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LtBl
カタン、と床に何かがぶつかる軽い音がして深い眠りの底から意識が浮上する、肌寒い10月の下旬。薄くてぺらぺらな布団の中、強張った身体をそのままに毎朝目覚めて思うのは言いようのない多幸感だけ。フローリングの上、マットレスも何もなくそのまま布団を一枚敷いて寝ているので床の冷たさと固さは直接身体に負担を掛けるが、こういう環境で一か月過ごせば嫌でも慣れてしまった。
もぞもぞと寝返りを打つと、ワンルーム1K9畳の狭いアパートの室内で動く人物を見つける。この部屋の主であり、自分を養ってくれている人物でもある。年齢は直接聞いたことはないけれど、一度だけ身分証を見たことがあって、自分より一回り上だった。
「ごめん、起こした?」
ごめんと謝っている割には何も悪いとは思っていない表情をしている。いや、出会った頃から笑った顔も怒った顔を見たことはないほど、どちらかというと常に何事も興味がないように人形のような生気のない顔をしていた。綺麗な顔をしているのに勿体ないと何となく思ったがあまりそういう話題が好きそうじゃないので、実際本人へ言ったことはない。
僕は布団の中でゆっくり首を左右へ振った。
「そ?あ、俺、もう出かけるけど、ジェイくん今日、何する予定?」
「…寝て起きたら散歩に行こうかなって思ってる」
「じゃあ車に気をつけて。昼ご飯、冷蔵庫に入れてあるから食べたかったら食べていいから」
「うん、ありがとう」
出勤時間が近いのか、薄手のアウターを着込んで彼は玄関へ向かった。平均身長ぐらいと本人は言っていたが、それよりも小さく見えるのは全体的に細いせいだろう。僕よりもきっと15センチは低いと思っている。そんな華奢な後ろ姿を布団に寝転がったまま眺めた。たった9畳しかない狭い室内なので顔を上げるだけで全てが見渡せる。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
バイバイと手を振れば、僕を見て軽く頷きそのまま玄関を出ていった。その際ふわりと朝の冷たい風が吹き込むので、逃れるように首を竦める。耳をすませばガチャガチャと外側から鍵を閉める音が聞こえ、毎朝聞き慣れたその音を合図に目を閉じ、ガチャンとロックが掛かった音とともに足音が少しずつ遠ざかっていくのを夢心地のまま聞いた。防音が聞いているわけでもないので外の音は室内まで当たり前に届くが別に不快には思わず、寧ろその音を聞くのは好きだったりする。
そんな音を聞きながら僕はそのままゆっくりと睡魔に身を任、夢うつつの間を行ったり来たりを繰り返し、心地の良いまどろみの中へと落ちていった。世の中は一日の始まりを迎えるが、僕は自堕落な世界を今日もゆったりと過ごす。これが今の自分の日常であって、きっと一か月前の自分が今の自分の光景を見たら驚きに腰を抜かすであろうそれぐらいにこの一か月で自分の世界は一変した。まさか一回りも年上の男性に拾われ、日がな一日何もせずに暮らすなんて全く想像なんてしていなかった。一寸先は闇というが、まさに今、自分がその言葉を体現している。
一か月前、僕を拾ってくれたこの家の主は敬 くんという。30代も後半の彼は質素すぎるほど質素な生活をし、趣味があるわけでもなく恋人がいるわけでもなく、ただ毎日仕事に出掛け、どこに立ち寄るわけでもなくいつも同じ時間に帰ってくるロボットのような人だ。そんな敬くんからジェイと呼ばれている僕は、ジェイという名前でもなんでもないし、名前にJという文字が含まれているわけでもない。敬くんが僕を拾う際、「名前何?」と聞かれたので「何でもいいよ。好きな名前で呼んで」と言ったら「じゃあジェイで。飼ってた犬の名前なんだけど、昨日死んだんだ」ということで決まった。だから今、僕がここにいるのは亡くなった犬の代わりにそのポジションに収まっただけで、それ以上でもそれ以下でもない。ペットと同等。だからこそ何事も興味のない彼が僕を置いてくれているのかもしれない。本当に不思議な感じだった。
僕の実家はそれなりに裕福だったりする。祖父が大手都市銀行を傘下にもつ金融HDのCEOを務め、金融に興味のなかった父はその地位を継ぐことを放棄し、別途商船会社を興して僅か十数年で世界で通じる企業の育て上げた。所謂、祖父も父も優れた商才と経営の持ち主であって、そんな家柄の一人息子として育った僕は一般的にかなり恵まれた環境に幼い頃から身を置いていた。そもそも祖母が旧財閥系の血筋を引いていることもあって、どこをどう辿っても選ばれた人種の部類に当てはまり、幼い頃から傅かれることが当然の環境で育ったためクラスメイトが挙って向ける羨望の視線の意味が分からず、自分にとっては恵まれた環境がいわば普通だった。何不自由ない暮らしというのだろうか、寧ろ周囲に全てが揃っており、自分がやりたいと思ったことは何の支障もなく自分の好きなタイミングで始められ、嫌なことは嫌といえば一言でシャットアウトすることができる。
それでも我儘に育たなかったのは両親はもちろんのこと何より祖父母がとりわけ躾に厳しく、規律正しい生活を送ることと人として真っ当に生きるための倫理観を植え付けられたことが大きいだろう。成績の良し悪しより品性を重視され、だからこそ家での決まりごとを破ったこともなければ、校則を無視したこともない。常に礼儀正しい人間として生きていた。
小学校も中学校も高校も、それこそ大学でさえ両親が望んだところに進学し、最良の成績を納めて自慢の息子と何度褒められたかしれない。自分もそれが苦痛だとは思ったことはなかった。だけれど一昨年、大学2年時に教授の推薦で海外の指定校へ留学した際に自分の存在がいかにつまらないものかというものを気づかされ、自由奔放な友人たちと付き合うにつれ、そこでずっと心の中にいたであろう自我が目覚めた。自分で考え、自分で行動し、その責任を負うという大変さと面白さは想像以上に衝撃で、初めて自分の人生を自分で歩む意味を知る。
最初、留学期間は一年だったが卒業までの二年に引き伸ばしてもらい、その間で友人たちと小さいながら会社を作ってビジネスの真似事をし始めると一気にのめり込んでしまった。商才があったかどうかは分からないけれど、徐々に販路を広げ、事業形態を大きくし、取引先も増えていけば夢中にならないほうがおかしいだろう。大学の卒業後は事前の約束どおりに帰国するはずがいろいろな言い訳を積み上げて滞在し続け、祖父母や両親の再三の忠告を無視続ければいつかは諦めてくれると思ったのだがそんなに甘い世の中ではなかった。外務省を通して滞在ビザを止められ、パスポートも失効させられるという実力行使に出られれば自分に敵うはずもなく、挙句に作った会社も潰されてしまい、自分の惨めさをまざまざと感じさせられ、何より祖父と父に対して初めて怒りが湧き上がった。そうして帰国した僕に与えられた罰は祖父の会社への就職と、見ず知らずの人間との婚約だった。
留学する前の自分なら当たり前に受け入れたであろうそれも今の自分では自由を奪うための枷にしか思えず、絶望と怒りの狭間で全てが嫌になって一万円札だけを手に持ち、着の身着のまま家を飛び出した。身分証はもちろん、財布もスマホすら持たずに駅へと行き、買える範囲で遠くに行ける切符を買い電車へと乗り込む。今思うと自暴自棄という言葉が当てはまるが、そのときの自分はこの世界から一刻も早く消えてしまいたかった。死にたいわけじゃないけれど、自分じゃない自分になりたかったんだと思う。品行方正な自分でも、両親の期待に応えられる自分でもない、自分が自分として生きれる世界に行きたかった。
だから辿り着いたここで、偶然啓くんに拾われたのは本当に幸運だったと思う。
行く当てもなくただただぼんやりと何時間も駅前のベンチに座っている僕へ、帰宅途中の敬くんが言葉をくれた。
「もうすぐ雨降ってくるよ。誰か待ってる…わけないよね。ここ、夜になると意外と治安悪いし、行くとこないならウチ来る?」
二度寝をして目覚めたら時刻は午後1時を差していた。締めきっていたカーテンは遮光性でも何でもないため当たり前に日の光が降り注ぎ、チラチラと顔面に当たる。いつもそのタイミングで目覚めることが多く、今日もそれで目が覚めた。窓が西向きだからしょうがない。
ぐっすり眠ったせいか身体のあちこちが痛く、もぞもぞと布団から起き上がり、両手をぐーっと伸ばせば身体のあちこちからパキっと音が鳴るがそれももう慣れた。最初の一週間は本当に慣れなくて、そもそもこんな薄い布団で寝たことがなかったので辛かったといえば辛くて、でも慣れとは恐ろしく、今ではこの布団でも当たり前に眠れるようになった。まぁ贅沢言える身じゃないし、そもそも所持金も数円しかない自分が一か月近くも暖かい場所で生きていける時点で奇跡なのだから今のこの環境が天国といえばそうだろう。
パジャマとして買ってくれたスウェット姿のまま立ち上がり、僕が寝起きですることといえば自分の寝ていた布団を三つ折りに畳むことだ。別に畳まなくてもいいし、そうして欲しいと敬くんから言われたわけじゃないけれど何となく部屋が狭いので日課にしている。少しだけ広くなった室内を2歩あるけばすぐ扉があり、そこを開くと狭いユニットバスがあるので冷水で顔を洗って少しだけ残っていた眠気を完全に落とした。
「髪、伸びた…」
濡れた前髪をタオルで拭っていると、目が完全に覆うほど伸びていることに気づく。帰国したときはまだ目の上だったように思うが、やはり人間、どこにいても生きている限り伸びるものは伸びるらしい。以前なら祖母に注意される前に行きつけの美容院へ切りに行っていたが、今はお金が無いのでどうしようもない。んー…と暫く考えた後、タオルを持ったまま部屋に戻り、使ったタオルを肩に掛けたまま冷蔵庫を開いた。
「帰ってきてから敬くんに切ってもらおう。短くなればなんだっていいや」
長く落ちる前髪を鬱陶しく横に流しながら、用意されている昼ごはんを取り出す。といっても、おにぎりが2個だけのシンプルなものだった。僕はラップに包まれたそれを手に取って空いているスペースに座り、もそもそと食べ始める。ここに来てから一人で過ごす時間は長いがテレビを点けたことはなかった。見たいものがあるわけでもなく、何よりあの音が煩いと思ってしまうぐらいにここの静かな時間が心地よかった。地方の、しかも結構奥まった部分にあるこの地域はそれなりに人口は多いけれど住宅街がメインのベッドタウンらしく、朝夜は賑やかしいが日中は驚くほどに静かだ。数キロ離れた踏切の音が聞こえるぐらいに。今も今で遠くで、ガタンガタンガタンと電車が走る音が響いてきた。
「…梅干し、うま」
海苔すら巻かれていないおにぎりも、敬くんが作ったと思うと余計に美味しく感じる。そんなに長く生きてきたわけじゃないけれど、彼ほど優しい人に会ったことはない。行く当てもない自分を家に招いてくれ、事情も聞くことはせずに、毎朝「今日は何する予定?」とだけ聞いて出勤していく。年齢は30を超えているがどう見ても同い年ぐらいにしか見えないのは絶対に童顔のせいで、施設で育った彼は今の仕事に就くまで結構大変だったと教えてくれた。
「中学校出たら施設も出ないといけなくて、最初は住み込みのバイトしてたんだけどやっぱ不安定だからいろいろ探して。学歴不問って言っても大学卒業は当たり前なんだよね」
今、正社員で働いているところは駅前にあるパン屋だそうだが、給与は平均賃金よりもかなり安いが本人は働けるだけでいいと言っている。自分が生きてきた世界では到底信じられないけれど、だからこそこんな自分でも受けれてくれたに違いない。飼っていた犬の代わりでもいい。今が自分にとって幸福以外の何ものでもないのだから。
おにぎりを二個食べ終わり、包んであったラップをゴミ箱に捨てた。時間は気づくといつの間にか進んでいっているものの、何もすることがないので何かしないといけないというような焦りはなかった。スマホすらないので誰からの連絡もなく、ただただ怠惰な時間を毎日過ごして終わる。唯一している日課といえば、朝に敬くんへ言ったとおり散歩に行くぐらいだろうか。都心のど真ん中の広い敷地で暮らしていたことも、海外へ留学していたことも、そこで自分の会社を作ったことも、無理やり帰国させられたこともまるで夢の中の話のようで、現実味は一切なかった。今、ここにいる自分が本来の自分のようにすら思えてくるから不思議だ。品行方正な過去の自分を思い出し、ふふ、と可笑しくなる。
「――――このままここで一生暮らしたい」
この狭い9畳が自分にとっての世界の全てで、僕は敬くんの帰りだけを待つそんな生活がこの先ずっと続けばいいと本気で思った。
ボーっと窓の外を暫く眺めた後、外出用の服に着替え、少しだけ寝癖のあった髪の毛にブラシを通してから家を出た。鍵はここに住み始めたとき念のために持っていてと敬くんから渡されている、シルバーのシリンダーキーを。自宅は当たり前に、留学していたときに住んでいたマンションさえもオートロックだったので施錠する習慣はなく、最初こそ何回か鍵を掛け忘れて出掛けたこともあったため、これでは駄目だと自分で戒めて以来一度も忘れなくなった。気が抜けているといえばそうだろう。
昼下がりの穏やかな時間、決まったコースをのんびりと歩く。もうそろそろ11月になるとはいえど、日中は冬の気配なんて一切せず、秋の延長のように暖かい。人の影すらないアパートの前の細い道を抜け、小さな公園の脇を通って比較的大きな川沿いへと出れば一気に視界が広がる。大きなビルは無いけれど、低く並んだ住宅の屋根がなだらかに続き、遠くには小学校の建物が見える至って普通の光景が自分にとってはすごく輝いて見えた。都内に住んでいたときには見たことがない温かい雰囲気は未だに自分を感動させてくれる。顔を上げて、少し小高くなっている河川敷沿いの遊歩道をゆっくりと歩いた。平日のこんな時間に、呑気に散歩する自分が可笑しくて堪らず、知らずに鼻歌が零れる。
ここに来て一か月。本当に散歩以外何もしていない。家のことは敬くんがやってくれるし、「何か手伝えることある?」と聞いても「特に何もないよ」と言うだけで食事の準備から掃除まで全部敬くん任せ。亡くなった犬の代わりに拾われて、犬のようにただただ怠惰で暮らす日々。敬くんに飼われているといっても間違いない。衣食住全て彼にお世話になっているのだ、強ち間違いでもないだろう。
「よ、っと」
遊歩道の端まで辿り着き、階段を下って車道へと降りるといつも向かい側に無人の公民館があるのだが、今日はどういったわけか車が大勢止まっていて人が出入りしているのが見えた。何かイベントでもやっているのだろうか。車が来ていないことを確認した後、駆け足で車道を渡り、少し古びた門扉を潜ってふらりと建物の入口から中を見れば、イベントではなくワークショップをやっているようだった。掲示板に書かれてある講座名がいくつかあるところを見ると開催されているワークショップは一つではないらしい。
ご自由にどうぞとの看板の言葉につられ、靴を脱いでスリッパに履き替えて廊下をゆっくり歩きながら開け放たれた会議室のドアから一つ一つ何がやっているのだろうと見ていけば、香水の調合や刺繍、アロマキャンドル作りなど本当にたくさん開かれており、その中で興味を引かれたのが書道だった。週に一度、祖母の元へ書を教えに来てくれる先生がいて、ついでに僕も祖母の指示で高校を卒業するまで一緒に習っていたのを思い出す。有名な書家の先生だったらしくて何度か個展のようなものを開いており、その都度挨拶がてら見に行ったものだ。墨汁の匂いがその記憶を思い出せてくれ、何となく懐かしい気持ちになっていると部屋の奥の方から声を掛けられた。
「書道、やります?」
年の頃は、40か50か…自分の母より少し若い女性が僕の前へやってきたので、人好きの笑みを浮かべ首を横に振る。
「すみません。お金がないので参加できないです」
自分の現状を何一つ隠すことなく伝えると冗談だと受け取ったのかその女性は小さく笑って、目元の皺を深くした。
「今日はお試し体験なので無料なの。書道に慣れ親しんでもらうのが本来の目的だから。ほら今、文字を書くことさえ少なくなってきてるでしょ?この機会にその楽しさを知ってもらいたいの」
「そうなんですね」
「時間があれば書いていかない?」
敬くん以外の人と話すこと自体久しぶりだけれど、思った以上に普通に話せることに驚きながら、無料ならば書いてみるかとその人の話に乗って室内へと入ると中には自分以外に二人しかおらず、どちらかというと祖父や祖母に近い人たちだけだった。空いている席に座ると、声を掛けてきた女性が僕の前へふわりと半紙を置く。筆と墨は既に置かれていた。
「懐かしいでしょ。あ、それともやったことないかな?今の子は習字の授業は必須じゃないんでしょ?」
「そうですね。僕の学校でも書道は選択科目でした」
「授業数足りないものね、寂しいわ。筆の使い方とか分かる?」
「はい、大丈夫です」
そういって頷くと、「じゃあ好きに書いてね」とだけ言って彼女は去っていった。忙しいわけではないだろうが、文字を書くタイミングというのはそれぞれにあって、書道をしている彼女ならそれを分かったうえで邪魔しないためだろう。精神統一ではないが、やはり書道は集中力が大事だ。習っていた書家の先生も指導する以外は何一つ口を出さなかった。
姿勢を正し、一つ、小さく息を吐き出してから筆を手に取る。幼稚園から高校卒業まで、考えれば10年以上書道を習っていたのかと改めて思うと不思議な気がした。書く文字はすぐに決まった。左手を半紙の横に置いて静かに書き始める。使い古された筆なのか、先が少しだけ柔らかい気がしたが書く分にはあまり支障はないだろう。それに誰かに見せるために書くわけでもないので気が楽だった。
一陽来復
中学生のときに四字熟語を習った際に知った言葉だ。
筆を走らせていくにつれ心が無になるのが分かる。あぁこの感覚が好きだったと唐突に思い出した。何も考えず文字を書くとき、喧騒から逃れている感覚があって、だからこそずっと祖母と続けてたのだと気づかされた。あの時から無意識のうちに優等生然とした生活が嫌だったのかもしれない。
書き終わり、少しだけバランスが悪い気もするが、数年ぶりに書いた割には良い出来栄えのようにも感じる。よし、と頷いて席を立った。見ればあの女性は新しく来た人へ受講の話をしていて忙しそうだったため声を掛けずに僕は教室を出る。今日は散歩以外の違うことを経験でき、充足した気分になった。ワークショップが開催されている公民館を出てアパートへ戻るべく、散歩を続ける。まだ太陽は高い位置にいて、夕方まではまだまだ時間がありそうだった。
「ただいま」
敬くんがいつも帰ってくるのは午後8時すぎ。勤めているパン屋が午後7時に閉まるのでそこから閉店の作業をして戻ってくるのだろう。僕は床に座ったまま敬くんを見上げる。
「おかえり」
買い物をして帰ってきたのか右手には見慣れた赤色のエコバッグを持っていて、それが大きく膨らんでいた。
「何買ってきたの?」
「食べ物。冷蔵庫の中、何もなくなちゃったし。ジェイくん、プリンって食べたっけ?」
「何でも食べられる」
「値引きされてあったから買ってきた。賞味期限、今日までだからすぐ食べて」
節約が身についている敬くんは割引されているものしか買ってこなく、今日買ってきたものも殆どが値引きのシールの貼られているものばかりだ。ごそごそと冷蔵庫にしまうそれらを眺めながら、僕は折りたたまれている小さなテーブルを取り出した。狭い部屋なのでダイニングテーブルのようなものはなく、食事をするときはもっぱらこの折り畳み式のテーブルを使っている。大人の男二人が囲むような大きさではないが、食事をするだけならこれだけで十分だった。今から敬くんが夕飯を作ってれるのを僕はこの前で待っている。
買い込んだ食材を全て冷蔵庫へと入れ、キッチンの前に立つ敬くん。夕飯は何がいいか敬くんは聞かないし、僕も何が食べたいか言わない。敬くんが作ってくれたものをおいしいと食べるだけ。うどんの袋が見えたので今日の夕飯はうどんだろう。冷凍庫の中から予め刻んで保存させていたネギを取り出していたので間違いない。少し大きな鍋に水を入れ、それをコンロにかける。沸騰する前にうどんを二玉と出汁スープを放り込めばすぐに出来上がった。ネギは火を止めてから放り込んでいる。
「ジェイくん、自分の分取りにきて」
「わかった」
言われて立ち上がった僕はどんぶりに入った出来立てのうどんを一つだけ持ち、ついでに自分の箸を手に取った。緑色のがそうだと言われたのでずっとそれを使っている。敬くんのは青色だ。お揃いでも何でもなく、適当に買ったものらしい。何物にも執着しない敬くんらしいと思った。薬味は一味唐辛子だけのシンプルなもので、だけれど誰かが自分のために作った食事ほど美味しい物はない。
敬くんも自分の分のうどんを持ってテーブルに着き、彼のいただきますの合図で食事をする。無言のままうどんを啜り、会話らしい会話もなく15分ほどで食べ終わった。無口というわけでもないけれど、敬くんが話したいと思ったら話すし、自分から何かを話すことはなく、いつもこんな感じなので気まずいことすらなかった。誰かと一緒にいて会話がなくても過ごせること自体、本当に不思議な感じだった。家族ですら何か話題を探してた気がする。それか食事をする際しか顔を合わせない両親からの止まらない質問にひたすら答え続けるかのどちらかで、家族団らんというより寧ろ面接を受けているような緊張感は確かにあった。
食べ終わった器をシンクへ持っていくべく立ち上がりかければ、「あ、そうだ」と珍しいことに敬くんが声を掛けてくる。
「ジェイくん、俺、明日休みになったからどこかで一緒に出掛ける?」
「え?本当?うん、一緒に出掛けたい。でも疲れてない?大丈夫?」
「大丈夫」
それだけ言って敬くんは最後のうどんを啜り、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。そうして立ち上がって僕の器を一緒に掴んでシンクへと持っていく。その小さな背中を眺め、じわじわと身体中に血が巡るのが分かった。敬くんと明日一緒にいられることが嬉しくて堪らないように心臓がドクドクと煩い。まるで飼い主に散歩へ連れていってもらえる犬の気持ちに近いように感じて仕方なかった。早く明日にならないかな、小学生のような気持ちを抱きながら気づかれないように静かに笑った。
2025/6/25
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