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「静かな稽古、ひとつの嘘」

登場人物 ジョセフ・ブラン(32歳) 舞台俳優。繊細な感性を持ち、真面目だが嘘もつける男。 寂しさを芝居に込めて生きてきたが、ある夜、年上の男と出会い、 初めて“演じないで済む時間”を知る。 ◆ヴィクトール・デュボワ(52歳) 警部。沈黙を武器にする不器用な男。 誠実さと責任感を背負い続けてきたが、ジョセフとの出会いで、 壊れてしまうような感情を抱く。 名前を呼ばれることに、戸惑いと幸福を感じている。 ※物語は、ふたりの“演技として語られた愛”を軸に進みます。 第1章 逮捕の夜、雨の音   その夜、パリは雨だった。 細い雨脚が路面を斜めに打ち、赤茶けた煉瓦の壁を静かに濡らしていた。街灯の明かりがにじみ、歩道に小さな光の川ができている。 ジョセフ・ブランは、アパルトマンの三階、いつもの窓辺に立っていた。 部屋の中にはまだ、夜の気配が残っている。 崩れたシーツ、ベッド脇に脱ぎ捨てられたスーツのジャケット、そして昨夜ふたりが点けたままにしていたランプの淡い光。 ——昨夜。 ほんの数時間前まで、彼はその男の腕のなかにいた。 デュボワ警部。 五十二歳。 沈黙を武器にする男だったが、愛する時だけは、その手のひらに微かに震えを宿していた。 ジョセフは、あのときのことをはっきりと覚えている。 肌を重ね、名前を呼び合い、何も隠すものなどない時間。 芝居でも演技でもない、本物の時間。 ただの夜じゃない。 ——愛していると、声に出さずに伝え合った夜だった。 だからこそ。 だからこそ、それを「稽古でした」と言わなければならないことが、彼には耐えがたかった。   階下で騒めきが起きた。 窓の外に視線を移すと、雨のなかで警察車両のサイレンが青白く明滅している。 制服の男たちの中央に、手錠をかけられたひとりの姿があった。 ——彼だった。 傘も差さず、帽子を深くかぶり、何も言わずに歩いている。 その沈黙は、まるで「最後まで言わない」と決めているかのように見えた。 ジョセフは、喉の奥に詰まるようなものを感じた。 昨夜、彼が何度も確かめるように名前を呼んだ声が、まだ耳の底にこびりついている。 「ジョセフ……」 「……もう、大丈夫だ」 その言葉が、今も嘘ではないと信じたい。 けれど現実は、彼の目の前で連れていかれる男の姿だ。 ——何もしていない。 けれど、何も言えない。 自分が、彼のアリバイそのものだから。   声をかけたいと思った。 けれど、名前を呼んだ瞬間に、すべてが崩れてしまいそうだった。 ジョセフは、窓をそっと閉めた。 そしてゆっくりと、ベッド脇のスクリプトブックを手に取った。 それは偶然、次回出演作の官能的なシーンの稽古台本だった。 目を伏せ、唇がゆがむ。 ふたりで過ごした夜を、「芝居の稽古だった」と言わなければならない。 たとえ、それが本当は、ただの愛だったとしても。 限りなく白に近い嘘。 けれど、賭けるしかなかった。 彼を守るために。 愛を、証言に変えて。   静かな雨の音だけが、部屋の隅で鳴り続けていた。 第2章 証言の代償   午前十一時。パリ第九警察署の応接室には、うすく埃の匂いが漂っていた。 色あせた合皮のソファ。壁に掛けられた時計は、どこか緩慢に時を刻んでいる。 ジョセフ・ブランは、両手を膝の上に重ねたまま、静かに息を吐いた。 その仕草には、舞台俳優として培った“間”があったが、いま彼が必要としているのは、演技ではない覚悟だった。 向かいには若い刑事と、中年の書記官が並んで座っていた。 彼らはまだ、なにも訊いてこない。ただ、記録用紙の上にペンを置いたまま、様子を見ている。 「……それで、昨夜の二十三時から一時にかけて。デュボワ警部とどこで、どう過ごしていたか、思い出せますか?」 刑事の声は穏やかだった。だが、穏やかさというのは時に、本当の問いを隠すための仮面でもある。 ジョセフは、わずかに顎を引いた。 「……彼の部屋にいました」 「なるほど。何か理由があって?」 沈黙が落ちた。 思わず視線が、左手に置いたスクリプトブックに触れる。 その表紙は薄く擦り切れ、端が折れていた。新作舞台『ロジーナの告白』。その第六場に、情事のシーンがある。 昨夜、自分はその稽古をしていたわけではない。 彼の体温を感じていた。抱かれていた。あの目に見つめられながら、自分の名を呼ばれ、肌に爪を立てられ、愛されていた。 ——なのに。 「……次の舞台で、情事の場面があるんです。稽古相手が見つからなくて、デュボワに、少しだけ付き合ってもらいました」 声が震えそうになるのを、喉の奥で抑える。 「昨夜が、初めての……稽古、でした。台詞の確認と、感情の……流れを掴むために」 ほんとうは、台詞など交わしていない。 あったのは呼吸だけ、指の温もりだけ。台本にない、名前を呼ぶ声だけだった。 けれど今、自分が差し出せる“真実”は、それだけだった。   刑事がゆっくりと頷く。 「なるほど。……で、その稽古というのは、どのように?」 ジョセフは瞬きもせず、まっすぐに相手の目を見た。 言葉を選ばないといけない。嘘に見えないように話すことではなく、本当に“そこにあった感情”を伝えることが大切だと、俳優としての直感が告げていた。 「……肌と肌が近づく芝居は、演じ手がどこまで本気で踏み込むかが問われます。昨夜は、たしかに踏み込んだ稽古でした。彼も、真摯に応じてくれました。ふざけることなく、……優しく」 “優しく”という一語が、喉をすり抜ける瞬間、胸の奥が鈍く疼いた。 それは、真実だった。 ジョセフは目を閉じた。   ——あの夜。 ふたりの間にあったのは、嘘でも演技でもなかった。 ただ、名前を呼ぶ声と、手のひらの重みと、長く待ち続けた愛の証だった。 そして今、それを守るために。 ジョセフは、「芝居の稽古だった」と言い切った。 それが彼の選んだ、嘘ではなく、愛のかたちだった。 第2.5章 黙して語らず(デュボワ視点)   取調室は、音がよく響く。 壁は薄く、時計の針の音さえも、耳に残る。 ヴィクトール・デュボワは、テーブルの上に組んだ両手を見つめていた。 傷の痕がひとつ、右の拳にある。二十代の頃に殴り合った事件の後遺症だ。 ——殴られたほうは、今でも彼のことを「クソ真面目な犬」と呼んでいる。 自分では、あれが警察官としての“限度”だったと今でも思っている。 だが、あの夜。 自分にかけられた容疑は、あまりに汚れていた。 「深夜、ひとりの青年を暴行した疑い。現場付近での目撃証言あり。しかも、動機が……」 聞くに堪えない。 ——性的な欲求からだったと、そう噂されている。 そしてアリバイを証明できるのは、ただひとり。 彼の名を、心の奥で呼ぶ。 ジョセフ。 昨夜の彼の肌のぬくもりが、まだ手のひらに残っている。 髪の香り、背にまわした腕の細さ、ふと漏らした吐息。 それが、こんなかたちで裏返るとは思わなかった。   事情聴取に入ってきた若い巡査が、記録ファイルを開く。 「警部、証言が出ています。三階のジョセフ・ブランという男が、アリバイになってくれると」 デュボワは眉を動かさず、ただ視線をあげた。 「……そうか」 「ただし……内容が……」 「稽古をしていた、と?」 「……ええ。あなたに舞台の台本を手伝ってもらっていたと。情事のシーンだそうです」 一瞬、テーブルの木目が歪んだように見えた。 だが彼は、表情を崩さなかった。 ——そうか。 そういう嘘で、彼は俺を守るつもりか。 苦い笑いが、喉の奥でかすれた。 それは嘘じゃない。 いや、少なくとも、愛に似た真実だ。   昨夜、ジョセフが言った。 「あなたの前では、演じたくない」 その言葉に、彼はなにも答えられなかった。 役者にとって、演じないというのは、剥き出しでいることだ。 恐ろしくて、美しい選択だった。 そんな彼が、今。 堂々と「稽古でした」と嘘をついている。 それは、愛に似た覚悟だった。   「……演技か」 デュボワは静かに呟いた。 「なら、俺も黙っていよう」 「はい?」 「なにも話さない。それが、彼への信頼ってやつだ」   巡査が戸惑うのがわかった。 だが、彼に説明などする必要はない。 演じる者の嘘は、真実より深く響くことがある。 そう信じられるのは、昨夜、ベッドの中で見た彼のまなざしを、まだ覚えているからだ。   デュボワは、椅子にもたれ、目を閉じた。 雨の音は聞こえない。けれど、記憶のなかの声は鮮明だった。 「ヴィクトール……好きだよ、名前も、呼び方も」 誰にも聞かせられない声だった。 けれど、それだけで、この取調室のすべてに勝てる気がした。   彼は黙して、すべてを語った。 第3章 再現の前に   静かな雨の音を聞いていると、なぜかいつも、あの夜のことを思い出す。 ——出会った、最初の夜のことを。   アパルトマンの階段は、年季の入った木の軋む音がした。 赤い絨毯は薄くなり、壁の漆喰もところどころ剥がれている。けれど、そこに立っていた彼の背中は、妙に調和していた。 警察官であるとは、最初気づかなかった。ただ、黒のコートを着たまま黙って立っているその姿が、妙に気になった。 その日、ジョセフは手にスクリプトを抱え、郵便受けに向かっていた。 書きかけの手紙を落としたとき、男がそれを拾って、無言で差し出してくれた。 「Merci」 初めて聞いたその声は、想像よりも低く、やわらかかった。 その日から、廊下ですれ違うたびに、わずかな会釈が交わされるようになった。 最初の会話は、ごくささいなものだった。 雨が降っていた日の夜、階下の住人が廊下の電灯を切ってしまい、暗がりで出会ったふたりは、 たがいの存在に驚いて、ふと声を出して笑った。 「演劇の人、ですよね」 「……ええ。あなたは?」 「警察です。隣の区の警部をしています」   それだけのやりとりだった。 けれどその夜、ジョセフのなかにはっきりと芽生えたものがあった。 ただの関心ではない。 ただの孤独の埋め合わせでもない。 あの人に触れてみたい、と。 そう思った。直感的に、そして静かに。   関係が始まったのは、それからさらに三度、顔を合わせたあとの夜だった。 ジョセフが、うまく演じられなかった台詞の話をしたとき、彼は思いがけずこんなことを言った。 「……芝居はしない。そう決めてる」 「じゃあ、どうやって人と付き合うんです?」 「触れて、黙って、時間を重ねるだけだ」 その言葉のあと、ふたりの間に沈黙が落ちた。 なのに、怖くなかった。 むしろ、ようやく言葉をやめられたことに、ほっとしていた。   部屋に戻ったのは、どちらからともなく。 灯りを落とし、靴を脱ぐ音も、鍵の音も、夜の静けさに吸い込まれていった。 互いの顔を真正面から見つめたのは、そのときが初めてだった。 触れたのは、彼の手の甲。 それから、頬のうえ。 シャツを脱いだのはジョセフからだった。 けれど、抱き寄せたのはデュボワだった。 肌が触れた瞬間、演技でも台詞でもないものが確かにそこにあった。 熱と、震えと、欲望と、静かな許し。 声を立てずに、彼の名前を口の中で呟いた。 耳元に落ちた吐息が、熱を帯びていた。   夜が終わったあと、ベッドの中で彼は静かに言った。 「……演じなくていいのは、あなただけだ」 そのとき、ジョセフは気づいた。 この男の孤独も、寂しさも、すでに自分のものになりつつあるのだと。   目を開ける。 現実は、冷たい裁判所の再現要請。 台本を使って、あの夜の“稽古”を、芝居として演じるよう求められている。 けれど、彼はもう覚悟していた。 あの夜が愛だったと証明するためなら、どれだけ嘘を塗り重ねても構わない。 ジョセフ・ブランは立ち上がり、濃紺のコートの襟を立てた。 ——彼を守るために。 そして、自分の愛が嘘ではなかったことを、演じてみせるために。   再現の舞台が、幕を開けようとしていた。 --- 第3.5章 見返した瞳(デュボワ視点)   ひとの顔というのは、ふとした瞬間に焼きつくものだ。 ジョセフ・ブラン。 三階に住む若い舞台俳優。 最初に見たのは、階段を駆け下りてきて、手紙の束をばらまいたときだった。 拾って差し出すと、彼は少し笑って「Merci」と言った。 ただそれだけのことだった。 だが、それから数日、彼の姿を何度も思い出すことになった。 ——おかしいと思った。 若い頃のように情事を求めるでもなく、警察署の女事務員たちに向けるような視線でもない。 ただ、“そのまなざし”を思い出すたびに、胸の奥がざわついた。 ジョセフの目は、演じる者の目だった。 だが、演技であっても、そこに感情が宿ると、逆に“演じていない”ように見えるときがある。 そしてその目が、自分のことを見ていた。   何度か廊下ですれ違い、話すようになった。 声は柔らかい。 だが、柔らかさは武装にもなる。 彼がどれだけ本音を隠しながら日々を生きているのかは、長く職に就いている者なら、すぐにわかる。 彼は、自分を演じていた。 だが、それは誰かに見破られたい者の目だった。   雨が降った夜のことだ。 階段の踊り場で、ふたりだけになった瞬間、互いに息を止めたような空気があった。 明かりの消えた暗がりで、ジョセフが不意に小さく笑った。 「演劇の人、ですよね」 「……警察です」 「なるほど、物静かな役どころだ」 そう言ったあと、ほんの一瞬、彼がこちらを正面から見た。 笑いもせず、冗談も言わず、ただまっすぐ。 ——ああ、この目に見られるのは、危険だ。 そう思ったのに、足が動かなかった。 そう思ったくせに、まなざしを返してしまった。 その夜のあと、彼の部屋を訪れた。 言い訳も、理由もなかった。 インターホンも使わず、扉の前で立ち尽くしていた自分に、彼は黙ってドアを開けた。 そして、何も訊かなかった。   部屋に灯りがともったとき、彼はすでにシャツを脱いでいた。 躊躇いも虚勢もなかった。 ただ、胸を見せるようにして、静かにこう言った。 「あなたの前では、演じなくていいんですか?」 彼の細い肩を見たとき、不思議と、抱かなければならないと思った。 欲望ではなく、赦しに似た衝動だった。   肌に触れた瞬間、ひどく懐かしいものに触れたような気がした。 若くはない体、冷めた心、傷跡のある人生。 それでも、彼はこの腕の中で目を閉じた。 そしてそのまま、朝まで動かなかった。   名前を呼んだ。 それもまた、十数年ぶりだった。 「ジョセフ……」 息の混じった声が、彼の首筋で震えた。 彼は、唇を寄せて、ただ黙って応えた。   それからだ。 世界が静かに変わりはじめたのは。   今、取り調べ室でひとり。 再現を求められた“嘘”の稽古。 だが、あれは本当に芝居だったのか? いや、演技よりも真実だった。 ただ、舞台に乗せられないだけで。 彼が嘘をついているのではない。 彼は、愛を“証言”しているのだ。   デュボワは目を閉じ、また彼の肌の温もりを思い出していた。 それだけで、すこしだけ世界に耐えられる気がした。 4章につづく (来週更新予定です)  

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