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最終話

 ――次の春、オレは妖となる。  その日が訪れるのを指折り数えては、社の主である遊羅くんに「気が触れてんな」と笑われる夢を見るのだ。      *****      陽を隠すほどの雑木林の中にある、長く長く続く古い石段を駆け上る。  上り切った先には同じように古い石鳥居があり、その境目を飛び越えると外から見えていたものとは異なる景色へと変貌した。  先程までの枯れた木々らからなる静寂さは薄れ、うっすらと積もる雪たちが陽の光を浴びてキラキラと反射している。  広い庭の先には古民家と呼ぶに相応しい平屋が建っていて、オレは中へと上がるべく玄関を開けた。   「ただいま」    誰の歓迎を待つこともなく、この数十歩の間に濡れた靴を脱いで真っ直ぐに居間へと向かうがそこには誰もいない。  珍しいなと思いつつ、社の中に誰もいないというのはありえないので勝手に探すことにした。  外から入ってくるときには庭に面した縁側にはいなかったはずだけど、と思ったが試しに覗いてみたらちょうど部屋から出てきた朧と鉢合わせになる。   「朧、ただいま」 「なんだしゆ、来てたの?」 「今来たところ」    身震いをして、欠伸をするのを見るに寒くて今まで寝ていたようだ。  気付かなかったと零す朧に、今ちょうどだと告げれば「ふうん」とだけ返ってきた。   「はぁーあ、寒い」 「温めようか?」 「人肌でもいいか」    白い息を吐きつつ寒い、と恨めしそうに文句を垂れてるので両腕を広げて見せれば渋い顔で仕方ないと呟いてから朧はオレの懐に潜り込んでくる。  着たままのジャケットを広げて、包み込んだ上から抱き締めると身を擦り寄せてきた。   「ぬくい?」 「ほどほど」    温かいかと聞いたけどお望みには届かなかったらしい。  晴れてるから比較的暖かい方だと思うけど、それでも雪積もってるくらいだからな。  腕に少しだけ力を込めては紫色の髪へと頬を擦り付けると、その感触に気付いた朧が顔を上げた。   「なに?」 「ちょっと久しぶりだから」 「前は大学の試験だなんだってひと月以上逢えないの珍しくなかったのに、段々言う期間短くなるよね」 「付き合う前のと比較されても困る。あの頃よりずっと朧のこと好きなのに」    甘えるような仕草に何故と疑問を瞳に浮かべているので、暫く逢えていなかったからと零したら比較的出逢ったばかりの頃の話をされてこればかりは納得できない。  気持ちは全然違うのだと不満を零したら朧は肩を竦め「ごめんって」と悪びれもなく言った。   「暦の上ではじきに冬も終わるのに、まだ雪が積もってるの不思議な感じだ」 「しゆが社に入る頃には雪も溶けてるよ。でも桜には少し早いかもな」 「最後の冬は長いと思ってたけどそうでもなかったな」    外気に触れて冷えた手で触れるのが憚られたので自分の手にはぁ、と息を吹きかけて温めてから朧の髪を撫でつつ冬の終わりが遠くないのを感じるのだとぽつりと呟く。  感慨深いものだと思案していると朧はオレの手をそっと払った。  じ、とオレを見上げる瞳の奥で石鳥居の向こうに未練があるのではと探っているのがわかったけどすぐに杞憂だという結論に至ったのかふん、と鼻を鳴らす。   「雪掻き、大変だからな」 「頑張るよ」    オレはただ時期が近付いていてそわそわ落ち着きがないだけなのだが、人の子をやめない限りその可能性が決してゼロにはならないというのはお互いにそれなりに不安だよな。  オレは最初からやめることを止めるなんて考えたことないのだけど。  悪態を吐いて浮かんだ疑念をなかったことにしようとする朧に合わせて返すと、朧は両腕を伸ばしオレの髪へと触れた。   「随分伸びたね」 「そうだね、卒論とか部屋の片付けとかで放っておいたから……流石に少し鬱陶しいかな」    社に来るようになった頃も、一つに括っていたけど今はその時よりももう少し長いか。  視線を下に向ければ垂れてくるサイドの髪を払うように頭を揺らせば、その部分を朧の指がそっと持ち上げた。  あの頃伸ばしていたのは知らぬものの方が多い地で切るのも億劫だったからってだけだったが、今伸ばしているのは社に入る話をして少しした時に遊羅くんに「なにかに使えるかもしれないからバッサリ切るのはよしとけぇ」って言われたからだ。  それからは程よく伸びたら切る、をくり返していたのだけどいよいよここに腰を据えればその必要もない。  朧にならどうするのと聞かれたことがあったから切るよという話をしたのは、今年に入ってからだったと思う。   「一度切ったら伸びるのに時間がかかるって話だから、一度バッサリ切ったら楽に過ごせそう」 「その時初めて見るかもな、しゆの髪が短いの」 「はは、確かに」    せめて括らなくてもいいくらいには短くしたいなぁなんて思い巡らせていると、朧の指先が執拗にオレの髪を梳いているのに気付いた。  オレは朧の手を取って、頬を擦り付ける。   「切ってから来ようと思ってたけど、初夜まではこのままにしておく? オレはそれでもいいよ」    惜しんでいるのかと問うように少しだけ意地の悪い言葉を投げかけるも、朧は照れることはなく寧ろ不愉快そうに眉根を寄せた。  その顔になんでわかったのかって浮かんだのは一瞬で、オレにそんな生意気な態度を取られたのがムカつくって感じだな。   「言い方が癪に障るけど、しゆの長い髪に最後に触れるのがオレであればいいとは思ってる」 「朧が望むならそうしよう」 「ま、そうなるとしゆの髪を切るのはダンくんだろうけど」 「朧が切ってくれてもいいよ」    朧はふん、と鼻を鳴らしつつしたいと望んでくれることを伝えてくれたので勿論と受け入れたのだがイマイチ決まり切らなかったな。  これからオレの最後なんてすべて朧に関わることになるから朧が切ってもと告げたが、以前大失敗があったことを匂わせた口振りで「ざんばらになっても構わないなら」と零すのでカッコは付けたいので今回は丁寧にお断りする。    そんな他愛ない未来の話をしつつ、朧のことをもう一度両腕で抱き締める。  近付いてくる冬の終わりが、春の訪れが恋しいと思うのがオレ一人でないという事実に、幸福を覚える。  大学進学で実家を離れることが決まった時も、似たような気持ちになったが幸福でも喜びでもなかった。ただ、離れられるという安堵だけ。   「しゆの部屋、一度見ておきたいとずっと思っていたけど」 「え……。もう殆どのもの処分始めてるから大したものないどころか今絶賛腐海だよ」 「思ってたけど、いい」    今だから言うけどと言いたげな口振りだったから来たいって話かと思って部屋の汚さを思い出して躊躇したが早合点だったようだ。  違うよと否定されて首を傾げれば朧はオレの顔を見ると呆れを含んだ笑みを零す。   「人の子として過ごした時間のしゆのこと今更知ったってどうしようもない。お前が捨てたいものをオレが欲しがって惜しんだって仕方がない。この先妖として生きるしゆの未来永劫を得る方がいいなと思った」    朧がオレのことをあれもこれもと欲しがってくれることに、未だにどこか。慣れない自分がいる。  どうにも胸の内がむず痒くて、面映ゆい。  それでもこの先の未来、ずっと朧の隣にいればそんなオレも変わるのだろうか。  いつか「彼に愛されている自分がいて当然」と思うようになれるのか。そんな風になったオレをどう思うかと彼に聞いたところで朧は「好きだよ」と意地悪く笑うのだろうけれど。   「じゃあ、なんでそういうこと言うの……」 「気持ちを急かそうと思って。待たされてるから意地悪してる」 「ああー、可愛いから許してしまう」    だからって、彼の中で結論が出ているとしても言葉にされてしまったら来たらいいのにと返してしまいたくなるじゃないと形だけの文句を垂れたらそれこそ悪びれの欠片もなく「意地悪したかった」と返されてしまい、オレは歓喜のため息を吐くしかできない。  本当、自分の心が朧の言動や一挙手一投足によって揺れ動かされるのが嬉しすぎてマゾヒストの気があるかもしれないと勘違いしそうになる。  まあそんなオレを見てずっと変わらず「意味がわからない」といった表情を浮かべる朧がいるから冷静になれる。  でも朧も段々、満更でもないなって顔するんだよなぁ。本当に狡い。   「好きだよ朧。待たせてごめん、待っていてくれてありがとう」    本気で意地悪を言いたいわけでも、急かしているのでもないというのは理解している。  本当はこのタイミングで渡すつもりではなかったのだけど。  自分のワガママを待ってもらっているという負い目に対するちんけで無意味な謝罪をしてから、抱き締めていた腕を解き一歩、朧から距離を取る。  突然離れたオレに訝し気に表情を歪めた朧の左手を取り、そこへ安い指輪をはめる。   「なんだこれ?」 「指輪。揃いで付けることで、婚姻関係であるって示すんだ」 「人の子の契約みたいなものか」 「まあ、そうかな」    指輪をはめられること自体に違和感があるみたいで朧は自分の左手を不思議そうに眺めている。  契約ってなるとまた少し違うけれどそれを伝えたところでもう無意味なので遠くはないと同じ指輪をはめたオレの左手を見せながら答えたら朧は納得したようだ。   「オレは近い内に妖になる。だから人の子として最後の贈り物をキミに。そして願いを」 「ん? なに?」 「結婚しよう。オレ、朧とずっとずっと一緒にいたいから妖となって、キミの夫になる。朧と共に在れば、それ以上の不幸はもうオレを捕まえない。朧も、同じだといいのだけど」    人の子をやめるのに指輪を渡してってプロポーズは嫌がるかなとか、矛盾しているかなとか考えたけどもういいや。  そもそもどう足掻いたって、人の子である事実は消えないんだし。  オレが妖となって朧と契約を交わすことが妖との婚姻の儀となるなら、オレからそうしたって別にいいだろ。と半ばやけくそで開き直った故の行為だ。  願いと言いつつワガママな、呪いのような愛のプロポーズに朧は指輪から視線をオレに向けると目尻を吊り上げるようにして笑みを浮かべる。   「そうだね、もう【誰かに愛されたくて】なんて【誰でもよかった】なんて不幸にしゆをやるつもりはない。ここまでオレの心を動かしたんだ、好き勝手にオレを愛する権利はしゆにしかないよ」 「何度だって言う。もう朧じゃなきゃダメだ。ありがとう、オレと出逢ってくれて。オレに心をくれて、愛を思い出させてくれて。この心は朧だけのものだ」 「ははっ、気が早い気もするなぁ」 「朧がオレのワガママを許すから、せっかちになったのかも」 「今からそんなんじゃ気が狂うぞ」    満たされていく幸福にへにゃりと情けない笑みを浮かべたのが自分でもわかったがやめられない。  同時に涙まで零れ出して震えた声で溢れる想いを吐露するオレを朧はからかうように笑って、くしゃくしゃと頭を撫で回してくる。  好きだから盲目なんだと言われたって構わない。オレの恋人であり伴侶となるこの妖は可愛らしくて、カッコイイ。  そんな彼の心を動かせるのがオレだけだなんて。  嗚呼、なんて。なんて幸せなことだろう。  愛することを思い出せなければオレはこんな幸福を知ることないまま、澱に堕ちていたんだ。あの日、キミと出逢わなければ。   「やっぱり、朧はカッコイイ。あの日のオレが感じたことは間違いじゃなかったんだ」    釣り合う男になりたいのに程遠く思えるほどにぼろぼろと涙を流しつつ、伏せた瞼に出逢ったあの日にオレを助けてくれた背中が浮かび上がる。  少しだけ乱暴に涙を拭う手を取って頬を擦り付け唇を触れさせると、朧は一瞬眉根を寄せオレから視線を逸らしたがしょうがないと言いたげに小さく息を吐き捨てた。   「オレ、しゆよりずっと年寄りだよ?」 「ははっ、うん。オレ、じいちゃんっ子だから」 「本当の姿は狢だし、性格だって甘ったれで泣き虫かも」 「狢の姿になっても抱き締めてキスをするし、甘ったれで泣き虫でも新しい朧だって思って大好きになる」    いつか、どこかで聞いた言葉が耳に届く。  一瞬にしてその時のことを鮮明に思い出し、その時に返したものを模して答えれば覚えているということも相俟って朧が満足そうに表情を緩める。  そのまま一瞬、触れるだけのキスをして離れた朧の顔には不満が滲んでいた。   「腹立つ。本当に一緒に死ぬ覚悟があるくらい好きにさせられた」 「オレ、一度好きになると結構しつこいやつだったみたいだ」    あの時は言い切った言葉。今はそんな自分がいなかったと知っている。  だからそれが意外だっただろうと告げれば朧はその顔にわかりやすいくらいに「どこが」と浮かべたけどなんとか飲み込んでいた。  そんな朧の頬をそっと包み込み、今度はオレから口付ける。触れる以上の口付けをしたら一気にタガが外れる気がしているから今までずっと抑え込んでいたけれど。    嗚呼、遠くない未来でそのすべてを手に入れられるのだと思ったらオレは一体どうなってしまうのだろうか。    不安と同じだけ膨れ上がる情欲を含んだままの瞳で朧を見つめれば、彼は気が急いたオレを揶揄うように笑うので。  風船が破裂したように一瞬にして真っ白になってしまい、オレは「嗚呼本当に敵わないなあ」などと思い彼に心惹かれていくのだ。      *  *  *      社の縁側で初めて出逢った頃には想像も出来なかった距離と表情と穏やかな口調で触れ合っているのを眺める影は三つ。   「しゆが社に入ったら四六時中睦み合うかもな」 「なら私があいつらの棲家を用立ててやる。ついでに白檀は私の元へくればいい」 「行かねえっつってんだろ」 「戯け。離れを用意すればいいだけの話だろうが」    季節は冬。  社の庭には雪が残り、梅の木には蕾が付き始めた。  近い内にあれらの雪は跡形もなく消えてなくなり、梅が花を咲かせてはあっという間に桜の花が咲くだろう。

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