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第48話 永遠の私たち
二度目の蜜月は、華やいだものではなかった。互いに互いを一番として抱きしめあう、輝かしく熱い恋情は戻ってこない。
しかし、初期の体だけを貪る関係でもない。
時々互いに訪れては体を重ねることもあり、雑談で終わることもある。好きだ恋しいと口には出さず、ただ静かに愛しさだけが降り積もった。
さて。士匄 は欒黶 に対して復讐を遂げることはできなかった。時期を逸した。東の大国と緊張状態となり、外交も担当していた彼は内を見る余裕などない。向こうから手を出せと、いじくそ悪い嫌がらせをしているうちに、欒黶がぽっくりと死んだ。五十を超えたかどうか。この家格だけは高い貴族は、やりたいことだけやって、楽しく生きて死んだのだから、早死としても大往生であろう。
戦争後、宰相正卿 となった士匄は当然のように欒 氏を滅ぼしにかかった。嫁いだ娘が叛乱を讒言したのだから、士氏総員全力で滅ぼしたようなものである。讒言だろうが冤罪であろうが、罪 さえできれば法制の士氏の餌と言ってよい。関係があったものはどんな小勢力も軒並み粛清する激しさであった。
最後、自領に籠もって抵抗する欒氏を、誰も助けに行かなかった。二席次卿 である趙武 が静観しながら
「私の一族はかつて、二代前ですけど、一族の者が欒氏に殺されましたので。そのような非道な一族が叛乱を企て、今も歯向かうなど恐ろしいことです」
などと、いけしゃあしゃあ宣言したため、みな手を差し伸べようもない。その上、欒黶に恩のあるものもいない。
士匄が、数年をかけ欒氏の完全な滅亡をなしえたとき、何を思ったのか記録にはない。ただ、蓋は無くなった。
この世の春とはこのことである。
彼は、強欲らしく史書での評判は悪い。小国から賄賂をギリギリまで吸い上げている。しかし、仕事はきっちりやっている。例えば、国の法制を整え作り直した。また、頭の良い人間を好んでおり、忠告されれば素直に聞いた。
「あなたが恐ろしいのか信あるのか、みな測りかねてます。戦をさ せ る た め なら相手に平気で詐術屈辱をお与えになるのに、敵国が喪中となれば礼に則りお帰りになる。先日、欒氏を完膚なきに滅ぼしたのに、連坐してしまった賢人を許せと言われればあっさり受け入れる。必要なのだと賄賂を重く吸い上げるくせに、理に合わぬと訴えられれば軽くしてあげる」
夏の蒸し暑い夜だった。趙武が士匄の頭を腿に乗せ、額を撫でながら言った。しっとりとした閨 のあと、ぼんやりとしていた士匄は、あー、と間抜けな声をたてた。
「みな、とは誰だ。わたしほど威儀正しく礼に篤い男はおらんぞ。なで斬りにしてやろうか」
少々物騒な顔をして笑う士匄に、趙武も笑う。
「私以外、みんな。私だけが范叔 がかわいくて素直って知ってます。私だけでいいです」
口説き方は良くなった、と士匄は嘯 いたあと、
「お前の本当の良さもわたしだけが知ってる。永遠をもらったからな」
と笑った。が、とたんに苦い顔をする。趙武が首を傾げていると、士匄は、春に来た外交官について、毒づきはじめた。
「不朽というものがある。死んでも朽ちぬもの。わたしはそれを謎解きで出したが、まあ、相手は鈍才。先に答えてやったのだ」
趙武は微笑みながら、だいたいを察した。つまり、士匄のいつもの舌禍で墓穴である。慰めるように額や眉、髪の生え際を撫でてやる。士匄は気持ち良さげな顔をしたが、言葉はやめない。
「我が家ははるか昔、堯 の御世から祖を数え、連綿と氏を変えながらも続き、興隆を極めている。不朽とはそういったことだと教えてやったら! 即座に違うと反論し、」
「まあ、その後はだいたいわかります。不朽というもの、それは徳を立てること、功を立てること、善き言葉を立てること。徳は民を導くもの、功は国を支えるもの、言葉はまつりごとの戒めです。この三つは成したものが死んでも残るもの。名が消えても心に残ります。死して朽ちぬとはまさにこれでしょう」
趙武のお手本のような正論に、士匄は拗ねた顔をした。そのような道徳めいたことなど、士匄だってわかっている。しかし、それを繋ぎ続けこの国を大きくした我が家こそ死して朽ちぬ、と言いたい。趙武が尖らせた口を指でつついた。
「死して朽ちぬなど、あなたらしくないです。死したあとあなたの士氏が朽ちぬとして、当主として喜ばしいでしょうけど、あなたがそこにおられない」
一拍おいて、趙武はさらに言う。
「死して朽ちぬことと、永遠は違うと、私は、思います。私の想い……あの日の恋も言祝ぎもあなたの中で永遠です。死ぬことはない、無くならない、永遠」
優しいさざ波のような言葉に、士匄は目をつむってうっとりとした。見上げると、趙武の顔が美しいまま、しわが目立ち始めていた。加齢独特のたるみは少ない。柳のような嫋々な印象、なめらかな白い肌もそのままなのだから、奇跡のような造形である。
「……よく見たら年を取ったな、お前も。男ぶりがあがったというやつだ」
手を伸ばして目尻をなぞると、趙武が少し顔を赤らめた。
「男ぶり、を褒められたことは、その無くて……嬉しいです」
ぼそぼそと言うその姿に、士匄は笑う。こんな、泥臭く、粘性の情熱を持ち、閨では雄そのものの男なのに。細いその腰に腕を回し、くつくつと笑った。趙武が、困ったように身じろぎしながら、士匄のうなじを色のないしぐさで撫でた。
「趙孟 。わたしの中にお前の永遠がある。ゆえ、お前も永遠となる。我ら二人、永遠ということだ」
獰猛な声音で言い放つと、士匄は起き上がった。往時に比べれば削がれたが、いまだ厚みのある背中であった。再燃し、趙武に仕込まれ、すっかり肌をあらわにしたまぐわいに慣れた士匄である。体をゆらすと、背中から脇にかけての筋肉とかすかな脂肪がうごめき、妙になまめかしい。趙武はうっとりと眺めながら、衣を引っ掛けてやった。
「いやしかし。死して朽ちぬではないと言い切られたのは業腹だ。まあ、外交の席、わざわざ東の端っこから来たやつだったから、笑って許してやったが、我が士氏を見くびられたままでは、不快だ。見せつけてやる」
「あんまり、妙なことはやめてください。そうでなくても、困った賊の件、我らの責となったのです。あなたの知恵が頼り」
困った賊とは国際的に荒らし回っている、今で言うと強盗団に似た犯罪組織である。各国手を焼いて、士匄たちに泣きついてきたのである。
「わかっている。全く、大国にみかじめ料をやるのは嫌がり、世話だけしてほしいとは、小国どもは厚かましい」
お前が言うな、と趙武は苦笑する。みかじめ料という賄賂に乗じて、自分のふところに入れ放題なのが士匄である。
「まあ、その相談も兼ねてやってもいいか。我が邸で宴席を設ける。卿はもちろん、名のある賢人、東方、西方、南方の方にもお声がけしてもてなそう。饗応は派手がいい。そのための場を建てても良いな」
遠い目をしながら、士匄が指でとんとんとん、と床を叩く。
「秋の終わりが良い。豊作の祝いも兼ねることもできて、めでたかろうよ。せっかく声をかけて恫喝するわけだから、それまでどこも歯向かうものはおるまい。趙孟の言祝 ぎが楽しみだ」
趙武の顔を見て笑う士匄は、五十をとっくに越えているとは思えぬ若々しさであった。
士匄は、宣言どおりに大宴席を設けた。先年の欒氏族滅、国際犯の相談、皆様と仲良くしたい、などなど、建前はあったが、ただの顕示欲と自慢である。君主を放り出しての饗応は、一部眉をひそめさせたが、口に出すものはいなかった。おもねったというより、無害で無邪気と断じられたらしい。
各国全てが来たわけではなかったが、それでも士匄は満足したようで、何度か趙武に
「我が国、我ら卿 、我が士氏こそ、死して朽ちずと言わんか?」
と酔ったふりして聞いてくるのだから、浮かれ具合が凄まじい。趙武はもちろん、
「正卿に謹んで申し上げます。それは否と申しましょう。不朽とは、徳を立て、功を立て、言を立てること」
と、静かに笑顔でいちいち返した。士匄は口を尖らせるも、やはり同じことを聞くわけだから、甘え倒しているわけである。みな、正卿が次卿に変な絡み方をしている、と不安そうであった。趙武は、士匄が公然と甘えてくることに、陶酔していた。
「せっかくの秋の祝い、みなさま、菊をご覧か。良い香りのものがこの日に咲くよう、差配したもの」
士匄が、言った。良い庭、と最初の方に紹介していたが、わざわざ菊を名指ししなかった。見ればわかるからであろう。それを今言ったのは、単に目についたからである。
「あの菊など良さそうだ」
そこからの士匄は、貴族として常軌を逸してたし、精力に満ちている彼らしい。ひょいっと庭に歩きだし、目当ての菊を手折った。この、壮年の貴人の行動に驚くものいれば、苦笑するものあり。
趙武は、かわいいなあ、と微笑んでいた。遠い昔も、こういうやんちゃなところがあった。今もあるのだと、ときめく己もいた。
そのまま士匄は、倒れた。
みなが呆然とする中、趙武はサッと立ち上がり、駆け寄って抱きかかえる。
士匄の瞳孔が開き、動かぬ口から嘔吐物が出ていた。趙武はそっと布で拭き取ってやった。息は無く、脈は止まっているように思えるが、動いているのかもしれない。冷静か欲目か、趙武にはわからなかった。
嘔吐物が詰まらぬよう、士匄を横向きに寝かせると、趙武は立ち上がった。
「正卿はお亡くなりか、お亡くなりありつつか。息をしておりません。脈は私には無いように思えますが、医者の判断を。まず、お部屋にお運びして、皆様で見守りましょう」
きびきびと、次卿が差配し、正卿は宴席の部屋にそのまま寝かされた。士氏の医者が馳せ参じ、脈を取って首を振った。
士匄の宴会はそのまま葬礼の準備となった。知らせる手間を省くあたり、合理的な士匄らしかった。
嗣子 が親への哭礼 をしている間、趙武は踊るような動きで床をドタンドタンと踏みしめた。哭礼のひとつであるが、死んでいるかどうかの確認でもある。息を吹き返す場合もあった。士匄は死んだままであった。
次卿として、正卿の死を悼み、口の中に玉 、つまりは瑪瑙 を入れた。故人が死後も食べ物に困らぬようにという思いやりと、生まれ変わってほしいという祈りの儀である。そうして、公的な差配を全て終え、各国使者に儀礼を以て詫びたあと、趙武は粛々と帰路についた。
邸に帰ってから、趙武は一人籠もり、脇息にもたれかかった。ため息をひとつつく。
「……嘘つき!」
吐き捨てるように言うと、趙武は身も世もなく泣いた。
士匄は、筆者の推測であるが、五十半ばで死んだと思われる。欒氏を滅ぼしつくした一年後であるから、春は短いと言わざるを得ない。諡号 は宣 。法制を整えたものに贈られる。
趙武は士匄の後を継いで正卿、つまり国の宰相として全力を尽くした。士匄の宿題を全て終え、各国との和平に取り組んでいる。七年の執政の後、五十後半で死んだ。晩年、己の死を自覚していたような発言がある。そうなれば、どこまでも根性があるだろう。死を目前にしながら彼はひたむきに実直であった。諡号は文 といい、中華最高位の人格者に贈られる。
諡号など、実のところこの話においてはどうでもいい。
二人は死ぬまで、二十一才と二十五才の輝かしい恋情を忘れなかったし、持ち続けていたし、大切にしていた。それだけで良いと思う。
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