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【Short Story】赫い楔

 男の舌が這うたび、皮膚がじわりと熱を帯びていく。胸元に張りついた手のひらは、指の先まで血が通っているのがわかるほど熱く、異様なまでに律儀だった。 「……そこ、噛め。命令だ」  息を低く吐き出すと、結城(ゆうき)は従順に乳首へ唇を押し当て、甘く歯を立てる。それはまるで、ひとつの呪いのような愛撫だった。欲情と忠誠、そして過去の亡霊。すべてを抱えながら、俺の肉体は濡れていく。  彼の顔は、あの男に似ていた。瓜二つと言っても良い。  悠真(ゆうま)――八年前、俺を裏切って消えた、これまでの生涯でたったひとり愛した男。  あの日、彼を愛していたと認めることすら、苦しかった。俺の心は今でも、あの裏切りの瞬間から閉ざされている。 「命令通り……いたします」  粛々と首筋を這うその舌に、俺は思わず息を呑んだ。  今のこれは、愛ではない。  奉仕だ。ただの行為。ただの代償。  ***  結城が俺の護衛として送り込まれてきたのは、ひと月ほど前のことだった。初めて顔を見た瞬間、その整った面差しに俺の喉が凍った。声も、目も、立ち居振る舞いも、あまりにも悠真に似ていた。  ――この男を壊せば、心のなかの幽霊も沈黙するだろうか。  それが、俺が彼を欲した理由だった。 「お前、今までに何人に仕えた?」 「……数え切れません。ですが、黒崎(くろさき)さんほどの方は初めてです。とても…光栄です」  嘘のような誠実さだった。だが、そんなものは信じない。忠義など、所詮は飾りだ。信じた瞬間に崩れ落ちる。それがこの世界の真理。 「なら、その忠義、証明してみせろ」 「証明?」 「意味は分かるだろ?体で奉仕しろってことだよ」 「……命令ですね」  男は静かに膝を折った。その額が、俺の膝に触れる。次いで、ベルトに指がかかる。夜が始まる。欲望の夜。死者の顔を借りた男に、奉仕を命ずるという――最低の夜が。  だというのに、心の奥底で疼くなにかが、どうしようもなく俺を惨めにさせる。  歪んだ関係――それだけが、俺の“正気を保つ術”だった。  ***  悠真が俺を裏切ったあの日のことは、今でも鮮明に覚えている。  その日、俺たちは組の支配する拠点を守っていた。どんな戦場でも、悠真は冷静で、護衛の中でも一番信頼できる男だった。だが、その日、俺の目の前で、彼は一度も見せなかった顔を見せた。  悠真は、突然銃口を俺に突きつけて言った。 「黒崎……これで終わりだ」  悠真の言葉が、頭の中に響く。その瞬間、何もかもが理解できた。彼が裏切ったのだ。 「お前、何を言っているんだ。組のために戦ってきたんだろうが!」 「違う、蓮。俺は、もうお前を守れない」  悠真は俺を見つめながら、冷徹な表情でその言葉を吐いた。そして何故かーー手に持っていた銃の引き金を引くことなく、彼は足元に落とした。背後から、数人の組員が悠真に向かって近づいていた。俺の心は、深い闇に飲み込まれそうだった。 「悠真、逃げろ……!」  その瞬間、彼が俺に向かって差し出した手のひらが、何もかもを終わらせた。悠真は、何かを悟ったような笑顔を見せ、ため息をつくように言った。 「俺がやるべきことは、もう決まっている。蓮、あの頃の俺に戻ることはできない」  その顔には、決して愛などなかった。むしろ、俺を諦めた顔だった。  そして、彼は組員から死ぬ寸前までリンチを受け、組を去った。  その日から、俺の心には空白ができた。彼の姿が見えないことに、深い安堵と同時に、どうしようもない寂しさが募った。  俺の心の中で、あいつは死んだ。過去の亡霊となった。  ***  ある晩、結城と二人きりになった部屋で、静かな時間が流れていた。窓の外には月明かりが差し込み、夜の闇を優しく照らしている。結城は黙って、ソファに座っていた。俺はテーブルの向こう側で酒を飲みながら、彼の顔をじっと見つめていた。 「結城、俺はお前をどうしても壊してしまいたいんだ」  結城はその言葉に一瞬、目を瞬かせた。しかし、すぐにその目は冷たくなり、微動だにせず俺を見返してきた。 「壊す?」結城の声は、平静を装いながらもどこか棘があった。「その言葉が、あなたの本心ですか?」  俺は無言でグラスを回しながら、彼の言葉をかみ締めた。確かに、壊したかった。それが、俺にとって唯一の生きる理由だったからだ。 「あなたが俺を壊すことで、何かが変わるのですか?」結城が低く、冷ややかな笑みを浮かべる。その顔は、まるで遠い場所を見ているかのように感じた。 「壊したいなら、壊せばいい。でも、それが本当にあなたの望むことですか?」  その言葉に、俺は何も言えなかった。心の中で確かに答えは見つかっている。だが、それを口にすることはできない。結城が俺に仕えている理由が、単なる命令の一部に過ぎないと分かっていたから。 「過去を変えることはできません、黒崎さん」  結城が立ち上がり、俺の前に歩み寄る。その距離が近づくたび、俺の心の中で何かが崩れそうになるのを感じていた。  彼は俺をじっと見つめながら、言葉を続ける。 「壊すなら、覚悟を決めてください」  その言葉に、俺は何も言い返せなかった。結城の目には、もうその先の未来が見えているようだった。俺が何を望んでいるのか、何を求めているのか――それを、すでに理解していたのだろう。 「過去は変えられないけれど、未来は変えられる、そう思いませんか?」  結城の問いは、俺の中に深く突き刺さる。それでも、答えを出すことはできなかった。彼と俺の間には、どんな結末が待っているのか、それすらも分からないままだった。  そして、その日が訪れたーー  ***  ある夜、俺たちは外出先で襲撃を受けた。舎弟の中の一人が、組を裏切ったのだ。人気のない路地で、銃声が二発――次の瞬間、結城が俺を突き飛ばし、自ら銃弾を受けて倒れた。 「……なぜ……」 「あなたを、守るためでしょう」  血に濡れた顔で、彼は淡々とそう言った。それが仕事だから、という口ぶりでもなかった。目に映るのは、これまでと同じ、無償の忠誠心。  彼は、俺の命令がなくとも、俺を守った。それだけで、すべてが崩れていくようだった。  俺の心の中で、誰かが叫んでいた。 「こんな関係、続けることなんてできない」と。  だが、結城が苦痛に喘ぎながらも、どこか悲しげに微笑みながら言った言葉が、胸に突き刺さった。 「あなたはまだ、俺を壊すことで自分を救えると思っていますか?」  その言葉が、ただひたすらに重かった。何もかもが過去に縛られて、今も引きずっているということに、痛烈に気づかされていた。  ***  組員の救助を待つ間、結城が襲撃の際に負った傷を手当てしているとき、俺は彼の胸ポケットから何かが落ちる音を聞いた。振り返ると、床に小さな写真が落ちていた。驚きながらも、俺はその写真を拾い上げた。  それは、見覚えのある顔――悠真だった。  写真の中で、悠真と結城が肩を寄せ合い、笑顔で写っている。結城がどこか遠くを見つめる目は、悠真に対して強い愛着を感じさせるものだった。その写真が示す関係に、俺は心の中で何かが弾ける音を聞いた。 「……これは?」  俺が無意識にそう言うと、結城は驚いた表情を見せ、すぐに写真を取り上げようとした。 「それは……」  結城の声が一瞬、かすれた。 「大切な、家族の写真です」  その一言が、俺を凍りつかせた。顔を上げた結城の目には、今まで見せたことのない深い感情が宿っていた。まるで、悠真を失った悲しみと、彼に対する忠誠が一緒に混ざり合っているような目だった。  その瞬間、俺は全てを理解した。結城と悠真――そして俺との関係が、どこか歪んでいることを。  *** 「お前……あいつの何なんだ」  ベッドで横になる結城の傍に座り、俺は問いかけた。見舞いに来たふりをして、本当は、答えを聞きに来た。  結城はそっと目を伏せて言った。 「兄です。悠真は、俺の実兄でした」  肺の奥が焼けつくようだった。あの顔、あの声、あの温もり……悠真のすべてが、今、結城と混ざっていく。 「兄貴は……あなたを裏切ったわけじゃなかった。  組を抜けようとしていたんです、あなたを巻き込まないように。でも、それが裏目に出た。結果的に、死にました」 「……死んだ……?」 「三年前。自殺でした。俺が兄の遺品整理をしていて……あなた宛の手紙を見つけました」  震える指先で、彼は懐から封筒を取り出した。差出人の名前は、確かに“悠真”だった。  ーー蓮へ  愛していた。愛していたから、俺は黙って消えるしかなかった。でも、後悔している。君に、すべてを話すべきだった。ーー  文字のかすれた遺書に、俺は声も出なかった。  その晩、結城は俺の部屋にいた。 「……奉仕、ではないんだな」 「ええ。今夜は、あなたを愛したくて来ました」  背中に回る腕の、温かさ。指先が撫でるたび、皮膚が震える。吐息が耳にかかり、名を囁かれるたびに、過去の痛みが薄れていく気がした。  結城の手は、俺の芯に触れ、ゆっくりと扱き上げる。唇が首筋を這い、乳首を軽く噛みながら、腰を撫でる。 「あっ……く、っ……やめ……」 「本当に、やめてほしいんですか?」  否、だった。彼の指も、声も、匂いも、すべてが心地よかった。熱が腹の底からせり上がり、俺は、彼の名を初めて――心から――呼んだ。 「結城……ああ、結城……」  その夜、何度も、俺は達した。涙と喘ぎと(ゆる)しの混ざった、真夜中だった。  ***  組を抜ける日。俺は組長の椎名(しいな)と対峙した。 「本気か、蓮」 「ああ。もう、血の中にはいたくない。……あいつを、守りたいんだ」 「お前らしいな」  椎名は銃を構え、一発、俺の脚に向けて弾を撃ち込んだ。そして、煙草に火をつけながら言った。 「その代わり、二度とここへ戻ってくるな」 「感謝します」  その言葉に、俺は初めて頭を下げた。右足は血に染まっていたが、心を縛っていた赫い絆(あかいくさび)は、ようやく抜け落ちたのだ。  ***  今、俺たちは海沿いの小さな町で、喫茶店を営んでいる。カウンター越しにコーヒーを淹れ、結城が客と話す。俺は少し足を引きずりながら、厨房でサンドイッチを作る。そんな、ささやかな日々。 「蓮さん、午後は仕入れに行きますよ」 「はいはい。……コーヒーの残り、飲むか?」 「いただきます」  マグを受け取る手に、指を重ねる。それだけで、胸が温かくなる。  夜になると、俺たちはまた愛し合う。過去に縛られるのではなく、今を確かめ合うように。  俺の上で乱れる結城の声を、何度聞いても飽きない。髪を濡らし、唇を重ね、背を弓なりにしながら――彼は俺を赦してくれる。  それだけで、俺はまた、生きていける。

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