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第30話
「……」
白希はかぶりを振った。それよりまず一番に謝らなきゃいけないことがある。
「君は何も悪くないよ」
まだ何も言ってないのに、宗一さんはなんの迷いもなく言い切った。
「結果的に大丈夫だっただろう?」
彼は嫣然と起き上がり、白いシャツを羽織る。
結果的に……。有難いけど、それこそ結果論だ。彼に危害が及ぶ可能性は充分あった。
ベッドの傍の加湿器には大きな亀裂が入っている。
「…………っ」
やっぱり、普通に暮らすことなんて不可能だ。
せめてどこか、人がいない場所へ行った方がいい。取り返しのつかないことが起きる前に……。
上体を起こし、白希は自身の掌を眺めた。
何度も皮が向けた指先は、第二関節と色が違う。手の甲だけ見れば分からないが、裏返すと酷く醜い。
役所で声を掛けてくれたおばあさんは、この醜さに気付かなかっただけだ。本当の自分は、誰よりも有害な存在に違いない。
自責の念に押し潰される。
「わ!」
しかし現実でも押し潰されそうになった。宗一が頭の上に何かを乗せたからだ。
「そ、宗一さん?」
「プレゼント。白希がお風呂から出たらすぐに渡すつもりだったんだけどね」
こちらの陰鬱な心情など知る由もなく、宗一は微笑んだ。床に膝をつき、ベッドの上に腕を乗せる。
「宗一さん……嬉しいけど、いくらなんでもこんなに貰えませんよ。毎日何かしらプレゼントしてくれるじゃないですか」
「必要なものがたくさんあるから仕方ない。それよりほら、開けてみて?」
俺が今すべきなのは、謝罪なのに……。
彼は目を輝かせて、俺が袋を開けるのを待っている。頭を下げ、紙袋を開けた。
中に入っていたのは、出掛けるのに丁度よさそうなネイビーのサコッシュバッグだった。
「わぁ。素敵……!」
スクエアの形から肌触りまで、とても好みだった。思わず手に取り、宙に持ち上げて眺める。
「これから出掛ける機会が増えるだろうから、先にひとつ持ってた方が良いと思ったんだ。色も何となく、白希に似合うと思って選んだ。気に入ってくれたかな?」
「もちろん! ありがとうございます……!」
バッグのデザインはもちろん、彼が自分を思い浮かべ、選んでくれたことが何よりも嬉しかった。
「頂いてばかりで受け取れない、って言うところなんですけど……絶対大切にします」
バッグを握り締める。味のある色に見とれながら、ふと物思いにふけった。
昔だったら有り得ない。外に出ちゃいけなかったから、必然的に外出用の物なんて与えられなかった。
これからは好きな時に好きな所へ行っていい。そう言ってもらえてるみたいで、嫌でも口元がにやける。
「宝物ばかり増えて、どうしましょう……汚したりしないように、ちゃんとした置き場所をつくらないと」
「それなら問題ないよ。君が快適に過ごせるように、新しい家具を揃えたから」
宗一は立ち上がり、玄関に積まれたダンボール箱を指さした。
「ええと、これは……?」
「新生活に向けて、クローゼットや机、椅子、寝具を取り寄せたんだ。ベッドも白希の雰囲気に合わないから新調するよ。今日は私が君の部屋を模様替えするから、楽しみにしてなさい」
「…………」
ドアが隠れるほどの大荷物。これを解いて運ぶのも大変だろう。
「ありがとう、ございます」
でも、お願いだから俺の為にお金を使わないでください。
なんて、今はちょっと言えない。こんな満面の笑みで言われたら、全力で喜ぶことが使命のように思えてきた。末期だ。
「でも、これは運ぶの大変ですよ。奥へ持っていくのは俺がやります」
「おや……私の力を忘れたのかな? 重いものを運ぶなんて、まばたきするより簡単だよ」
そう言い、彼は長いダンボール箱を親指と人差し指で持ち上げた。
中身は机の天板かもしれない。けど、彼はぺらぺらの紙のように奥へ持っていく。
……重量操作っていいなぁ。俺も温度変化なんかじゃなくて、その力が良かった。
だが羨んでも仕方ない。寝室の明かりを消し、バッグを持って宗一の後についていった。
重たい物が地面に触れる時の音が、下駄で歩く音に聞こえたのかな。全然違う気がするけど、神経が尖り過ぎていたのか。
いまいち釈然としないまま、白希が普段寝ている部屋に入った。今はベッドとサイドテーブル、小さなクローゼットしかないシンプルな空間だ。
「部屋の模様替えはまた今度ね。今日は遅出するつもりだけど」
「宗一さん…本当にありがとうございます」
壁にかけられた時計を尻目に、頬をかく。
今は四時。空は真っ暗だ。
冬は日が昇るのが遅い。世界はまだまだ眠りについている。
もう一眠りするか宗一に尋ねると、彼は目が覚めたから起きてると答えた。
何だか大変な一夜だった……。
それも自分のせいなので、加湿器のことは改めて彼に謝った。
「ちょっと……昔のことを思い出してしまって」
コーヒーをいれて、ソファに座る宗一に差し出す。自分はその対面にあるスツールに座り、前で両手を組んだ。
「宗一さんのベッドに座ってるとき、音が聞こえたんです。それが何か……怖い思いをした時にずっと聞いていた音に似てて、急に苦しくなりました」
そして、気付いたら床に倒れていた。息ができなくなったときは本気で死を意識したが、正気に戻れたのは宗一のおかげだ。
「インターホンが鳴って、配達員が来ていた時だね。靴音か、ダンボールを置いた時の音か……どんな音か分かる?」
「えっと、げ……いえ、多分俺の勘違いです。ごめんなさい……」
配達員の靴音で下駄を意識するのはおかしい。ダンボールを置く音とも違う。下駄はもっと軽くて高い音だ。
つまりただの情緒不安定。あまりに申し訳ない。
宗一は腑に落ちない顔で白希を眺めていたが、やがてゆっくり頷いた。
「分かった。また何かあったら、その時は教えてくれる?」
「……はい」
即答すると、彼はありがとうと言ってコーヒーを口にした。
お礼を言われることは何もないのに、いつも立場が逆転している。
力がコントロールできないことはもちろん、いつだって見えない恐怖に支配されている。
ここにはいないはずの人。その影に怯えている。
宗一さんがいれば安心とか、思ったら絶対に駄目だ。彼は関係ない。これ以上の迷惑はかけたくない。
カップを強く握り、黒い水面に映った自分の顔を見下ろす。
入れたばかりのコーヒーは、わずかな間にひどく冷えきっていた。
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