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第2章 タイプライター 第5話

 稜の家を出た時は晴れていたのに、帰りには雲行きが怪しくなってきたので、できるだけ急いで家に戻る。家に入った途端雨が降り出し、ギリギリでしたね、と二人で笑った。 「では、早速カレー作りますね」 「お願いします」  真澄はキッチンに入り、使う食材を出して、残りはそれぞれ適した場所にしまう。電子レンジで温めるだけのレトルト食品など、稜がいざと言う時に困らないものと、二日分の食材を中心に買った。レトルト食品はわかりやすいように、カウンターの上に置く。  さあ作るぞ、とふと稜を見ると、彼はノートパソコンをダイニングテーブルに持ってきていて、イヤホンで何かを聴きながらキーボードを打っている。見えないのに器用だなと思うのは、彼が目を閉じて作業をしていたからだ。  邪魔しちゃ悪いかな、と真澄は極力静かにカレーとサラダを作り始めた。  しばらくしてカレーができあがるころ、イヤホンを取った稜がカウンターまでやって来る。 「できました?」 「あ、はい、もうすぐ。……すみません、待たせてしまって」  真澄は苦笑して謝ると、稜は少し考えた素振りを見せ、口を開く。 「……俺、今高岩さんのこと責めましたか?」 「え……?」  思ってもみない切り出しに、真澄は一瞬止まる。短く息を吐いた稜を見て、不快にさせたと思い、ひゅっと息を飲んだ。 「すみません……っ」 「だから、何もしてないのに謝らないでください。そういうの、俺は嫌いです」  そう言われて、真澄はまた謝ろうとしている自分に気付き、口を噤む。グツグツとカレーが煮える音が妙に大きく聞こえて火を止めると、「一緒に食べましょう」と誘われた。 「え、でも僕は仕事中ですし……」 「高岩さんも一人暮らしなんでしょう? 田口さんからそう紹介されてます」  だから家事はある程度できると聞いてますよ、と稜はテーブルに戻って行った。真澄は慌てて皿を用意し、炊いてあった米とカレーをよそう。 「高岩さん、俺のところにいる時は、何でもないのに謝るの、禁止にします」  慌ただしく食事の準備をする真澄をよそに、稜は真っ直ぐ前を向いてそう言った。そう言われても反射神経で謝ってしまうので、真澄にとってはかなりハードルの高い要求だ。  テーブルに二人分の食事を並べると、稜はテーブルの端から手の小指側を滑らせ、皿とスプーンの位置を探り当てる。カレーだけですか、と聞かれたので、サラダもあります、と答えると、稜から見て何時の方向に置いたか教えてくれと言われた。 「えと、……十時……?」  真澄は自信なく言うと、稜は笑って「なんで疑問形なんですか」とさらに手を滑らせ、サラダの位置も探る。 「いつの間に作ったんですか? 高岩さんは、いないかのように静かなので、時折帰ったんじゃないかって思っちゃいますよ」 「す、すみま……」  真澄は謝りかけて口を閉じた。稜がスプーンを持って食べ始めたので、真澄もおずおずと食べ始める。 「うん、美味しい」 「……あ、ありがとうございます……」  今度は先程のように咎められなかった、とホッとした。 「高岩さんは、大学生?」 「え、……はい、そうですけど……」 「俺は今年の九月で二十歳。高岩さんは?」 「あ、僕も八月で二十歳です……」  じゃあ同い歳だ、と稜はカレーを頬張る。いきなりどうしてこんな話をしているんだろう、と疑問に思いながら、真澄も食事を続ける。 「高岩さん、同い歳なら敬語はやめませんか?」 「え?」  稜の会話の意図が読めなくて、真澄は戸惑った。こちらは仕事中で相手は客だし、今のまま敬語でいいと思うけれど、どうして彼はそんなことを言うのだろう? 「こういう仕事は、信頼関係も大事だと思います。高岩さん、俺のこと苦手でしょう?」 「……っ、いえ、そんなことは……」  ズバリ言い当てられ、真澄は思わず社交辞令的に否定する。けれど稜は「そうですか?」と懐疑的だ。 「俺、高岩さんが来るまで、介助サービスに頼ってたんです」  また話が飛んだように聞こえて、真澄は手を止めた。 「でも、良い人に巡り会えなくて。向こうは、こちらを『可哀想な人』としてしか見なかったんですよね」  それがどうして今までの会話と繋がるのだろう、真澄はそう思いながら聞く。確かに、哀れみの目で見られるのは嫌だろうけれど、稜ならハッキリ「やめてください」と言いそうだ。 「なまじ、どういうことをやれば俺が楽になるのかわかるぶん、先回りしてやってくれちゃうんです。でも、俺はそれを望んでいないんですよ」  稜は、小さいころから晴眼者と同じように過ごせるよう、自分でできる限りのことはしてきたという。けれど大きくなって行動範囲が広がるにつれ、自分ができることの限界がわかってきて、そのジレンマに悩んだそうだ。 「だから、やれることは自分でやりたいんです。介助のノウハウを知らない高岩さんなら、先回りすることもないでしょうし」  そう語る稜は、なぜか嬉しそうだった。自分なら、目が見えなかったら引きこもりになりそうなのに、と真澄は思う。  本当に、強い人なんだなぁ、と思った。自分の置かれた環境に嘆きもせず、むしろできることを増やそうとしている。  ――どうしたら、稜のようになれるだろう?  真澄の中に、ハッキリとした稜への憧憬が生まれた。けれど同時に、自分には到底真似できない、と否定する気持ちも出てくる。 「同い歳だから話も合いそうですし。俺は高岩さんと仲良くなりたいと思ってるんで」 「……っ、僕と、仲良くなっても……何も得しませんよ……?」  稜と自分は真逆だ、と真澄は思った。嫌なことは嫌だと、声を上げてきた稜と、声を上げられずに生きてきた自分。どちらが人間的にできているかなんて、比べるのもおかしいくらい、明らかだ。 「ん? 高岩さんは損得で人と仲良くするタイプですか?」 「……っ」  自分の発言の、揚げ足を取られたようで真澄は息を詰めた。それに気付いた稜は、すみません、と謝ってくる。 「ああ、単純にそういう人なのかなって。そういう感じしなかったから意外で」  発言に他意はないと言われて、真澄はそっと息を吐いた。いちいち責められているように聞こえるから、やっぱり彼と接する時は身構えてしまう。 「いえ……。そもそも、友達なんていないですし……」  真澄はそう言って、自分で虚しくなった。自分のことは極力話したくない。そう思うのに、稜は遠慮なく聞いてくる。 「じゃあこの辺は地元じゃない? どこ出身なんです?」 「……」  真澄は黙った。どうしてこの人は、こんなにもズケズケと聞いてくるのだろう。こんな、ただの家事代行のバイトなのに。 「高岩さん? ……ああ、もしかして嫌でした? それならそうと言ってください」  何も言わずに不機嫌を見せつけても、俺にはわかりませんよ、とさも見えているような言い方をされ、真澄はかぁっと頬が熱くなった。 「わ、わかっているなら、どうして……」 「だって、嫌だって言われてませんもん」  開き直ったような稜に、本当に嫌な人だ、と真澄は思う。真澄が嫌だと言えないのをいいことに、聞かれたくないことを聞くのは、性格が悪いと言われても仕方がない。 「ねぇ高岩さん」  稜は居住まいを正すと、スプーンを置いた。 「俺、言葉以上の意味は含んでいません。それは何度か話しましたよね? それでもビクビクされると、こっちも落ち着かない」  見えなくても息遣いや声音でなんとなくわかりますから、と稜は付け加えた。  彼の言うことは正しい。正しいからこそ、強く聞こえるのは、自分が弱いからだと思い知らされ、さらに自己嫌悪に陥りそうになる。  わかっている。真澄は直接弱いと言われた訳じゃないのだ。けれど長年いた環境のお陰で、そういう考え方の癖がついてしまっている。 「……どうして、僕なんですか?」  こんな自分のどこに、友達になりたいという要素があるのだろう。本心から疑問に思い、聞いてみた。 「俺は障がい者の友達しかいなくて。身内は一応健常者ですけど、普通の大学生って、どんなのかなって……ただの興味です」 「普通の……」  理由としてはもっともらしいけれど、真澄は自分を普通と呼んでいいのかわからなかった。大学二年の一番自由がありそうな時期、遊ぶこともなく、バイトと大学を往復しているだけの生活をしているけれど、ほかの学生は異性と遊んだり、少し羽目を外したりしているのは知っている。 「僕を基準にすると、色々まずい気がします」 「なんでです?」  稜は身を少し乗り出した。切れ長の目はこちらを見ているけれど、やはり彼は見えにくいのだろう、視線は合っていない。でも、すごく興味をそそられたらしいのはわかる。 「何で……って、バイトと大学の往復しかしてませんから」 「……それは高岩さんが真面目なの? それとも苦学生?」  稜はなぜか楽しそうに再びスプーンを取り、カレーを頬張る。ただ単に聞いているだけか、とわかった真澄も、カレーを食べた。 「奨学金で一人暮らしなので。だから脇崎さんに雇ってもらえて助かってます」  今度は不思議と、自分のことを話すのに抵抗はなかった。自分のコンプレックスを刺激しない質問なら、案外するりと答えられるものだな、と真澄は思う。 「俺も同年代の人と話せて嬉しい。一人じゃ出かけるのも限界があるし」  そう言った稜は、綺麗にカレーをたいらげ、サラダの皿を取る。スプーンでは食べにくいだろうと、フォークを用意したけれど、稜は気付くだろうか。 「……箸、あります?」 「あ、フォークなら」  どの方向? と尋ねる彼に二時と答えると、稜は満足そうに笑った。 「やっぱり高岩さんを選んでよかった。飲み込み早いし料理も美味い」  ストレートに褒められて、真澄は少し呆然としてしまう。そんな風に言われたことなんてなかったし、褒められたことも久しぶりだったからだ。  どう反応していいのかわからず、真澄はまた黙ってしまう。 「高岩さん?」 「あ、ああ……。それは、……どうも……」  稜は、本当にストレートに言う性分のようだ。呼ばれて我に返った真澄は、軽く礼を言う。  こうして少し話しただけでも、稜は自分と正反対だと感じさせられる。彼なら、目が見えないことなどものともせず、一人で生きていけるのでは、と思わされるのだ。 (なのに実際、僕がいて助かったって言うし……)  稜は家族に付いて行かなかったと聞いた。なぜだろう? と真澄は興味を持つ。友達になりたいと言う稜になら、理由を聞いてみてもいいだろうか?  すると、時計が鳴った。鐘のような音が鳴る壁掛け時計が、夜の八時を指している。どうやら稜がわかるようにと、あえて音が出る時計を使っているらしい。 「あ、そろそろ時間ですね」 「あ……」  結局、真澄は大した話もできないまま、カレーとサラダをかき込んで片付けをした。  帰り際、稜が玄関まで来て「また明日」と笑ったけれど、どう反応するのが正解なのかわからない真澄は、「はい」と引き攣った笑顔で返すしかなかった。

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