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第34話
本当に小さな望みだ。軽く笑って話すと、彼は深いため息をついた。
あれ。何かまずいことを言ったかな。
恐る恐る横顔を覗くと、真岡さんは頭が痛そうに答えた。
「そうですか。……分かりました。もう少し自由に行動させてほしいと、私から打診してみます」
「あ。いえいえ、お気になさらないでください。どうしても外に行きたいわけじゃないので」
行ってみたいところはたくさんあるけど、行く勇気がないのも確かだ。そう思って訂正したけど、彼はハンドルを指で叩いた。
「大丈夫ですよ。もう業務時間は終了したので」
十八時を過ぎると、多くの大人は解放される。それは今日初めて知ったことだ。
いつも上品で優しくて、完璧な会社員の代表のような真岡さんが、宗一さんに対し凄まじい剣幕で叱りつけた。
「……だから、白希様はお前の所有物じゃないだろう!」
「その通り。物じゃなくて、未来の妻だよ」
「あ、あの……お二人とも、一旦中に入ってくださいな……」
夜、宗一さんはいつも通りの時間に帰宅した。せっかくなので家まで送ってくれた真岡さんに料理を振る舞いたいと、先に宗一さんに許可をとって待っていたんだけど……何故か玄関先で、口論が勃発している。
「ふぅ。もうくたくただよ。白希の顔を見て癒されようと思ったのに、何をそんなに怒ってるんだ? 雅冬」
「言われなきゃ分からないのか? 白希さんを家に閉じ込めてることだよ。これじゃ村にいた時と何も変わらない」
真岡はネクタイを緩め、呆れたように腰に手を当てた。
「彼のことが心配で、外の危険から守りたいという気持ちは分かるさ。だが庇護欲に陶酔するな。まずは本人の気持ちを聞いてから」
「わかった。続きは食事をしながらだ」
「おまっ……全然わかってないだろ!」
最後まで聞かず、宗一はくたびれた様子で先に家へ入ってしまった。
「あ。真岡さんも、どうぞ。今お茶を用意します」
「いや、すみません。お気遣いなく……」
ドアの鍵をかけ、急いでお茶を出した。
おかしいな。もっと和やかな空気になると思ったのに。すごく重たい。
普段とまるで違う態度の真岡に驚いてるのも事実。どれだけ怒鳴られても平然としている宗一に驚いてるのも事実。
この二人、どういう関係性なんだろう。
傍に立って呆けていると、宗一さんは心底疲れた様子で眉を下げた。
「白希、次に雅冬を家に上げる時は昼間にしてくれ。仕事中ならこんな小言を聞かなくて済む。……十八時以降は部下じゃなくて、口うるさい友人になってしまうから」
「友人というか、先輩だろ」
真岡は忌々しいと言わんばかりにため息をついた。宗一はお茶を飲み、諦めたように瞼を伏せた。
「大学時代の先輩なんだ」
「そうなんですね……! それで今は一緒に仕事されてるなんて素敵ですね。仲がいい御友人がいるって、羨ましいです」
思ったことを素直に言ったのだが、二人とも全く同じタイミングでため息をついた。文字通り、息がぴったりだ。
「仲良しだなんて。確かに雅冬は信頼できるが、プライベートに関しては何一つ気が合わない。何せ私の価値観や人生観をことごとく否定してくるからね」
「だからそれは、お前が馬鹿げたことばかり言ってるからだろ。ほどほどにしないと、重すぎて相手も去ってくぞ」
「とんでもない。白希は私との結婚に前向きだよ」
どうしたものかと思ってると、真岡さんに手招きされたので、窓際まで移動する。
「白希様、本当ですか? 宗一とは実際どこまで進展してるんです……?」
進展、してるんだろうか。三歩進んでは二歩下がってる気がするけど。
「ええと……妻になれるように頑張ります、と言いました。でも結婚についてはまだ何とも」
正直に答えると、彼は額を押さえて俯いてしまった。こんなに感情表現が豊かな人だったなんて、知ることができて嬉しい。
「やっぱり、ほとんどお前の早とちりじゃないか」
とは言えまた大論争が再開したので、どさくさに紛れてキッチンへ向かった。二人のやり取りを聞きながら、夕食の準備を始める。
先輩後輩ってこんな感じなんだ。
宗一さんは何を言われても、涼しそうな顔をしてる。そんな彼を注意する、しっかり者の真岡さん。
ちょっとだけ、兄弟に似てるかも。
俺も小さい頃は兄にたくさん叱られたな。今となっては全部懐かしい。
みずみずしい白菜をぶつ切りにして、鍋に均等に入れていく。薬味の生姜を細切りにして、上に添えてから火をかけた。
後は豚肉を敷いて、何層も重ねればミルフィーユ鍋の完成だ。
レシピのおかげで順調に進んでる。二人の口論と宗一さんの親戚、それと料理。三つの思考を頭の中でお手玉にして、慎重に食器を出した。
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