引っ越してきたとか?」
「なんだよそれ」
でも本当にそれしか思いつかない。俺よりちょっと歳上に見える、よく云えば真面目そうな、もっと云えば神経質そうな目をした男。挨拶の間もにこりともせず俺を真っ直ぐに見下ろす視線に、云い様のない居心地の悪さを感じた。よろしくとか何とか答えた俺の手にボディソープの包みを押し付けると、お隣さんはさっさと自室に引っ込んだ。
「それくらいだよなぁ」
テンプレみたく決まった日々を暮らす俺に、ドラマチックなことなんて起きようもない。
「ほんとに何なんだろうなぁ」
首を傾げる俺に無理すんなよと告げ、同僚は自分の仕事へと戻っていった。
その日もスーパーで割引になった弁当を買って、いつもと変わらずアパートに戻る。外付けの軋んだ階段を上りきる前に、手前の部屋のドアが開いた。
「お帰りなさい、足音が聞こえたもので」
顔を覗かせたお隣さんが、眼鏡の奥で人懐っこそうに笑う。初対面の時の無表情が嘘みたいだ。
「あ、ども……」
俺は曖昧に答え、脇をすり抜けた。悪い人ではないだろうこのお隣さんが、俺はちょっと苦手だ。初めての時は、こんな穏やかな表情なんてしていなかったのに。作り物みたいな無表情の、なのに俺を見る目だけが異様ににギラついていて。あの日受け取ったボディソープは香りが気に入ったこともあり有り難く使わせてもらっている。そんなお隣さんが、俺の背に向かって声を掛けた。
「貰い物なんですけど、お好きならどうぞ」
振り向いた先に掲げられてたのは6本入りの缶ビール。俺の喉がごくりと鳴った。
「え、でも」
「僕はアルコールを呑まないんですよ」
あやふやに差し出した両手に押し付けられたそれはよく冷えていて、なのに一瞬だけ触れた指先が妙に熱っぽく、俺は思わずびくりと肩を跳ねさせてしまった。その反応に気づかれないよう、俺はビール缶を掲げたまま目をそらした。
「でもそんな、何か悪いです」
口先だけで遠慮してはみるものの、すっかりビールの口になった俺は喉を鳴らしビール缶を見つめる。そんな俺の様子にふはっと笑い、お隣さんが云う。
「いつもお世話になってますから」
お世話に? 何かが引っかかったが、それじゃあと部屋に引っ込んだお隣さんを見送り、俺は靴を脱ぐのももどかしく、いそいそと晩酌の準備に取りかかった。
両足の指先がじりじりと痺れる感覚にふと目が覚めた。ああ、まただ。足の甲から足首、ふくらはぎへと締め付けられるような違和感を覚える。それは俺の膝を乗り越え太ももへとたどり着き、腰のあたりにまとわりつく。
「……う」
身体の中心にずしりと圧を感じ、呻きが漏れた。パジャマの下の素肌を撫で回すような不快感。見えない何かに抱きすくめられているかのように、寝返りすらできない。ぎしりとベッドが軋み、自分のものじゃない熱がじわじわと脳の奥を焦がしていく。無性に喉の渇きを覚え半開きの口から浅い息を繰り返した。今夜も、熟睡できそうにない。
連日の寝不足はすっかり俺の気力を削ぎ落とした。出勤しても思いがけないミスの連発で、上司からは叱責よりも体調を気遣う言葉が飛び出るほどだった。同僚のフォローもあって少し早めの退勤を許された俺は、スーパーによる気力も無くアパートの階段を足を引きずるように上がりドアの前に立つ。鍵を差し込みドアを開けたところで、隣の玄関からカチャリと音が聞こえた。
「お帰りなさい」
相変わらず人懐っこそうな笑みを浮かべたお隣さんが、俺を一目見るなり眉をひそめた。
「顔色がよくありませんね。体調でも?」
曖昧に返すこともできず、俺は黙ってお隣さんを見上げる。どんな因果関係があるのかわからないが、こいつが隣に来てからすっかり俺の様子がおかしい。もしかしたら俺が気付いていないだけで、毎晩何かしらの騒音で俺の眠りを妨げているんじゃないだろうか。そんな理不尽にも似た考えが俺の頭に浮かび、ムッと口を歪め何かひと言返そうと息を吸い込んだ瞬間、お隣さんが一歩距離を詰め、俺の首筋に顔を寄せた。耳元に眼鏡のフレームが当たりひやりとした感触に鳥肌が立つ。急な接近に驚いた俺は反射的に後ずさり背中を開いたままのドアに強打した。
「……ボディソープ、使ってくれてるんですね」
口元に笑みを浮かべて、なのに目だけは笑ってなくて。
「あの、使わせてもらって、ます。ありがと、ございます」
俺の返事はきっとカタコトに聞こえたことだろう。お隣さんの返事も待たず、俺は自室へと逃げるように飛び込んだ。
いつもの眠れない夜。浅い眠りから浮上した意識が、壁の向こうからの微かな音を聞いた、気がした。衣擦れのような、呼吸のような。ずしりと肩を抑え付ける圧が全身をベッドへと沈み込ませる。頭すら動かすことのできない重さに、呻きを漏らすことしかできない。
「……しています」
耳鳴りのように聞こえていた壁からの音が、ふいに意味を持った言葉として鼓膜を揺らした。
「……いしています」
俺は耳を澄ませる。動かない身体とぼんやりと霞む思考で、聴覚だけがやけに敏感だった。
「……あいしています、あいしています、あいしています、あいしています、あいしています、あいしています、あいしています」
息を詰めても止まらない言葉。皮膚のすぐ下を這いずり回る火傷しそうな熱。全身を冷やす不快な汗。やめろ、やめてくれ、俺にまとわりつくな。その思いに俺は答えられない。怖くて、重くて、ぐしゃぐしゃに泣きながら、それでも心のどこかで、求めることをやめてほしくないとも思ってしまって。自分の気持ちもわからないまま、気絶するように俺はいつしか眠りに落ちていた。
久しぶりによく眠れた気はするものの身体の怠さは変わらず、休憩室で缶コーヒーを握ったまま俺はでっかいあくびを漏らした。隣で菓子パンを頬張る同僚がスンと鼻を鳴らす。
「お前、匂い変わった?」
「え?」
自分の腕を鼻先に近づけた。出勤前にシャワーを浴びてきたしワイシャツだってクリーニング済みだ。臭いつもりは無かったが。首を傾げる俺に同僚が言葉を続ける。
「そんなんじゃなくて。昨日までいい香りしてたと思ってたけど、無臭じゃん」
香水でも使っていたのかと問う同僚に、俺は心臓が冷える心地で答えた。
「……お隣さんにもらったボディソープかな」
ふいに接近された記憶がリアルに思い出され、俺はコーヒーの味を見失った。同僚が納得したかのように頷く。
「そんな特別な商品なん?」
「いや、普通にドラストに売ってるやつ」
普段の俺なら手に取りもしない、少しお高めのいい商品ではあるが。確かに香りが気に入って使ってはいたけれど。距離を詰められたふわりとまとわりつくような体温、首筋にあたる息づかい、耳に触れる眼鏡フレームと低い声。真顔で黙りこくった俺の身体の真ん中に、冗談交じりの同僚の声が響いた。
「お前、マーキングされてたんじゃねぇの?」
笑えない。
自宅に帰りたくなくて、職場の最寄りでネカフェに入った。読みたくもない漫画をめくって、飲みたくもないドリンクで喉を湿らす。やがて訪れた眠気に身を委ねるようにリクライニングに背を預けた。今夜は、何事もなく眠れますように。周囲のざわめきが遠のき、意識を手放そうとした瞬間、ずしりとした圧が俺を座面に沈み込ませた。
「……ぐ、う」
呻きが喉の奥に張り付く。そこかしこから人の気配とキーボードを叩く音が聞こえるのに、誰にも助けを求めることもできず俺はいつもの重力に押し潰される。
「……しています、あいしています、あいしています、あいしています、あいしています、あいしています」
あの声が頭の中に響いた。指先ひとつ動かせず、嫌な汗と涙を滲ませ俺は浅い呼吸を繰り返した。どこにいたって逃げられないことを悟り、ただ絶望に唇を噛みしめる。
結局、終電間際に自宅へと戻った俺は、足を引きずりながらアパートの階段へと張り付いた。一段一段、普段よりも恐ろしく時間をかけ、上がる。涙に滲んだ目に自室のドアが見えるが早いか、隣室が開き俺の視界を塞いだ。顔を出したお隣さんが俺を見て口を開く。
「大丈夫ですか」
「あ……あ、う」
「ほら、手を貸しますから」
抵抗もできず、俺はお隣さんに半ば抱きかかえられるように部屋へと、ベッドへと連れられた。俺を横たえたお隣さんは帰ろうともせず俺を見下ろす。
「可哀想に。動けませんよね、重くて」
重くて。なぜそれを知っているのか。俺は言葉も無くお隣さんを見上げた。ぎしりと音を鳴らし、お隣さんがベッドの端に腰を落ち着ける。優しげな笑みを浮かべると、俺の髪に触れながら口を開いた。
「ねぇ聞いてくださいよ。僕の愛にどれほどの重力があるのか」
まるで世間話のように言葉を続ける。
「昔からそうだったんですよ。僕が愛した人は、僕の愛の重さに耐えきれず押しつぶされてしまう」
聞かされる側の俺はまとわりつく重苦しさとは反して、背に冷や汗を浮かべカチカチと奥歯を鳴らした。本能的な恐怖に叫び出しそうになる。
「僕の愛はどうでした? 僕の重さと、香りは。物理的にあなたにまとわりついていたでしょ。一目見て感じたんですよ。僕を受け止められるのは、あなたしかいないって。僕はあなたを愛することに決めたんですよ」
一方的な恋慕ほどタチの悪いものはない。絶望がさらに俺の身体を重くした。ただの隣人のはずが、とんだ相手に目をつけられた。どれ程の悲運の確率を引けばこんな目に遭うのだろう。俺がどれだけの罪を重ねたと云うんだ。これは何の罰なんだ。ぐずぐずと鼻を鳴らし泣く俺に、お隣さんが独り言のように語りかけた。
「これって何かの呪いなんですかねぇ、僕は僕の愛に殉じたいだけなのに」
あなたを愛しているだけなのに。唇に薄く笑みを貼り付け、お隣さんが俺を見つめた。そんなに。そんなに思われたら潰れてしまう。動けないまま、見開いた目から涙が、半開きの口から呻きが漏れる。ベッドに貼り付けられた俺に、お隣さんが覆い被さった。37度の指先が俺の襟を緩め、鎖骨をなぞる。「もう動くこともできないでしょ。大丈夫、全部僕がお世話しますから」 何も心配しないで、すべて委ねて、あいしています。低く響く声がやけに心地よくて、俺は何も答えず目を閉じた。諦めなんかじゃなく、受け入れるために。
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