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第1話 目覚めと忘却
呼吸の音がやけに静かに聞こえる。
目を開けると、見知らぬ白い天井が広がっていた。
ふと、視界の端で微かに動く影。
「気が付いた?」
耳に入る優しげな声に目を向ける。
そこにいたのはぎこちない笑顔を浮かべた、妙に目を引く男だった。
「……ここは……?」
声がかすれる。口を開いたことで喉がひどく乾いていたことに気づく。
重い体をゆっくりと起こすと、優しげな顔をした男に水の入ったグラスを渡される。少し悩んでおずおずと受け取る。
少しぬるめの水を口に含み、じっと男を見つめた。
「病院だよ。君は事故にあったんだ。覚えてる?」
冷静にそういった男は、白衣のようなものを着ていることから医者だと思うが、やけになれなしく感じる。
しかし、今は自分の状況の確認のほうが先かと思えた。
「……事故?」
呆然と呟いた途端、心の奥にざわりと不安が広がった。
何か大切なものを、ぽっかりと落としてしまったような感覚。
「事故の直前、覚えていることはある?」
問いかけられて、口を開こうとする。
でも、違和感が喉の奥に引っかかり、口を閉じた。
ふと病室の入り口にかかっているカレンダーを見て、目を見開いた。
「……20××年?」
俺の呟きに目線をたどった男は、はっとしたように息を吞んだ。
「もしかして……。どこまで覚えてる?」
俺を落ち着かせるためか、自分を落ち着けるためか、男は俺の手をぎゅっと握り問いかけた。彼は痛みを感じているかのような表情で、思わず肩が強張るのが分かった。
「どこまで……?」
手を握られ、緊張して問いかけると、彼は少し俯いて考えるように口を引き結ぶ。
意を決したように顔を上げると、まっすぐに俺を見る。
「おそらく、事故の衝撃で、一部記憶が曖昧になっているみたいだ。……自分の名前は分かる?」
分かるはずだ。でも、頭に靄がかかったようにふわふわとした違和感が拭えない。
「……名前は、分かる。戸川漱真 。でも……。」
言葉が詰まる。分からない。
自分が何者なのかは分かるのに、何かが抜け落ちている。そう思うのに、その何かさえ分からなくて気持ちが悪い。
気が付くと布団を握りしめていた。
「落ち着いて。大丈夫。」
そう言って男はそっと俺に手を伸ばしてきた。
その仕草が、妙に自然で違和感を覚える。
「……ねえ。あんたは?誰?」
医者にしては俺のことをよく知っている気がした。ただの医者がこんなに触れてくることがあるのだろうか。そう思って問いかけると、男の指が一瞬だけぴくりと揺れた。
けれどすぐに穏やかな微笑みが浮かぶ。どこか悲しげで無理やり作られたような、そんな顔をしている。
その顔に、なぜだか胸の奥が強く締め付けられる。
「この病院で働いている医者であり……君の恋人でもある。名前は桐生湊 。」
優しく落ち着いた声がそう告げる。
「……恋人?」
思わずオウム返しにした。
自分の恋人だという湊は、冷静な表情を保ちながらも、どこか寂しげな雰囲気を纏っていた。
「うん。でも、今の漱真には信じられないかもしれないね。」
不安に駆られ、顔を顰めた。
「本当に……俺の恋人なの?」
湊は微笑んだまま、小さく頷く。
「そう思えないかもしれないけど、僕はずっと君の恋人だよ。」
その言葉は優しくて、穏やかで、まるで当たり前のことのように聞こえた。
でも、そう言った湊の瞳が一瞬悲しげに揺れる。
胸の奥がざわついていた。目の前の人物は噓をついているようには見えない。けれど、記憶がないのに、何をどうやって信じればいいのか分からない。
「でも。俺、何も覚えてないし……なにか証拠とかある?」
俺の言葉に、湊は少し寂しそうに笑ってスマホを取り出した。そうして見せてくれた画面には、俺と湊が並んで写っている写真が何枚も見えた。
気恥ずかしそうに、でも楽しそうな表情に驚く。
目を見開いて湊とスマホを見比べてしまう。
「これ、本当に俺……?」
信じられなかった。
自分がこんな顔をしていることが。写真の中の自分が、こんなにも穏やかに笑っているなんて。
「漱真は写真が苦手だった。でも、これは僕が『思い出を残したい』ってお願いしたら、一緒に撮ってくれたんだ。」
懐かしむように言った湊の声は優しかった。
けれど、その目はほんの一瞬だけ潤んでいるように見え、思わず目を背ける。
俺が記憶を失ったことを、覚えていないことを本当に悲しんでいるようだった。
分からなかった。
でも、何かを失ってしまったことだけは、確かに感じていた。
「説明を続けるね。僕は医者をしている。」
「医者……。」
先程説明されたが、つい確かめるように呟いてしまう。
「漱真とは……まぁ、それなりに長い付き合いだよ。」
「それなりに?」
「……5年、かな。」
眉を下げた湊の言葉に驚く。
俺の覚えていない時間。カレンダーの日付から何となく分かっていたが、それほどの空白の時間があるなんて。
「でも、漱真にとっては今日が『初対面』かもしれないね。」
湊はそう言いながらカルテをめくる。そして、淡々と事実を述べる。
「君は数日前、駅前の階段から落ちて頭を打った。……それが原因で一部の記憶が曖昧になっているみたいだね。」
「……階段?」
湊の説明になにか引っかかる。
「うん。監視カメラの死角だったらしいけど、スマホの画面が着いていたそうだし、不注意だろうって話だった。」
そう言われて、少しだけ違和感が芽生えた。
俺がそんなミスを?
確かに職業柄、階段の近くであろうとメモをとる癖はある。でも、だからこそ不思議だった。
「俺、そんな簡単に落ちるかな……?」
思わず口にすると、湊は少し驚いた顔をして「どういう意味?」と尋ねる。
「いや……俺、一人のときはスマホを片手にしてるから、無意識に手すりによる癖があるはずなんだ。踏み外して、手すりを掴めないなんてあるのか……?」
その言葉に湊の表情が僅かに動いた。
「……そうなの?」
「ああ。……知らないのか?」
恋人といった湊が知らないことがあるのかと問いかけると、少し困ったような、懐かしむような顔をする。
「それは知らなかった。……僕といる時はいつも手を繋いでいたから。危なっかしい君に注意をしたら、そうするようになったんだ。」
「……え?」
思わず言葉を失った。
自分がそんな人に甘えるなんて想像もできない。それは本当に自分なのか疑問に思えてくる。
「だから、そんな癖があるなんて考えたこともなかった。」
俺が、この人と手を繋いでいた……?
今の俺なら有り得なかった。
でも、その言葉を聞いた時、何故か指先が心許なく感じた。まるで、そこにあるはずの何かが、ぽっかりと抜け落ちてしまったように。
「それは、本当に俺が……?」
訝しげに尋ねる俺に湊は優しく微笑む。
「……そうだと言ったらどうする?」
まるで俺の答えを待っているかのような、期待するかのような湊に何も言えなくなる。
黙り込んでしまった俺に、先程の質問など無かったかのように湊は続けた。
「でも、どうして一人の時は手すりによるの?」
その言葉に少し考える。確か、そうなる出来事があったんだ。
「俺は、作家……だったよな?」
「うん、そうだよ。」
湊が優しく微笑む。
その瞬間、ふと手に違和感を覚え、視線を落とす。スマホがない。探そうとして辺りを見回す。
「そういえば、漱真はよくそうやって携帯を探していたね。」
湊はそう言うと、「はい」とスマホを差し出した。「ありがとう」と言って受け取ると、パスワードを入力する。開けることを確認し、パスワードが変わっていなかったことに安堵した。
「作品のアイデアが浮かんだ時に、スマホにメモをするんだ。……だいぶ昔の話だが、不注意で階段から落ちそうになったことがある。だから階段では手すりに寄るようにしていた。……はずなんだ。でも、記憶が無いから最近のことは分からない。」
はっきりとした答えは出ないまま、それでも確かに胸の中に残る違和感だけが自分の中に根を張っていた。
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