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先生と書生
汗のにおいがして、先生は目を覚ました。
産毛のはえた片耳があった。
学生帽がそこに傾いている。
その頭が遠慮がちに離れ、汗のにおいは薄まっていく。
そこには書生の姿があった。
縁側に座している。
薄い唇を噛み、ももの上で拳を握っている。
先生は、まだ自分は半醒半睡 の体なのだと強引に判断し、いつもと変わらぬ笑顔で問うた。
「どうしましたか」
「キヨさんが部屋に通してくれました」
通い女中のことである。
先生は身を起こした。
着物の衿がたるみ、書生と対をなすような白い肌がのぞいた。
書生は目を伏せて続けた。
「心配していました……。ちゃんと家庭をもって立派になってほしいと。先生は結婚されないのですか」
先生は庭の水がめをじっと眺めた。
「どうでしょう……」
油蝉が鳴いている。
書生が目を上げた。
陽射しに似た、強い眼差しだった。
「先生は時どき、うつつを遠く離れる目をなさいます。先生の小説は素晴らしいです。しかし暮らしが定まればもっと――」
「いいものが書けますか」
と、先生はほほ笑んだ。
新作が酷評されたことを、書生はもちろん知っている。
彼は気まずそうに言葉を濁し、それから風呂敷で包んだ原稿を差し出した。
先生が受け取ると、会釈をし、帰って行った。
先生は再び横になった。
唇にはまだ、口づけの感触が残っていた。
数年前まで先生には、それなりの数の門下生がいた。
しかしいまでは先の書生ひとりになってしまった。
作品の評価が総じて低くなったのが要因である。
ただ肝心の先生は、周囲の評価をさほど気にはとめていなかった。
書生の言うとおり、彼にはうつつを離れる癖があったのだ。
小説を書いているときである。
それは逃避であると同時に、娯楽でもあった。
しかも出来上がった作品で収入を得られ、そればかりか大学の職まで手に入ったのだから、それで充分だった。
書生の原稿を読み終えて、夕飯を取った。
蚊帳を垂らし、石油ランプのもと再読する。
キヨが帰り、屋敷は静まり返った。
再読を終えると、先生はとつぜん胸騒ぎを覚えた。
下駄を突っかけ、夜道を急いだ。
なんてことのない、幸福な恋愛小説だった。
それでも書生は、これまで一度も、その手の小説を書いたことはなかった。
その奇妙さが、先の口づけと重なって不可解さを増し、拭いがたい不安に変わったのだ。
書生は橋のたもとにいた。
ガス灯のもとで、ぼんやり立っている。
先生が荒い息をつくと、彼は振り返らず言った。
「どうでしたか」
蒸し暑い夜に、書生の声は風のように響いた。
詰襟を脱いだ半身が闇に消えかかっている。
思うままに、先生は言った。
「よく書けていましたよ」
闇のほうで肩を並べた。
書生の瞳は、白い傷があるように光っている。
男の顔だった。
いつのまにか背も抜かされていた。
冬でも夏でも、あの縁側に面した部屋で語らった。
あれだけの時間を過ごしてなお、見落としたものがあったのだと、先生は愕然とする。
書生が前を向いたまま言った。
「しばらくのあいだ、先生のもとを離れ、勉学に励もうと思っております」
彼には大学受験があった。
先生は言葉に詰まった。
せめて大人らしく振る舞いたいと、頷くだけだった。
下草から虫の声が響いている。
黒い鏡のような河川に、ふと、小さな光が踊って、消えた。
「お元気で」
と、きびすを返した書生の腕を、先生は繋ぎ止めた。
先生のその手は子どものように湿っていた。
振り向いた瞬間、書生は、先生の顔が泣きそうに崩れたのを、たしかに目撃した。
けれど、すぐにその顔は固くなり、うつむいて、汗ばんだ手はゆっくりと離れていく。
書生の腕の、腕輪のような熱が冷めていく。
叫び出したい気持ちを、書生はこらえた。
「いつか――」
先生が絞り出すように言った。
「あの小説のように、あなたが幸せになれたなら、きっと、会いに来てください」
書生はひとり、駆け出した。
⁂
小間物屋の戸には、しめ飾りがされていた。
外套 の雪を落としながら開けて、先生は声をかけた。
にぎやかな店の奥から、にこにことキヨが顔を出した。
「先生、早く早く」
座敷では、キヨの家族が勢ぞろいしていた。
挨拶を交わし、座った。
対面にはキヨとその旦那がいる。
中年の仲のいい夫婦である。
一緒に年越ししないかと、正月休み前のキヨから誘われたのだ。
自分を案じるキヨの優しさに断りきれず、こうして顔を出したのだった。
先生はしばらく、キヨの息子夫婦やその子どもの、楽しげな会話に気おされていた。
が、酒がまわると、しだいに緊張がとけ、和気あいあいと会話に加わった。
たくさんの質問をされ、律儀に答えた。
お雑煮もうまかった。
しかし、
――帰ったらひとりだな。
眠気と子どもの声に身を任せながら、先生はそう思い、目を閉じた。
毎年、赤ら顔をした書生が、新年の挨拶に来てくれた。
今年は来なかった。
去年の夏、あの河川で話してから一度も見かけていない。
散歩がてら家の近くまで行ったこともあるが、やはり、会わずじまいだった。
小説は書いているのだろうか。
それとも大学で忙しいのだろうか。
いい人が見つかったのかもしれない。
幸せになってほしいと思う、物を書く必要などないくらいに。
冷たいにおいがした。
その冷たさのなかに、ほのかな温もりがある。
「先生」
やさしい呼びかけがあって、先生は目を開けた。
詰襟姿の彼は、角の取れた表情で、先生の頬を撫でていた。
先生の眠気が覚めていく。
書生は赤い頬を持ち上げて、言った。
「……ただいま戻りました」
年が明けていた。
挨拶に訪れた書生は、先生の留守を知り、もしやとキヨの家に足を向けたのだった。
先生は眠りこんでいた。
キヨは師弟みずいらずにしてやってから、家族で初詣に赴いている。
二人はあとを追うため、雪の道を歩く。
襟巻に顎を埋めて書生は大学のことを語り、先生はほほ笑みながら、それに何度も頷いた。
二人の息が暖かく舞っていく。
橋のたもとに来た。この先は広い通りに出る。
家族連れが橋を渡ってから、先生は切り出した。
「いま……幸せですか」
あの日とは違う。
ガス灯の側には先生が立ち、闇のほうには書生がいる。
静寂のなか、黒い川に雪が落ちては溶けていく。
先生の肩が掴まれた。
書生の瞳には強い光が灯っている。
「わたしは……、わたしのために、幸福を選び取りたいのです」
その手が降りて、先生の手を握った。
体温が凍った指をほぐし、やがて絡んでいく。
ふたりは、橋を渡り終えるまでのあいだ、その手を離さなかった。
⁂
闇のなかに、書生の白い肌が燃え立つ。
あれだけ日に焼けていたのに、と先生は懐かしみ、それからにわかに恥ずかしくなって、障子に目を逃がした。
固く、若い半身が降りてきて、肌に密着していく。
張り詰めた糸のような、緊迫した先生の体に、甘い痺れが起こる。
書生の唇が、込み上げる想いのまま、口づけをする。
互いの固くなったものが、生地を隔ててじれったく擦れ、噛み殺した吐息が漏れた。
キヨたちと合流し、初詣を終えた。それから先生の屋敷に帰り、こうなったのだ。
書生は、紬 の衿を脱がし、あわ立った肌の向こうにある、小さく腫れた乳首を含んだ。
先生が両肩を握り、うめいた。
女性とは違う、消えて無くなりそうな乳首は、それでも舌先にあおられて熱を持ち、みなぎっていく。
書生の加虐心に火がつき、噛んだ。
前歯に押し出された快感が、先生の身でほとばしった。
震えるその体を抱きしめて、起こし、書生は口づけをくり返す。
ベルトを外し、固くなったものを引きずり出した。
書生の股の闇に、先生は頭を沈めていく。
その瞬間、三十路でありながら書生に懸想 しているという事実が、ためらいを生んだ。
その頭を、書生が軽く押した。
介錯 を受けたように、先生は頭を落とした。
強烈な男のにおいがした。
開けた口のなかで、ひるむように舌が丸まり、喉が渇いた。
――怖いのだろうか。
そんなおびえを消し去ったのは、耳に触れる書生の手だった。
この温もりさえあれば、闇のなかでも生きていける。
そう思わせるような頼もしさがあった。
先生は、書生の固いものを、しかと咥えていった。
口内に、体臭が溢れていく。
きれいにしてやりたいと、思った。
そうできるのはこの世で自分だけだと、確信したかった。
だから丹念に舌を使った。
書生の腹筋が力み、濃い味が増すと、先生もまた毒気にあてられたように、腰を震わせた。
書生は伸ばした足を、裾にかき入れた。
長襦袢を押し上げる先生のそれを、足裏で愛撫した。
先生が声を漏らした。
書生は、先生の股引が濡れていることを看破していた。
書生のものも先生の口のなかで燃えたぎっていく。
ふたりは裸になった。
覆い被さる書生は、渇望に苦しみながらほほ笑み、問うた。
「後悔はありませんか……先生」
書生を抱きしめて、先生は答えた。
それは名前だった。
名前で呼んでほしいと、涙を浮かべながら言ったのだった。
書生は、大切に先生の名を呼んだ。
それから、先生のなかへと入っていく。
熱く、狭く、それなのに、呼吸する喉のように柔らかかった。
先生の命を感じた。
その命に、自分の命を重ねるように、書生は身を倒していく。
そして突いた。
脳天に吹き上がった息吹に、先生の体は満たされた。
その猛勢に、鳥のように高い声が出てしまった。
先生は歯噛みした。
自分のなかに広がりを感じた。
書生のもたらす躍動が、隅々まで行き渡り、眠っていた神経までも揺さぶって起こし、それによって初めて自分の肉体を知覚したようだった。
書生が名前を呼び続ける。
彼の脇や胸を撫で、先生は息を止めた。
寄せ来る息吹を受け止めながら、尻を締めた。
書生が獣の声をあげた。その喉仏が白くせり上がった。
頬を包みこむと、彼は我に返って先生を見た。
口づけを交わす。
書生は先生のものを握り、先生は書生のものを締めた。
そして身に溜めていたものを、清風のように噴き上げた。
⁂
目を覚ましたとき、先生がいなかった。
炭継ぎをした火鉢がある。
書生は、先生との交わりのあと、高揚して眠れず、文机の原稿を読んでいた。
そのせいで起床が遅くなってしまったのだ。
原稿はいまも文机にある。
そこには、書生が雲隠れしていたあいだの、先生の憂慮が、物語や文章の端々ににじんでいた。
玄関のあく音がした。
書生は布団を飛び出し、
「亀屋で小餅を買ってきました」
と、呑気に言う先生に抱きついた。
雪下駄が音を立てる。
胸を締めつけるような冬のにおいがして、書生は原稿のことを思い出した。
頬を合わせながら言った。
「おれはいま幸せです……本当に……本当に……」
先生は書生の頭を撫でた。
そして、書生にだけ届く小さな声で返した。
――わたしもただ、幸福です。
おわり
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