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第1話

 ──俺のことなんてどうでもいいんだっ。先輩なんて、どこにでも行けばいいっ!  叫んだ瞬間、胸の奥がズキンと痛んだのを今でも覚えている。  喉に刺さった言葉で、泣きたくなるほど声が震えていたことも……。  世界で一番大切な人に放った言葉は、あまりにも幼く身勝手な暴力だった。  三年以上も前のことを悔やんでもどうにもならないのに、未だに引きずったままの思いが、(おり)のように沈んでいる。  行き場を失った想いを抱えながら、鵜木千春(うのきちはる)は古びた校舎を見上げていた。  とうとう取り壊されるんだな……。  今年の冬、旧校舎が壊されると地元の同級生から聞いた千春は、居ても立ってもいられず母校へと足を運んでいた。  新校舎の脇を抜けて中庭を横切ると、雑草が生い茂った裏庭に出る。  手入れされてないままの木々たちは、自由に枝を伸ばして空を覆い隠していた。  日差しが遮られるせいで辺りは昼間でも薄暗く、どこか不気味な雰囲気を纏っている。  それは、あのころと変わらない光景だった。  人を寄せつけない静けさも、空気の重さも、全部──そのままだ。  さくさくと草を踏む、一人分の足音に耳を傾けながら裏庭を歩いて行く。  それを寂しいといまだに思ってしまうのは、二人分の音を知っているからだ。  草むらを奥へ進むと、かろうじて立ち入り禁止と読めるバリケードが見えてくる。  その先には、蒼々とした蔦を纏った古い校舎がひっそりと佇んでいた。 「冬休みに工事するのって、生徒が登校してこないからか……」  解体工事の施工日が書かれた錆びた看板が、秋風にあおられて軋んでいる。  千春はそれを一瞥すると、バリケードを越えて校舎の中へと足を踏み入れた。  埃をかぶった階段を一段ずつゆっくりと上がっていく。  何度も駆け上がった感触が、今も足裏に残っているようだった。  旧校舎で過ごした、短くも濃い日々。  あの時間は、たしかに『ここ』にあった。  千春が知る限り、この旧校舎を訪れる生徒は、これまで一人も見たことがない。  ただ、一人を除いては……。  高校に入ってすぐ、千春はこの旧校舎を見つけた。  影の染み込んだような空間は、自分だけの秘密の場所にぴったりだと思った。  昼休みに静かに読書ができる場所を探して、たどり着いたのがここだった。  一人になりたかった理由は、決していじめに遭っていたわけでもないし、友達がいないからでもない。ただ、同級生たちとの間に、薄い壁を作っておきたかっただけだ。  女顔で、百六十センチに届かない身長。  ふわふわした天パの髪も、昔からのコンプレックスだった。  小学生のうちは男子と女子の違いもあいまいで、見た目など気にする必要はなかった。  中学生になって詰襟の制服を着るようになると、千春の中性的な見た目は際立ち始めた。  丸い目に柔らかい輪郭、濃いまつ毛、赤みを帯びたぽってりとした唇は、黒い制服には似合わなかった。そのせいで格好のいじられ役にされ、おとこおんなだの、オカマだと揶揄われたことも、一度や二度ではない。  気が強いところもあって、負けじとやり返すことはしていた。けれど、そんな毎日に心底うんざりだった。  次第に休み時間は本を読むことで気を紛らわせ、同級生から自然と距離を取るようになった。  千春のそんな一面を知る幼なじみ、豊浦仙太郎(とようらせんたろう)とは小学生のころからの付き合いで、千春の一番の理解者だ。  同じ高校に進学してからも、旧校舎へ向かう千春に、「どこ行くんだ?」と尋ねてきたのは初日だけで、中学からの習慣を知っているからか、あとは何も言わなかった。  四時限目の終了を告げるチャイムが鳴ると、千春は弁当と本を手に旧校舎へ向かう。  すると、八の字眉をさらに下げながら、仙太郎が「予鈴までには戻れよ」と声をかけてくれる。古い校舎は危ないぞ、と付け足すことも忘れずに。  彼の優しい気遣いは、やっぱりばあちゃん子だからかなと、しみじみ思う。  見た目はちょっとオラついてるけれど。  階段を上りながら、過去を思い返していると、いつの間にか二階に着いていた。  足はそこで止まり、千春は無意識に小さくため息をこぼす。  足元に視線を落とすと、廊下に散らばるガラスの破片の位置すら、あのころと変わっていないように見えた。  あの日の景色を壊したくなくて、千春は破片をそっと跨いで教室の中へ入る。  二階までくるとようやく陽の光が差し込み、千春は一番日当たりのいい席に目を向けた。  埃が積もった机や椅子。掠れたままの黒板の落書きも、あのときのままで変わらない。  破けてボロボロのカーテンが風で舞うと、窓際でたたずむ背中がそこにいる気がした。  タバコに火を着けながら、「内緒な」と言って、紫煙の中で笑う顔が好きだった。  確かめるよう窓際へと近づき、太陽の欠片が降り注ぐ机までくると、光の残像に手を伸ばしてみた。けれど触れることなど出来ず、幻だと思い知らされる。  二人で過ごした教室はあまりにも寂し過ぎ、寂寥感(せきりょうかん)に苛まれた千春は、たまらず両手で顔を覆った。  好きで、好きで、大好きで、でも、その言葉を伝える相手はもういない。  タバコを咥える横顔はどこか大人びていて、でも笑うと、片方にだけできるえくぼが可愛かった。  苦手な煙の匂いでも、彼から漂うと反対に癒しにさえ思えた。  千春が本を読んでいると、自分では読まずに、「結末だけ教えて」とせがんでくる。  初めは煩わしく思っていたけれど、その我儘が次第に嬉しくなっていた。  風にあおられたカーテンのはためく音が、大好きな人の声をよみがえらせる。  ──ちはってさ、ハーフみたいで可愛いな。それに、お前って、なんか甘い匂いがする。  こそばゆい言葉と一緒に、変なあだ名で呼ばれた。  あと、『る』を付けるだけで完成する名前を、省略する意味がわからない。けれど、その二文字が大好きな人と千春を結び付ける、大切な『言葉』だった。  想うほど怖くて、でも、切ないくらい、そばにいたかった初恋の人。 「逢いたい……よ、せんぱい……」  心で堰き止めていた想いを声に出しながら、千春は縋るように机に突っ伏した。  名前を呼んでも、もう返事はない。届かない声が虚空に消えていく。  旧校舎に残されたのは、叶わない願いと、行き場のない想いだけ。  彼を失った日から千春の時間だけが進み続け、『ちは』という名前だけが、今も胸の奥で切なく息づいている。  もう二度と会うことのできない人──波戸葵留(はとまもる)……。  ……初めて彼と出会ったのは忘れもしない、草木が青々と茂る高校一年の初夏だった──。  いつものように階段を上って教室へ向かおうとした千春は、ふと鼻をつくタバコの匂いに足を止めた。  自分だけの秘密の場所に、誰かがいる。そう思い、そっと教室を覗き込んだ。すると、見知らぬ背の高い後ろ姿が、窓際で空に溶け込むように佇んでいた。  景色を眺めながらタバコを燻らせ、外からの風に身を任せているように見えた。  肩まである茶色の髪はハーフアップに束ねられ、風に流れて煙と一緒に揺れている。  垣間見えたネクタイの色で、三年生なんだと分かった。  気配に気づいたのか、彼はゆっくりと振り返る。その顔を見た瞬間、思わず息を呑んだのを今でも覚えている。  口の端は切れて赤紫に腫れ、頬には打撲痕のような青痣もあった。  けれど、驚き以上に強く印象に残ったのは、彼から吹き抜けてくるような衝撃だった。  まるで、外から内へと疾風が吹き込んできたように、千春の心が大きく揺さぶられた。  傷だらけの顔で、誰だコイツ、みたいな表情を一瞬向けてきたけれど、それはすぐ柔和に解け、ふわりと微笑まれると、たじろぐ千春においでおいでと手招きしてくる。  恐る恐る近づいていくと、彼の開襟シャツのボタンは取れかけ、そこから見えた鎖骨にも別の傷痕を見つけた。  本能が関わるなと、警鐘を鳴らす。  千春は小脇に抱えていた本を持ち直し、踵を返して教室を出ようとした。  ──あれ、君って男? 女の子じゃなかったんだ。  久しぶりに言われた言葉にカチンときて振り返った。  シャツのデザインも違うし、ズボンだって履いてる。わかるだろ、と睨み返したが、怒りの視線はあっけなく、次の言葉に溶かされてしまった。  ──なあ、その本って面白い? 読んで聴かせてくれない? あらすじだけでもいいからさ。  どこか気を許したような、甘く低い声だった。  唐突に話しかけてくる彼を、一言で形容すると『イケメンの不良』だと思った。  距離を縮めて来られると、間近で見る完璧な顔立ちに圧倒される。  切り立ったような高い鼻梁、墨を引いたような一重の瞼。  黒曜石のような瞳の縁には、深い緑がかすかに浮かび、目を奪われる。  なのに、目尻が少しだけ垂れているせいで、どこか優しげに見えた。  そのギャップがたまらなく印象的で、不謹慎にも、顔の傷さえ魅力的に思ってしまった。  つい見惚れていると、ふわりと煙を吐きながら彼が微笑んだ。  だが、その笑みには、一雫の憂いが宿っているように思え、千春の胸に深く焼きついて、今も離れないでいる。  それが葵留との出会いであり、千春にとって忘れられない恋の始まりだった。

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