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第7話

 今まで、声が大きい人はそれを利用して、自分の意見を押し通す人ばかりだったから、裏表がない稜の言動が新鮮に思えたのだ。最初の印象は、完全に真澄の思い込みだったとわかり、心の中で反省する。 「うーん、じゃあ、牛丼食べたいです。レトルトじゃないやつ」  稜は嬉しそうに話してくれる。昨日買ったレトルトの中には、牛丼もあった。けれどやはり、作ったものが良いと暗に言われ、真澄の心に温かなものが落ちる。  人に、頼りにされる……期待されるのは嬉しいものなのだと。  ――友達だよね?  ふと、高校の時に言われた言葉が蘇り、ぶわっと嫌な汗が噴き出した。違う、脇崎さんとアイツは違う、と小さく頭を振り、考えを打ち消す。 「……どうしました? やっぱり、無理があるようなら……」 「いえっ。……牛丼ですね。では、明日はそれにしましょうか」  真澄は微笑むと、稜は少しだけ何かを考えた様子だったが、「じゃあとりあえず、今日の腹ごしらえからしましょう」と席に着く。 「一人で食べるより、誰かと食べた方が美味しいですしね」  稜はウキウキと箸を探って持ち、早速よだれ鶏に手をつける。肉と一緒に添えのもやしも頬張ると、目を閉じて味を噛み締めていた。 「……本当は、品数多く作りたいんですけど……」  心底美味しそうに食べてくれるのが気恥ずかしくて、真澄はそう呟く。すると稜は、口にいっぱい頬張りながら「んん!」と声を上げた。 「俺らみたいな男子は質より量。それに、高岩さんの作る料理、めちゃくちゃ美味(うま)いから俺は大満足ですよ」  俺じゃこうは作れない、とまで言われて、ますます恥ずかしくなって、どうしたらいいのかわからなくなった。言葉が出ずに黙っていると、稜は咀嚼していたものを飲み込んで、笑う。 「もしかして、照れてます?」 「……っ、いえ……」  そう答えるものの、真澄は声音に焦りが混ざってしまったことを自覚した。けれど稜は何も言わずにいてくれる。それがありがたいと思いながら、真澄も料理を口にした。 「ところで、敬語はいつやめます?」 「それは……、脇崎さんはお客様なので……」 「それもそっか。じゃあ、俺はタメ口でも良い?」 「はあ……お好きにどうぞ」  なぜか楽しそうに会話を続ける稜に、不思議に思いながらも真澄は返事をする。あっという間に夕食をたいらげた稜は、満足そうに「ごちそうさまでした」と手を合わせた。 「本当に高岩さんの料理は美味い。店で出しても通用するんじゃない?」  食器を引き上げ、シンクでそれらを洗っていると、稜はまたあのタイプライターを戻してそんなことを言ってきた。必要に迫られて中学生のころからやっていたことが、こんなところで役に立つとは思わず、真澄は苦笑する。 「まさか。もっと美味い料理を作る人なんて、いくらでもいますよ」  これは本当にそうだと思う。真澄はどこかで修行をした訳でもないし、独学でやってきた。幸い、インターネットで情報が溢れている時代だ、家事炊事のやり方なんて探せばいくらでもある。真澄はそれらを真似しているだけに過ぎない。 「それはそうだけどさ……。高岩さんの料理食べた人は、喜ぶと思うけどなぁ」  誰かに食べさせたことないの? と聞かれ、真澄はいるにはいるけれど、と思う。叔母家族に毎日作って出していたけれど、感謝されることはおろか、味の感想さえ言われたことがない。真澄は苦笑して、そんな人はいませんよ、と答えた。  すると、真澄はテーブルにタイプライター一式を広げたまま、作業に移らない稜が気になったので促す。 「それより、良いんですか? 作業しなくて」 「ああ。これは完全に趣味だから」 「趣味……」  真澄はオウム返しすると、稜は点字が書いてある紙をヒラヒラさせる。 「点字翻訳。バイトの合間に練習も兼ねて、友達の依頼を受けてる」 「点字翻訳……」  聞き慣れない単語にまたオウム返しすると、稜は興味ある? と聞いてきた。真澄は今がチャンスだと思って、点字タイプライターを指さす。 「それ、懐かしい音がして……」 「それ? どれ?」  真澄は稜が見えないことをすっかり失念していて、慌ててタイプライターです、と答えた。ああこれね、と大事そうにタイプライターを撫でる稜の顔は、優しい。 「ガチャガチャうるさいでしょ? これでも静かなのを使ってるんだけど」 「……いえ、懐かしいできごとを思い出したので、見ていて楽しかったです」 「……」  真澄は父との思い出を振り返りながらそう答えると、稜はなぜか黙る。どうしたのかと彼を見たら、タイプライターを撫でた時と同じような表情で、こちらを見て笑っている。 「……いま、高岩さんの声色、すっごく優しかった。良い思い出だったんですね。こういう時、目が見えなくて残念だと思う、どんな顔をして言ってるんだろうなって」  見たかったなぁ、と言う彼は、多分深い意味はないのだろう。けれど真澄はその言葉にドキリとしてしまった。容姿に関しては良い思い出はないのに、表情を見たかったと言われて顔が熱くなる。 「だから、……僕なんかを見ても何もありませんよ」 「そう? 誰に対しても思うよ? どんな見た目なんだろうって」  声色で判断するしかない稜は、真澄の声と身体の輪郭しか知らない。それは、見た目がコンプレックスの真澄にとって、とてもありがたい事だった。 「……これ、触ってみたい?」 「……良いんですか?」  思わず声を上擦らせて聞くと、稜は嬉しそうに笑って「良いよ」と言ってくれた。食器の片付けを終えテーブルに戻ると、稜は座っていた椅子を譲ってくれる。 「この、ボタンはどれを押してもいいんですか?」 「うん」  真澄は恐る恐る、ボタンに指をかけた。右手の人差し指でボタンを押すと、ガチャン、と重たい音がする。  けれど真澄の中では、父と見たタイプライターの映像が蘇った。思い出の中の父は笑顔だったけれど、最期は自力で呼吸もできないほど弱って……。 「……っ」  真澄は反射的にタイプライターから手を離す。 「高岩さん?」  最悪だ、仕事中なのに泣きそうになるなんて。  真澄は素早く立ち上がると、まだ時間が余っているから掃除します、とリビングを出る。階段下の収納から掃除機を取り出すと、目についた部屋から掃除機をかけていく。  ――父親が死んだっていうのに泣きもしないのよあの子。  叔母の言葉が蘇り、真澄は頭を振った。その叔母は、母親が亡くなって真澄が泣いている時には、同じ口でこう言ったのだ。わあわあ泣いてうるさい子ね、と。  だから、泣くまいと必死に堪えていた。  そして、覚悟をしたのだ。  叔母には一切弱みを見せてはならない、と。 「……っ」  ダメだ視界が滲む、と真澄は半袖で涙を拭おうとした。けれど稜のシャツだということを思い出し、汚してはいけないとエプロンの裾で涙を拭う。  しかし、堰を切ったように感情が溢れて、掃除機を止めその場に座り込んだ。声が漏れないようにエプロンで口を押さえ、極力静かに震える息を吐き出す。涙腺が壊れたかのように涙は止まらず、仕事をしなきゃ、と思うけれど動けない。 「……高岩さん?」  真澄の肩が震えた。稜が真澄を探しに来たらしい。 「どこ? 返事して」  真澄は返事をしなかった。いきなり泣き出したのだ、稜は引いただろうし、情けない自分を見られたくない。  けれど、相反する気持ちに真澄は胸が痛くなった。心配するような稜の声音に、全部話して甘えたい、と。でもいくらなんでも最近会ったばかりの、しかもお客様にそんなことはできない。 「高岩さん?」  すぐそばで稜の声がして驚いた。音を出していないのにいる部屋を当てられ、真澄は息を潜める。  それなのに、稜は真澄の隣に腰を下ろした。胡座をかいて座り、そのまま黙っている。  それが、真澄には意外に思った。稜なら、どうしたのかハッキリ聞き出すだろうと思ったからだ。怒ったのか、悲しいのかわからないからちゃんと言え、と。 「……大丈夫?」  ぽつりと、稜はそれだけ言った。泣いていることも気付いているかのような発言に、真澄はドキリとする。  この人は強いだけじゃなく、ちゃんと寄り添えることができる人なのだと。 「すみません……仕事中なのに」 「緊急事態だったから仕方ない」  まるで真澄の心情を察したような発言に、思わず笑った。すると稜もフッと笑ったので、真澄は肩の力が抜ける。 「父を、……亡くした時を思い出してしまって」 「点字タイプライターで?」  そう、と真澄は頷く。 「タイプライターとオーケストラが一緒に演奏する曲があるんです。大笑いしてそれを観ていたのに、亡くなる時は自力で呼吸もできなかったなって」 「……そっか」  涙声で言いながら、真澄は不思議だな、と思った。今まで、こんな話を誰ともしたことがなかったのだ。真澄が両親を亡くしていると話すと、大抵の人は同情してそれ以上聞いてこなくなる。腫れ物に触るような視線をこちらに向けながら、近寄らなくなっていくのだ。  でも稜は違った。指先で真澄の背中を見つけると、そこをぽんぽん、と軽く叩かれる。すぐに手は離れたけれど、叩かれた場所が温かかった。その温もりが胸にも移って、真澄はこうして愚痴をこぼす相手が欲しかったのだと気付く。胸が熱くなって、またエプロンで嗚咽を堪えた。 「僕、父の前に母も亡くしてるんです。叔母の家に世話になってましたけど、そこでは悲しむ間もなくて……」 「……だからか」  意外な稜の言葉に彼を振り返ると、真っ直ぐ向いたままの稜は、もう一度真澄の背中を一回叩く。 「高岩さん、ここにいる時はすごく静かに過ごしてるから。外にいる時はそうでもないのになと思ったら、そういう環境だったんだな……」  真澄はまた驚いた。たった三、四回会っただけで、自分でも無自覚だったことを言われたのだ。 (確かに、いないかのように静かだって言われてたけど……そういうこと?)  すると、稜の手が頭の上に乗った。え? と彼を見ると、視線は合っていないけれどこちらを向いた稜が、くしゃくしゃと頭を撫でたのだ。 「え、ちょっと……さすがにこの歳で頭を撫でられるのは……」  真澄はそう言うと、稜の手がパッと離れた。本人も無自覚だったのか驚いたような顔をしていて、ごめんと謝られる。 「いえ。……脇崎さんからすれば、僕なんて子供っぽく見えるんでしょうから」 「俺、高岩さんの外見は見えないよ?」 「外見だけが、幼く見える要因ではないでしょう?」 「……わかった。ごめん高岩さん、無意識だったし謝るから許して」  言いながら、真澄はどうしてこんな細かいことで稜に突っかかっているんだろう、と思った。相手は客で、そんなに失礼なことをされたという訳でもないのに。いつもなら、気にするなと苦笑して流すことくらいは、しているのに。  だから、それが不思議で、おかしくて笑えてきて……嬉しくて泣けた。  友達になりたいという稜の言葉を、真澄は受け入れたくなったのだ。こうして自分のプライベートなことを、話せば聞いてくれる、そんな人が欲しかったのだと。  そして強くて優しい、稜のことを知りたいと思ったのだ。 (温かい……そうか、僕はこういう関係を望んでたのか)  支配するでもなく、依存するでもなく、対等で、お互い尊重し合う関係。そんな縁に今まで巡り合わせがなかったから、真澄はまた胸が熱くなった。 「すみません……止まらなくて……」 「良いよ。そういう時間も大事だし」  感情的には落ち着いてきたものの、なぜか涙は止まらない。真澄は、エプロンで顔を覆いながら落ち着くまでそうしていると、稜も黙ってそばにいてくれた。

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