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3 midnight

 東京に住んでいるんだからわざわざこんな高いホテルはいいよ、と言ったけれど、島野がどうしてもと譲らなかったので、最終的に俺が折れた。  高層階の窓からは東京の夜景が見下ろせて、おもちゃみたいに小さい車がひゅんひゅん高速道路を流れていくのが見える。  綺麗だ、と思うと同時に、夜景を美しいと思う心理はどこから来るのだろうと考える。これは本当に美しいものなのだろうか。  東京に来たかった、東京に来た、やりたい学問をやって、俺は間違いなく幸せなはずだった。  だけど、俺が感じているこの違和感はなんだろう。 「まぁたなんか考えてるだろ」  隣から俺の顔を覗き込んだ島野が言う。 「津野田は考えすぎ」  そう言って裸の俺の脇腹をつんとつついた。 「ま、お前はそれが仕事なんだけどさ。――あ、0時回ったな」  島野が言って、俺に酒の入ったグラスを持って来た。 「発売日、おめでとう」  今日は俺の初めての単著の発売日だ。島野がそのお祝いをしようとホテルをとってくれた。そして今日は、俺たちがあのショッピングモールで出会った日。  都心と地方とのさまざまな不均衡を論じた俺の本の発売日がこの日なのは偶然じゃない。多分島野も気付いているだろうと思う。だけど島野は敢えてなのかそこに触れては来なかった。  島野は大学を卒業後にちゃんと働き始めて、化学品のメーカーで営業職をしている。金を自分でしっかり稼いでいる。毎日のように外回りをする大変な仕事だ。俺にはできない。  大学院に行った俺は、ティーチング・アシスタントなどで小銭を稼いでいるだけで、自立して生活できるのはまだまだ先だろう。結局俺は、いまだにあそこに住んでいる親の脛を少なからず齧っている。  まわりの院生にはモラトリアムを延長するためだけに大学院に進学しているような人もちらほらといて、中には悪びれずそれを公言するやつもいる。  ――また俺は考えすぎているだろうか?  ホテルのふかふかのベッド、シーツが乱れているそこに寝転がると、 「津野田」  島野が俺の横に来て、俺に呼びかけて顔を覗き込んでくる。  それを見て思い出す。  島野亘というクラスメイトのことを意識したことはほとんどなかった。いつも楽しそうにしているお調子者という意識しかなかった。  俺はこいつのことを羨ましいとさえ思っていた。お気楽で何も悩みなんてないんだろう、そう思っていた。  ……だから、あの朝焼けの中でこいつが叫んでいるのを見た時、俺は何かの真実みたいなものを知った気がしたんだ。  それをちゃんと言葉にしたら、きっと陳腐で大したことじゃない。  そんなことにも気付いていなかったのかと笑う人もいるだろう。  だけど、それは俺の人生において大きな意味を持っている。  俺は、それまで自分は人よりとても賢いとは思っていた。自分が馬鹿だなんて思ったことは一度もなかった。  だけどそのとき俺は、自分が実は何も見えていない大馬鹿だったのかもしれないと思ったんだ。  そのことを考えると、今隣にその島野がちゃんといるという事実が何よりも尊いものに思える。  俺はもぞりと島野に近寄って、その背中にキスをする。 「なんだよ」  島野は恥ずかしそうに身を捩るけれど、どこか嬉しそうだ。 「そういえば、」  急に、思い出したように島野は言う。 「ん?」 「あのショッピングモール、なくなるんだって」  俺の頭の中に、あの大きな赤い建物が浮かぶ。  そう言えば、少し前に運営している不動産会社が破産申請したとニュースが報じられていた。  あの建物自体をどうするかは決まってないようだったが、もしかすると取り壊すのかもしれない。 「久しぶりに地元戻ろうか」俺は言った。「一緒に」  二人で一緒に帰省したとこはなかった。俺の提案に島野はあっさりと「そうするかあ」と答える。 「最後に拝んどくか、聖地」 「聖地て」  俺は思わず苦笑した。 「なんかご利益あるかも」 「なんのだよ」 「うーん、なんだろ、縁結び?」  思わず笑って、 「ばか」  と島野の肩を軽く拳で殴った。 「お前って、本当、もう」           *  島野と一緒に帰るから、と言っても、親は島野が誰なのかぴんと来ていないようだった。まあ、当たり前だ。  あんたこっちにちゃんと友達いたのね、とさえ言われる始末だった。良かったわあ、なんで早く教えてくれなかったのと電話口で言う母親は何もかもが間違っている気がしたが、あまりに面倒で何も訂正しなかった。  空港から飛行機に乗って、離陸。  飛行機が東京から離れるほど、俺たちの距離も離れていく気がした、離れて見せなきゃいけなくなるから。そうしなきゃいけないと、俺たちは誰に言われるでもなく理解していた。  空港に着くと、母親が迎えに来ていた。 「あなたが島野くん? あらぁ、いつも敦がお世話になってます」 「いいから、そういうの」 「え? どうしてよ」 「とにかく、いいの」  母親は納得していない表情だったが、強引に運転席に押し込んだ。  母親は俺の友人に会うのがほぼ初めてだからか、やたらに饒舌に島野から根掘り葉掘り聞き出そうとしている。 「島野くんは東京で何のお仕事されてるの」とか、「どれくらい敦とは会ってるの」とか、「敦は全然自分のこと連絡してくれなくて。東京でちゃんとやってるのか心配なのよ」とか。 「そうですね、化学品の会社で働いてまして。ええ、バケガクの方です」「結構会ってますよ、多分お母さんが思っているよりは、頻繁に」「ええ、うまくやってるみたいですね、心配しなくても大丈夫だと思いますよ」  などとしっかりと受け答えする。島野は他人行儀な顔をしている。これはこれで新鮮でちょっと面白い。 「島野くんいい子だわあ。彼女とかいるのかしら」 「母さん、いい加減に――」  俺がそう遮ったのは、踏み込みすぎだと思ったからではなくて、ただ、島野の返事を聞きたくなかったからだ。 「――彼女はいませんね」  島野は淡々と答える。 「あらそうなの? 勿体無い。きっといい子が――」 「でも、大事な人はいますよ」 「? そうなの?」 「ええ、すごく大事な人が」  俺は感情が整理できなかった。ちらりと島野を盗み見ると、嬉しそうに笑っている。 「まあ、それはいいことねえ」  母親は多分、その意味を理解できていないようだった。島野の大事な人が男で、それがまさか隣に座っている自分の息子だなんて、あまりにも想像の範囲外なのだろう。  だけどそれで良かった。それでも、島野がそう言ってくれたという事実だけで十分だった。  島野、お前やっぱすごいよ。           *  翌朝、家族も寝ている時間に島野がうちまで迎えに来る。俺はもう準備万端で、二人で歩いてあのショッピングモールを目指す。朝方の冷えた空気、東京のどこよりも澄んだ空気の中を歩く。 「東京にいてもここにいても変わらないとは思わない」  島野が言った。 「ここは絶対に東京じゃないし、東京は絶対にこことは違う。田舎の良さとかスローライフとか、全部が間違ってるとは思わないけど、多分それって、論点がズレてるんだよ」  明け方の、明けきらない空にはまだ星がうっすら見えるほどだ。東京だったらあの星は絶対に見えないだろう。  俺はそれを美しいと思う。これはきっと、掛け値なしに美しいものだ。美しくないなんて絶対に言わせない。  だけど、 「俺が欲しいものはそれじゃなかった」  ぽつりと島野は言った。  それから俺たちはしばらく黙って歩いた。風が涼しくて心地よい。  島野の顔を見れば、それを、欲しいものをまだ手に入れられていないことがわかる。そしてそれは俺も一緒だ。俺たちの欲しいものは、きっと本当は東京にもないんだろう。それどころか、世界のどこを探してもないに違いない。そもそも、そんなものはこの世界にあったんだろうか?  それでも、だとしても。  俺は言った。 「俺はお前がいて良かった。お前が東京に来てくれて良かった。お前と一緒にいれて良かった」  少し歩みを早めて彼より前に出て、 「お前がいなかったら、本当に何も変わってなかったと思う」  顔を見ないで済むように。  でも島野は強引に俺の横に並んで、俺の手をぐいっと引っ張った。俺は島野の顔を見ずにはいられない。  島野は真剣な顔だ。  俺は急に思い出した。あのお調子者だった島野が、こんな顔をするようになった。大人になった。もう子供じゃないんだ。  それはきっと俺もだった。俺も改めて島野に向き合って、 「ありがとう」  一言いう。  そして、俺たちはあのショッピングセンターに辿り着いた。  閉まったガラスの自動ドアに、大きく『営業終了のお知らせ』と書かれたポスターが貼られている。 『長年のご愛顧に感謝いたします』  俺たちはじっとそのポスターを見つめていた。俺は島野の手を強く握って、島野も俺の手を強く握った。  俺たちは叫んだ。思い切り叫んだ。  俺たちはもう子供じゃないけど、今くらいはそれが許される。今は明け方で、この馬鹿みたいに広い駐車場には車も一台も停まっていなくて、周りには誰もいない。  だから、今は子供のままでいい。  それくらいはきっと許される。  俺と島野の大きな大きな声が、ひたすらに広い明け方の、美しいグラデーションの空へと吸い込まれていく。

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