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第38話
「……落ち着いた?」
青年はスプレーを床に吹きかけて、ゆっくり立ち上がった。
「さっきのは俺が手ぇ離しちゃったのが原因だから、作り直してきますよ。ちょっと待っててください」
「あ。い、いえ!! 大丈夫です、それより本当にすみませんでした!!」
「えぇ、ちょっと!」
深々とお辞儀をし、走ってカフェから出た。
あぁ、何で……何でいつもこうなるんだろう。
結局ひとりじゃまともに動けない。これじゃ働くなんて夢のまた夢だ。
親切にしてくれた人に迷惑をかけてしまった……。
結局疲れるまで走って、帰路についた。その頃には気持ち悪さはおさまっていたけど、久しぶりに指先が真っ赤に染まっていた。
「……」
反対に、白希がいなくなった店内では静寂に包まれていた。金髪の青年が自身の手のひらを見返し、小さく呟く。
「やっば。……見つけちゃったかも」
口角を上げてポケットに手を入れ、再びレジへと戻った。
「ただいま~。……って」
「お……おかえりなさい……っ」
何とか忘れようとしたのに、結局宗一さんが帰ってくるまで大号泣してしまった。涙はようやく止まったけど、顔は真っ赤で目は腫れぼったい。
宗一さんは鞄を置くと、顔面蒼白で肩を掴んできた。
「何があったんだい? まさか誰かに乱暴された!? 警察を……いや、その前に私が会いに行くから事件が起きた場所と時間を……いや、スマホのGPSで分かるからまずは相手の顔を」
「お、落ち着いて宗一さん。そういう事件は一切起きてないのでご安心を」
GPSのくだりは気になったものの、鬼気迫る宗一の様子に恐怖を感じ、大慌てで昼間のことを説明した。
カフェの注文に苦戦し、挙句の果てに力が暴走して店員に迷惑をかけてしまったことを話した。思い出したらまた罪悪感が息を吹き返した為、床に正座する。
「本当に、私は最低です。生きててごめんなさい…………」
「落ち着きなさい。一人称戻ってるし……そんなの大した問題じゃないよ」
事情を理解した宗一さんはネクタイを解き、心底ほっとした様子で呟いた。
「白希、数分で片付く問題は大した事件じゃないよ。私がその店員だったら、忙しくて明日には忘れてるさ。アイスコーヒーがホットに変わったのはおかしいと思うけど、ね」
「……」
宗一さんはフォローしてくれるけど、確かにそのとおりだ。怪しまれたのは間違いないし、自責の念も半端じゃない。
……注文もまともにできなかったことも、結構ショックだったりするから。
「それより。その店員と接触しそうになった時、手が痺れたって言ったね」
彼は床に片膝をつき、俺と目線を合わせた。
「え、えぇ」
「そう……」
束の間の沈黙。どうしたのか気になったけど、腰を掴まれ、一気に抱き起こされた。
「過ぎたことは気にしない! それよりここで苦手意識を持ったら、次に外に行くのが怖くなるだろう。荒療治だけど、明日もどこかへ出掛けておいで」
「ええっ!」
「あ、でもそのカフェと図書館は行かないようにね」
……そんな。まだ色々ダメージが大きいのに。
宗一さん、急にスパルタだ。いや、外に行くぐらいで弱音吐いてる自分が一番悪いんだけど。
そうだ、強くならなきゃ。
「うっ、うぅっ……わかりました、行きます……うっ、明日も……っ!」
「泣かないで、白希。私がいじめてるみたいだから」
宗一さんは遠くで俯き、愛のムチとか何とか繰り返していた。
そして、翌日。
「不登校の子に学校へ行くよう強要してる親になった気分だよ。やっぱりやめようか」
「いいえ、行きます! 行かせてください!」
白希はキャップを被り、宗一と同じ時間に廊下に出た。気持ちはだいぶ落ち着き、今はやる気に満ちている。
やっと外に出られるようになったのに、自ら家にこもるなんておかしな話だ。
「俺は心身共に健康です。外が怖いなんて、それはただの甘えです。宗一さんのパートナーとしても、ひとりの大人としても、ちゃんと成長したい。昨日はすみませんでした。死んでも無事に帰ってきます」
死んでも無事に帰るって、何か日本語おかしいな。
でも宗一さんは特につっこまず、目元を押さえた。
「白希……。本当に強くなったね。私はもう、その覚悟が聞けただけで充分だよ。よし、無理しなくていいから三分で帰っておいで」
宗一さんは本当に優しい。でも三分だとマンションの敷地を出る前に終わってしまうし、せめて昼までは出掛けよう。
地下の駐車場までついていき、軽く手を振る。
「宗一さん、お気をつけて。行ってらっしゃい!」
「ありがとう。愛してるよ、白希」
宗一さんは微笑みながらウィンクした。愛車のアコードが出ていくところを見届け、深呼吸する。
よーし! リベンジだ!
昨日は(昨日も)情緒不安定だったけど、今日は絶対人に迷惑をかけないように頑張るぞ。
宗一さんの言う通り、外に対して否定的な感情を抱くのはまずい。まずは良いところに目を向けて、楽しみを見つけるんだ。
住宅街でも、探せば緑の多い公園がある。桜の木が並ぶ川沿いはのどかな時間が流れていて、喧騒とは程遠い。
目新しいものばかりだから、やっぱりただの散歩で充分楽しいな。
自販機でお茶を買い、狭い歩道を歩く。大きな橋を渡っていくと、以前雅冬さんに連れて来てもらった役所に出た。
今日は特に用事はないけど……用事はなくても、入っていいんだっけ。
役所の前には大きな噴水があって、ベンチもいくつか設置されてる。そこでは前に来た時と同じく、親子が会話していた。
……のどかで良いな。
役所の中には小さな図書室があったので、そこにお邪魔してみた。若い人は見かけないけど、皆静かに本を読んでいる。
お洒落な図書館も良いけど、こういうところの方が落ち着くかも。
広過ぎて移動するのも大変だし、幼い時から狭い場所が好きだ。
でも納屋や屋根裏はちょっと違うかな……。
内心苦笑して、料理本を中心に読んでいた。熱中するとやっぱり時間が過ぎるのが早くて、気付けばもう昼近くなっていた。
さすがに長居だ。そろそろおいとましよう。受付の人に会釈し、入り口へ向かって歩く。その時、誰かに声を掛けられた。
「あら? あの時のお兄さんじゃない?」
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