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第5章 誕生日 第14話

「……じゃあ次。これは?」  八月に入り稜も夏休みに入ると、真澄は毎日のように彼に点字を教えてもらった。今も冷房が効いたリビングで、真澄が机の上に置いた両手に、稜が指でタップしていく。 「あい……何だろ? 次の文字が【う】段なのはわかるけど……」  口語的にコミュニケーションが取れる、指点字が良いだろうと言ったのは稜だ。確かに真澄は案内板などの点字を読む機会は少ないだろうし、コミュニケーションを取るのに道具が必要ないのは大きい。  真澄は首を捻って考える。  点字は縦三点、横二点の六点の中から、点のある場所の組み合わせで読みが決まる。その点の位置を、指に置き換えたのが指点字だ。  どちらも基本的に【あいうえお】の母音のベースがあり、それに加えて子音を表す点が付く。ほかに、濁音や半濁音、拗音なども一定の法則で表現されるようだけれど、まだ真澄はそこまで達していない。  意外だったのは、点字はすべてひらがなで表されるということだ。なので同音異義語はどう説明するか、点字訳のセンスが問われると稜は言う。 「ヒント。夏はこれが美味い。今食べたい」  そう言って、稜はもう一度指をタップする。今度は一文字ずつゆっくり区切って。 「あ、い、す……アイスクリーム!」 「正解」  単語の途中までわかれば、あとは予想して回答する。だからなのか正解率はなかなか上がらない。 「え、稜アイスクリーム食べたいの?」  それなら買ってくるよと真澄が言うと、稜はくすぐったそうに笑った。そしてまた、真澄の指をタップする。 「食べたい。一緒に買いに行こう」  ほぼ喋るのと同じ速さで、稜は指点字をタップする。さすがだな、と思って真澄は席を立った。  こうして稜と外に出る時は、いつものように真澄の肩を掴んで歩くけれど、指点字を教わるようになってからは、さらに距離が近くなったように感じる。仲良くなれてるのかな、とくすぐったい気持ちになった。 「そういえば、ビジネス点字検定なんて資格があるんだね」  外に出ると、昼よりは良いものの、熱気と湿気がまとわりついてきた。辺りは暗く、家から漏れる灯りや、街灯の光を頼りに道を歩く。夜の道が怖いと思うのは、暗闇の向こうに何があるのかわからないからだ。稜は弱視とはいえ、その何があるかわからない状態がいつもなんだな、と肩を掴まれた手の力加減で感じる。こんなこと、稜に出逢わなければ、考えもしなかっただろう。 「興味持ってくれるのは嬉しいけど、あれは晴眼者に点字のことを知ってもらう目的のものだから」 「そうなの?」 「うん、ホームページに書いてあるよ」 「あ、そこまで見てなかった」  真澄は笑う。さすが稜、そういう情報もパソコンで調べているらしい。  思えば、稜はかなり物知りだ。点字訳には語彙力も必要と聞いたから、調べ物や読書は常にしているのだろう。そしてその情報収集に、パソコンが大活躍しているのはすぐにわかる。 「……やっぱり夜は怖いの?」  昼間の外出より、少し慎重に歩く稜は「まぁね」と強がっている。真澄も調べてわかったことだけれど、ほんの少しの段差で躓くことは、視覚障がい者あるあるのようだ。 「でも真澄がいるし。俺だって夜に散歩したい時もある」 「……そうだよね」  目が見えないからといって、欲求や感情が晴眼者と違うわけじゃない。稜も恋だってしている、普通の男なのだ。 「そういえば、明後日の誕生日は何食べるか考えた?」 「え、……うーん」  稜と出逢って約一ヶ月半。彼とは最初よりだいぶ打ち解けたと思っている。そして最近わかったことは、彼に好きな人がいるとわかって狼狽えたのを見た以降、彼は動揺や焦りを隠したがる傾向にあることを知った。見えないのが怖いのは真澄も一緒なのに、摺り足気味に歩く稜が微笑ましい。 「ケーキとか?」  そして真澄も、いざ祝われると思ったら、好きな食べ物さえ思い浮かばないことに気付く。そして稜は、そんな真澄に気付いているのか上手く誘導してくれるのだ。 「ご両親とよく食べてたケーキとかは?」 「あっ……」  真澄は声を上げる。両親は真澄を大切にしてくれていた。なので家族の誕生日はいつも、真澄の好きなケーキを食べてお祝いしていたことを思い出す。 「チーズケーキ、かな? 今思えばなんでチーズケーキだったのかもわからないけど」  笑い混じりに言うと、稜はクスクスと笑う。最近、彼はとくに真澄と両親のことを聞きたがる。そして真澄は聞かれたことで思い出し、自分は愛されていたと実感できるようになってきた。忘れかけていた感情を、思い出させてくれるのはありがたいし、真澄の思い出話を聞いた稜はくすぐったそうに笑うのだ。  ――だから、稜との会話はすごく楽しい。 「わかった、準備しとく」  そう言って、稜は機嫌良さそうに笑う。真澄も微笑んだ。  こうした時間が、真澄にとってどれだけ貴重なものか、稜は気付いているのだろうか。彼にとっては沢山いる友達の中の一人に過ぎないけれど、真澄にとっては唯一の友達だ。 (重くならないようにしないとな)  依存された経験がある身としては、稜の負担になりたくはない。今のこの距離が、一番心地良いのかもしれない、と真澄は思う。 (あ、でも……稜が助けてって言ったら助けてあげたい)  そうハッキリと心の中で言葉にした時、ストンとその気持ちが胸に落ちてきた。今までなら「偽善者」と聞こえてきていたのに。 (……そうか)  これが自分の言動に責任を取るということだ、と真澄は思う。今まで相談に乗る振りをして、苦笑しながらも流していた自分に気付き、これでは相手も怒って仕方がないなと思う。  でも、その時の真澄に余裕がなかったのも事実だ。本当は、自分も助けて欲しかった。家事をすることでしか認めてもらえなかった存在を、大切だと言って欲しかったんだな、と思う。 「稜」  真澄は彼の存在に感謝した。【嫌だ】と言わない癖に文句だけは一人前な、自分を変えたいと思わせてくれたから。 「ありがとう」  稜を振り返りながらそう言うと、彼は立ち止まる。肩を引かれる形になり真澄も止まった。 「稜?」  彼はなぜか苦笑している。何かまずいことを言ったかなと思っていると、小さな声で、「どういたしまして」と言われた。 「真澄、ちょっと顔触ってもいい?」 「え?」  立ち止まったまま、そんなことを言う稜に、真澄は戸惑いながらも「うん」と頷く。肩にあった手が首を通って頭に来ると、彼は両手で頭の形を確かめるように撫で、真澄の両頬に触れる。そして稜の利き手である右手で、鼻筋を触られた。その指先は鼻先を撫でると下に移動して、唇を撫で、顎の下まで来て再び頬を包むように触れる。 「……今までで一番優しい声だった」 「そう?」 「うん。どんな表情してるのか、見たくなった。ありがとう」  そう言って、稜の手は離れた。 「……今ので見れたんだ?」 「……顔の形は。真澄はイケメンだな」 「あはは、形だけでわかるの?」  真澄は声を上げて笑う。稜が再び肩を掴んだので、歩こう、と再び歩き出した。 「わかる。目が二つ、鼻があって、口もある」 「それ人間みんな同じなんだけど」 「俺にとっては外見なんかみんな同じだ」  真澄はまた笑った。外見のことを言われるのはあんなに嫌だったのに、と不思議な感覚になる。  稜が外見なんかみんな同じと言うように、彼は外見で人を判断しない。真澄の中身を見てくれていると思うと、やっぱり稜に釣り合う人間になりたいと……人として成長したいと思うのだ。 「……やっぱり稜はモテるでしょ」 「またその話か? ハッキリ言うぶん、反感を買うことも多いよ」 「ふふ、自覚はあるんだ?」 「真澄だって最初は俺のこと警戒してただろ?」  それでも、稜は人を否定しない。だから結局は好かれるんだろうなと真澄は思う。  やがてコンビニのひときわ明るい光が見えてきた。人とこんな風に笑い合いながら過ごすのは本当に久しぶりで、この関係を……稜との友情を大事にしたい、と心の中で呟く。 「光があるとホッとするな」  稜のそのひと言に、真澄もうん、と頷いた。真澄にとって稜は、先を指し示す、光だ。  楽しくて、ホッとする関係。それを維持できるように努力したい。  そう思って、真澄は稜とコンビニに入った。

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