30 / 48

第30話 髪がしなやか、においたつ

 怨みに対して執念深いのは、この時代この民族の常としてあるが、士匄(しかい)はどちらかというと熱しやすく冷めやすい性質である。何事も結果を求め、過程は己のルールに逸脱しなければ何でも良い。欲が深く我慢がきかず、我が強く、自分の都合を最優先する。  そういった彼を掌中におさめたのが趙武(ちょうぶ)であったが、狙ったわけでなく、偶然によって雪だるま式に膨れた恋情の結果である。が、それが功を奏したらしい。士匄は恋と趙武に溺れていた。  まあ、なんといっても、である。 「あ、きもちいい、んあ、いくっ、いく」  趙武にむしゃぶりついて、穿かれ奥を暴かれる悦びに耽溺している。まあ、元々、これが目的であったのだから仕方がない。趙武も、士匄の縋ってくる手や熱を帯びた眼差しに、性欲ではなく愛欲を感じ、その痴態に溺れている。極まりすぎて体も心も、ついでにおつむの中身もユルユルになった士匄は趙武にとって何者にも代えがたいものとなっていた。そのようなわけで、若さと精力あふれるこの2人、指が触れれば、目が合えば、体を重ねて愛を確かめ、劣情に夢中となっていた。  その頻度の高さに、勝手に憤懣を覚えた第三者がいた。 「范叔(はんしゅく)! 美人を手中に収めたからといって、見せびらかさぬくせに見せつけるのはどういうことだ! 羨ましいけしからん、少し食わせろ」  ある日、欒黶(らんえん)()()()に言い放った。一人帰るか、友人とつるむか、趙武と戯れるかと考えていた士匄は、真ん前に仁王立ちの幼馴染みに呆れた。 「美人とはなんだ、最近、女は漁っておらん」  思い切りバカにした声音で言うと、手で合図し歩きだす。欒黶も心得ており、合わせて歩き、隣を位置する。 「趙孟(ちょうもう)だ、趙孟。(なんじ)はあれほど男に興味がないとしておいて、食いやがったろう。俺が先に目をつけていたのに!」  食ったというより食われている。 「お前の考えているような関係ではない」  士匄は、嘘はつかなかった。しかし、誠実でもない。欒黶は疑い深い目を向けている。 「趙孟んちに通いまくりよって、じゃあなんだ。俺はこの通り顔が良く男ぶりも良い。そんな俺が振られて、傲岸で身勝手で強欲な汝がそばにいる。襲うか脅すかして情人にしたのではないか」  欒黶は確かに甘いマスクで、顔が整っているとは言える。が、男ぶりなどみじんもなく、厚かましく浅はかで威張ることしかできぬ無能である。その幼稚さが妙に愛嬌となり、なぜか見捨てられず許されている奇妙な男でもある。士匄も幼馴染かつ友人として好いている。それはそれとして、ひどい決めつけであった。しかも、あながち間違っていない決めつけでもある。 「お前が自業自得で振られたからといって、八つ当たりするな、何度も言うが()()()()()()()()()()()()()ではない。ったく、わたしがかまってやらぬからと言って拗ねるな」  士匄は嘘ではないが不誠実な返しを再びしたあと、話をずらした。欒黶は極めてバカであったため、己が寂しくて拗ねたと思い込み、 「拗ねておらんが、汝と遊べぬのはつまらん」  と素直に吐露した。士匄は笑いながら、 「弓を引くか、碁をするか」  と上から覗き込むように話しかけた。士匄は背が高い。欒黶ら趙武ほどではないが、そこそこ低い。しかし、この程度で欒黶が劣等感を感じることはない。自己肥大の塊なのである。 「碁が良い。良い(たちばな)を手に入れた。形よく香良し。楽しみながら碁を打とう、棗の甘漬けもある」 「橘とは良い。香り良きものはさらに。お前の家は本当に家格がいいな」  橘は柑橘類全体を指す。当時、東アジアでは食用より観賞用、花を愛でるに近い。  欒黶の馬車に乗り込み、しょうもない雑談をする。趙武との甘いひとときや熱い営みはとても良いが、友人とのどうでもいい時間を過ごすのも士匄は嫌いではない。  誘ったかたちになった欒黶は、しつこく、趙武の肌を一度試したいと口をとがらせつつ、ふと思った。  士匄の髪がいやに、しなやかだ。そう、値踏みした。  バカがそのように思ったことなど、士匄はみじんも気づかなかった。  当時の碁は今とは違う遊び方であったらしい。実のところ呼称も違うが戦略遊戯でもあり原型でもある、碁で通す。  この遊び、士匄は欒黶に対して連戦連勝である。負けたことがない。欒黶といえば、毎回負けては怒るのだが、終わればケロッとしている。欒黶という青年は極めてお育ちがよく、家門も最高なため、勝ち負けに執着しない。欲しいものは自動的に手に入ると思っているふしもある。飽きっぽく勝ちにこだわる士匄と、遊ぶことが楽しい欒黶はその意味で相性が良い。粘り強い趙武とは良い勝負ができるが、とにかく一局が長くなり、士匄は早々に飽きてしまう。趙武も遊びにこだわらぬため、碁は一度だけで終わった。 「良い橘だ。香り涼やか、心地が良い」  何度目かの対局、またも圧勝したあと、士匄は橘を手にとって顔に近づけた。橙色の皮から爽やかな香りがする。ほんの少し甘さもある香りであった。 「我が家とよしみを通じたいものはあとを絶たぬ。おかげで、珍しきものが手に入る」  対していた欒黶が横にやってきて橘を覗き込んだ。肩が肩にふれる距離であり、友人となれば近すぎるのであるが、士匄は気にしていない。元々、パーソナルスペースが近い仲である。ゆえに、欒黶がいきなり髪を撫でつけても、少し驚く程度で、不快とは思わなかった。が、さすがに問うた。 「なんだ」 「気のせいではないな。髪がしなやかだ、においたっている」 「だからなんだ」  士匄はこの幼馴染みの言動に慣れてはいるが、だからといって全てが理解できるわけではない。苛立ち、言葉を繰り返した。欒黶が士匄の肩に手を回し、引き寄せて笑う。 「相手は誰だ。汝が身を任せるなど、よほどではないか」

ともだちにシェアしよう!