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エピローグ

 千夜が空へと消えてすぐ、黎の意識が戻ってきた。光彰と八木は、黎に事の次第を説明した。黎は二人が思うよりもずっと冷静にその事実を受け止めていった。 「兄さんが俺の体を使ってたなんて……。なんだか不思議だな。でも、そう言われればそうかもしれないと思わないこともない。それよりも、千夜が千晃兄さんだってわかった時の方が驚いたな。千夜自身は可愛い女の子だとしか思えなかったから」 「千夜としてはそれは褒め言葉だと思うぞ。それだけあいつが理想の姿に近づけてたってことだろうからな」  光彰はそう言いながら、すでに冷め切っているコーヒーをごくりと飲んだ。それは、数時間前に千夜が淹れてきたコーヒーだ。彼女はいなくなったけれど、すっかり冷めてしまったとはいえ、コーヒーだけはまだここに存在している。その奇妙な感覚に浸りながら、光彰は黎を見つめた。黎はこの寂しさを知らない。そのことに、やや罪悪感を抱いていた。 「そうか。兄さんはずっと女の子になりたがってたし、変わろうとしてすごく頑張ったんだろうな。だって、ホルモン治療はしてただろうけれど、手術とかはしてなかったはずだよな? でも、千夜はふわっとした女の子だっただろう? 元から男の割には線は細かったけれど、筋っぽいところとかはそれなりにあった。それが全く気にならなかったもんな。生きてた頃もそんな感じだったのか? お前は会ってたんだろう?」 「そうだな。あまり言いたくはないが、才見と付き合い出した頃は特にそうだった。ふわふわしてて幸せそうで、可愛らしい女性だったな。それは恋の力のおかげだってよく惚気てたんだ。それを延々と聞かされる俺は大変だったんだぞ」  そう言って光彰が苦笑すると、黎は光彰が困っている姿を想像したのか、くすりと笑った。 「浮かれた兄さんとか想像つかないなあ」  そうして今度は突然黙り込み、ポロポロと涙を流し始めた。そのまま何も言わずにそれを拭い続けていたのだが、途中で諦めたのか、ついには溢れるままにしていく。光彰と八木は、そんな黎をただ黙って見守っていた。 「光彰、兄さん幸せそうにしてたか?」 「ああ。お前に見せてやれなかったのは申し訳ないが、最後の笑顔は本当に幸せそうだったぞ」  黎はそれを聞いて天を仰いだ。そして、満足そうに微笑むと、「うん」と呟いて涙を拭った。 「うん、そうか。じゃあ、もういいや。小さいこととかどうでもいいよ。俺が無力だろうがなんだろうが、どうでもいい。兄さんが幸せに生きてたのなら、それでいい」  そう呟いてテーブルの上にあったカフェラテをぐいっと飲んだ。そして、それが冷め切っている事に気がつくと、また涙を流す事になる。 「……これ、兄さんは俺のために淹れてきたんだな。あの人はブラックしか飲まないのに。俺のために、甘いラテだ」  そう言ってまたさめざめと涙を流した。 「本当に優しいよな、千夜さん。俺もあの最後の笑顔を見たんだけど、彼女は幸せだったんだと信じていいと思うよ。なんだか全ての不幸が吹き飛んでしまいそうな、見てるだけで幸せになるようなすごいパワーを持った笑顔だったんだ。……で、光彰くん。覚えてるよな? お前は千夜さんから言われたことを頑張らないといけないだろう? 俺は立会人を頼まれたんだ。お前がいうべきことを言うまで、帰らないからな」  黎は涙を流したまま、目を丸くした。兄が光彰に何かを言い残していることに、心底驚いているようだ。 「言いつけ? 兄さんが光彰に? なんだよ、お前何を言われたんだ?」  二人は以前からとても仲が良かった。だから付き合っていると言われた時も、なんの疑いもしなかったのだ。家柄に違いがあるにも関わらず、上下関係というよりは対等な関係性を保っているように黎には見えていた。  しかし、本来は分家筋の千晃は、本家の後継者である光彰に上からものを言うことなど許されない。その兄が光彰に言いつけを残すというのも、彼にとっては不思議でしか無かった。 「八木、楽しそうにするな」 「いやあ、楽しいだろ。俺は今からとてもいい時間に立ち会うんだからな」  二人のやりとりを見る限り、悪い話ではないのだろうと黎は思った。八木が楽しそうにしているということは、いい話の可能性が高い。そう判断して安心したからか、やや気が抜けるような心地がした。 「黎、あのな。千夜がお前の体を借りていたことを隠していた理由なんだが……」  光彰の目は、黎がこれまでに見たことがないくらいに泳いでいる。それはそうだろう、この話の先では、必ず思いを打ち明ける必要があるのだ。覚悟をしていたとはいえ、やはり緊張するのだろう。そんな光彰を見て面白がっている八木は、睨み返されて軽くとばっちりを受けていた。 「頑張れー」  八木の顔はさらにニヤニヤと緩んでいく。光彰には、その姿がついさっきまでそこにいた気の強い元カノ(千夜)の姿に重なった。 「八木、お前千夜に似てきたな。……もしかして、あいつが憑いてるんじゃないのか?」 「えっ? 待って、いくら千夜さんでも怖いから、やめて!」  慌てふためく八木の姿を見て、光彰は弾けるような笑顔を見せた。 (了)

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