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【Short Story】台風の夜に、君と。

 窓を打ちつける雨音が、まるで何かを告げようとするかのように、絶え間なく耳に響いている。  しとしと、ではない。ずぶり、と底を這うような湿り気のある雨だ。  午前中まで進みの遅かった台風が、急に進路を変え、速度を上げた。  午後にクライアントとの打ち合わせを終えた頃には、すでに帰京のルートは全て遮断され、僕と|榊《さかき》は、流されるようにして駅前の安宿へと身を寄せた。 「台風、まじかー……。最近の天気予報って全然当たんないよね?俺、実家に明日帰るつもりだったんだけどな」  ベッドに倒れ込むようにして、榊が笑う。  ワイシャツの襟は濡れて、首筋に張り付いていた。雨に打たれた髪が濡羽のように額に垂れ、何とも言えない色っぽさが滲んでいる。無自覚な男の色気というやつは、時に罪だ。 「榊…びしょ濡れだな」 「お前も結構濡れてんじゃん。風邪ひくぞ」 「……ありがとう。でも大丈夫」  榊はいつも僕のことを気にかけてくれる。  それはあくまで、同僚同士良い距離感を保つための、単なる優しさとして成り立っているはずだった。  それなのに、なぜだろう。ふたりきりのこの部屋では、その気遣いが、別の色を帯びて見える。 「とりあえず、気分変えてさ。飲まない? コンビニ寄ったとき、ビール買っといた」 「飲むの?」 「こうなったら楽しんだもん勝ちだろ。どうせ外、出らんねぇし」  榊は缶ビールを僕に一本差し出し、自分もベッドの端に腰かけてプシュ、と開けた。  あっという間にこの部屋が“居酒屋”に変わっていく。カーテンの隙間から、街灯が鈍く光を落として、雨音に包まれた密室をうっすらと照らしていた。 「……乾杯」 「乾杯、って気分でもないけどね」 「だな。でもこういうのも悪くないじゃん。嵐の夜に、男ふたりでさ」  悪ふざけのような口ぶりだった。  だけど、僕は缶を唇に当てたまま、一瞬だけ言葉を失っていた。  “男ふたりで”——その響きが、妙に生々しくて、僕の胸の奥に濡れた棘のように残ったから。  * * *  ——いつから、彼を「男」として意識するようになってしまったのだろう。  ふと、思い出す。  彼の名前が、その存在が、僕の心の中で大きな意味を持つようになった日を。  それは、去年の春。まだ僕が異動して間もない頃のことだった。  業務上の小さなミス。  いや、当時の僕にとっては、大きな落ち度だった。数字の記入間違い。見積書の誤送。ほんのひと桁違いの——でも、顧客を不安にさせかねない失態だった。  上司に呼び出され、声を荒らげられたあの午後。  体中から血の気が引いていくなかで、背後からふいに、榊の声がした。 「すみません、それ、俺が最終チェック入れ忘れてたんです。責任は俺にあります」  その言葉に、上司の怒気が一瞬、戸惑いに変わった。  結局、その場はふたりで軽く叱られて済んだが、部屋を出たあと、僕はどうしても黙っていられなかった。 「……なんで、庇ったんですか」 「庇ったわけじゃないよ」  榊は、いつもの調子で笑った。 「俺が止められたはずのミスだった。しかも新入りのあんたが一発目で怒鳴られたら、立ち直れないじゃん?」  ——その笑顔が、あまりに軽やかで、優しくて。  僕はうまく返す言葉を見つけられなかった。  その日からだ。  彼の名前を呼ぶたびに、心のどこかがかすかに疼くようになったのは。  仕事中、榊の指先がパソコンを叩く音や、コーヒーを啜る仕草。  ふとしたときの、他の誰でもない“僕だけ”に向けられた気遣いの言葉。  気づけば、僕はそのひとつひとつに、心の敏感な部分を触れられていた。  そして、触れられるたびに、奥底で何かが揺れていた。  ——だけど、それを“好き”と呼ぶ勇気も、自分にそんな資格があるとも思えなかった。  * * * 「なあ、|倉橋《くらはし》ってさ」  榊がベッドに体を預け、虚空に向かって言った。  間接照明だけがついた部屋はぼんやりと暗く、男の輪郭をやわらかく滲ませていた。 「……ん?」  缶を空ける音が二度、三度。  榊はよく飲む。飲んでも顔色が変わらないのが、羨ましくもあり、少し怖くもあった。 「エロい話とか、しない?」  その言葉に、喉に引っかけた炭酸が鼻へ抜けた。  げほっ、と咳き込む僕を見て、榊は声を出して笑う。 「ちがうって、そんな本気じゃなくて。大学のときさ、よくやったんだよ。“これまでの人生で一番エロかった体験”を告白するってやつ。酔った勢いでぶっちゃけるっていう、しょうもないゲーム」 「……それ、ここでやる?」 「する。もう俺たち、おっさん手前の独身同士じゃん。いまさら何話したって傷つかないって」  無邪気な顔でそう言う榊の横顔が、まぶしく見えた。  僕は目を伏せ、缶の縁に指を滑らせながら、答えを探していた。 「……やだって言っても、どうせ話すんでしょ」 「もちろん。だからまずは俺からいく」  彼は缶を持ったまま、天井を見上げる。  そして、少し間を置いてから、ゆっくりと語りはじめた。 「俺さ、一度だけーー男と寝たことがあるんだよね」  言葉が、重く落ちた。 「後輩でさ。バイト先の。酔ってて、冗談半分だった。……向こうからキスされて、流れでベッドに行った。お互いに“好奇心”ってことで済ませたけど……俺、途中から本気になってた」  静かに、けれど淡々と語られるその声は、笑っていなかった。  指先だけが、缶を弄ぶように動いている。 「そのあと、普通に彼女できたし、忘れてたはずなんだけど……いまだにたまに思い出すんだよね。そのときのキス。声。肌のあったかさとか」  榊が僕の方を見た。  照明の陰影が、その目元を深く縁取っている。 「ひく?」 「……ひかないよ」  震えていたのは、僕の声だった。  自分でも驚くほどに、胸の奥がざわめいている。  理由なんて、わからなかった。 「倉橋は?」  ——君の話を聞いたあとで、自分の何を語れというのだ。  僕は、自分がどれほど空っぽなのかを思い知った。  “そんな経験”どころか、誰かを心から求めた夜すらなかったのだから。 「……高校のときに、初めてしたのが公園のトイレだった。向こうが年上で、でも怖くて目を閉じて……触られて、怖いのに、気持ちよくて……自分のこと、気持ち悪いと思った」  なぜ、それを話したのか、わからない。  ずっと記憶の底に沈めていたものを、自分でも開いたことのない場所を、榊の声がさらっていったのだ。 「……そうなんだ」  榊の声は、驚いていなかった。  拒絶も、嫌悪も、憐れみもなかった。ただ、そこにいた。僕のすぐそばに。  ふたりの間に、しばらく沈黙があった。  けれどそれは、苦痛ではなかった。むしろ、何かが静かに溶けていくような、あたたかい静寂だった。  そしてその静けさのなか、榊はベッドの端から僕のほうへと身を寄せてきた。  何も言わず、何も問わず——ただ、指先が、僕の頬に触れた。  それは、熱を持っていた。  どこか、罪深い熱だった。  * * *  頬に触れた榊の指先が、そっと僕の耳のうしろをなぞった。  肌が、ぴり、と震える。  こんなふうに誰かに触れられたのは、いつ以来だっただろう。いや、こんなふうに——優しく触れられたことなど、一度もなかったかもしれない。  僕は、何も言えなかった。  息すら、まともにできなかった。  だけど、拒まなかった。拒めなかった。  榊の顔が近づく。  影を落とす長い睫毛と、濡れたような唇。  そのすべてが、じわじわと熱を伝えながら、僕の顔に近づいてくる。  くちびるが触れた瞬間、火が灯るように体の中で何かが弾けた。 「……やっぱ、いいや」  彼がぽつりとつぶやく。  冷水を浴びせられたように、胸の奥がざらついた。 「なんで」  自分の声が、驚くほどかすれていた。  榊は困ったように笑いながら、僕を見つめ返す。 「たぶん、止まんなくなるから」 「それ…こっちの台詞」  僕がそう言うと、榊は苦笑いをしてーーそしてもう一度、唇を重ねてきた。  さっきよりも深く、熱く、迷いのない口づけだった。  舌が触れ合う。  冷たいビールの残り香が、やわらかく混ざり合う。  榊の手が、僕の腰をそっと撫でた。その指先が、火種のように熱く、布越しに下腹へと落ちていく。  唇を離した瞬間、彼は僕の目をじっと見つめて言った。 「嫌だったら止める」  僕は首を振る。 「じゃあ、教えて」 「なにを……」 「どうされるのが、好きか」  喉の奥が焼けるように熱かった。  そんなこと、知らない。知らないまま、生きてきた。  でも、今なら——知りたいと思った。 「教えて」  榊の声が、まるで子供をなだめるように甘い。  僕は、目を閉じた。  そして、声にならないまま、シャツの前をゆっくりと開いた。  それが、唯一できる返事だった。  榊の手が、露わになった胸元に触れる。  指先が乳首をかすめると、息が漏れた。  胸の奥が痺れるように疼き、声が勝手にこぼれてしまう。 「……感じやすいんだな」 「や、だ……」 「やじゃないだろ」  ささやく声が、耳の奥をくすぐった。  榊の舌が、ゆっくりと首筋を這い、鎖骨へ、そして胸元へと下っていく。  まるで、愛撫ではなく、喰らうような舌づかい。  そのたびに、僕の体は何度も跳ね、震えた。  ズボンの前が張りつめて、息苦しくなる。  指が、そこに伸びてくる。震えながら、榊の手が、布の上から僕を撫でる。 「ここ、もう……」 「やめて……そんなの、見ないで……」  情けない声が出る。  でも榊は、何も咎めずに、唇を寄せてそっと囁いた。 「ちゃんと見たい。お前が、どう感じるのか」  そう言って、布越しに包み込まれた僕のそこへ、彼の舌が触れた。  思わず腰が浮く。  恥も、言葉も、理性すらも、全部ぐちゃぐちゃに溶けていった。  榊は、ゆっくりと、慎重に、しかし確かに——僕の中心を開いていった。  ベルトが外され、スーツのズボンが脱がされーー  誰のものでもなかった体が、彼の指先にほどかれていく。  痛みと熱がまじり、途切れ途切れに喘ぎが洩れた。 「……っ、榊……あっ……もう、や……っ」 「声、もっと聞かせて」  体の奥を、榊の熱が貫く。  目の前が真っ白になって、世界が消える。  その夜、僕はひとりの男として、完全に壊され、そして満たされた。  外では、まだ嵐が唸っていた。  だが、部屋のなかにはただ、濡れた肌と、乱れた息づかいと、ふたりの吐息だけがあった。  * * *  目を覚ましたのは、微かな衣擦れの音のせいだった。  遮光カーテンの隙間から、細い朝日が差し込んでいる。  部屋のなかは、しんと静まり返っていて、まるで嵐の夜などなかったかのようだった。  だけどーー  ベッドの隣にある空っぽの缶ビール、くしゃくしゃになったシャツ、足元で蹴飛ばされたままの毛布。  現実が、まだ熱を持ったまま部屋に残っていた。  隣を見ると、榊はもう起きていた。  床に座ってスーツの袖を通しながら、いつものように無造作に髪をかきあげている。 「……おはよう」  僕が言うと、榊はふとこちらを見て、少し照れたように笑った。 「起こしちゃったか」 「ううん」  たったそれだけのやりとりで、胸の奥が軋んだ。  言葉の裏側を読み取ろうとして、喉の奥が苦くなる。  昨夜の熱が、嘘だったわけじゃない。  でも、今日からまた、何もなかったように日常へ戻るのだろうか。 「……風、収まったみたいだな」  榊が言って、カーテンを少し開ける。  雨粒は残っているものの、空はうっすらと青みを帯び、通りにはタクシーが走っていた。  世界は、何事もなかったように、また動き始めている。  僕は、しばらくその背中を見つめていた。  何も言わなければ、このままいつも通りになれる。  それはきっと、簡単なことだった。  でも——。 「榊」 「ん?」 「……あれ、後悔してない?」  声は震えていた。  だけど、榊は少しも表情を曇らせず、ただ、まっすぐに僕の方を見た。 「してないよ」  その声が、思っていたよりもあっけらかんとしていて。  でも、優しくて、あたたかくて。  僕は、不意に涙が出そうになった。  * * *  一週間後、再び出張で同じ路線の新幹線に乗った。  席は隣。いつもと変わらない距離、いつもと変わらない会話。 「来週の会議、スライド間に合いそう?」 「……たぶん」  パソコンを開いてみせながら、僕は返す。  榊は笑って、コーヒーをひと口啜った。  ——きっと、あの夜のことは、この世界のどこにも記されない。  何も変わらないふりをして、日常の中に紛れていく。  だけど。  榊がふと僕の方を見て、テーブルの下で指先がそっと触れてきた。  それは握るでもなく、撫でるでもなく。ほんの一瞬、触れ合っただけ。  なのに、僕の胸はひどく高鳴った。  顔を上げると、榊はもう視線を窓の外に向けていた。  ——それでも、わかってしまう。  あの夜だけじゃなかった。  一夜限りだと思い込んでいたのは、いや、そう思い込もうとしていたのは僕の方だった。  榊の視線を追って車窓の向こうに目をやると、空は思いのほか、澄みわたっていた。  まるで、僕らがこれから向かっていく未来を暗示するかのように。

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