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第三話・杏

「あの黄色い実は梅?」  ピンポン玉くらいの丸い実がいくつも生っている木を指差し、颯真に問う。掃き出し窓から見える庭にはシトシトと梅雨らしい雨が降っている。 「あれは杏ですよ、啓人さん。梅なら梅酒にできたんですけどね」  いつもと同じく黒い服を着たオレの推しは、ちょっとした質問にも真っ直ぐ目を合わせ、真心込めて返事をくれる。  リビングのソファでオレが持参した豆大福を頬張る岩山も、杏の実には興味がないらしい。木の周りに、収穫されず落ちている実が何個もあるのが、その証拠だ。  この日も、三十分程で岩山がアトリエへ戻り、おやつタイムが終わった。その後、オレは「蔦の洋館」のリビングで、会社から支給されているノートパソコンを広げさせてもらった。 「お仕事のお供に」  推しがクリーム色のコーヒーカップにおかわりを淹れてくれた。なんて気がきくのだろう。  そして颯真も、シャワーを浴びたりとバーテンダーの仕事に行く支度を始めた。  一人になったソファでコーヒーを飲みながら仕事をする。  プロジェクトの進行具合をチェックしたり、目を通しておくように言われた書類を読んだり。言ってしまえば、大して忙しくはない。  オレは「画家・岩山龍弥の新作の進捗状況を見守る」という大役を任されているから、他は細々とした仕事しかしていないのだ。  だからこうして蔦の洋館を訪れた後も、必ずしも会社へ戻る必要はない。「岩山先生のところから直帰します」と言えば、納得してもらえるから。まさかおやつを食べに通ってるだけとは上司も思っていないだろう。  岩山に邪険にされアトリエの隅で居心地悪く佇んでいるオレを想像している上司は、「大変だけど、頑張ってくれよ」と肩を叩いて労ってくれる。  ただ、颯真に暇だと思われたくないという理由で、「直帰します」は月曜日にしか使わないようにしていた。 「啓人さん、お仕事大丈夫そうですか?僕そろそろ出ようと思いますけど、あとから来ていただいてもいいですよ」 「いや、大丈夫。すぐ片付けるから一緒に出よ」  岩山には「作業中は話しかけるな」と言われているから、帰りの挨拶をしないのが常だ。バタバタとノートパソコンを鞄に仕舞った。  十七時前に着くよう颯真と共にバーへ向かう。雨は霧雨で、徒歩十分の道のりは、傘をさしていてもしっとりと湿る。  推しが働くバーは、彼のおばあさんの弟、つまり岩山のエージェントをしている山本が趣味で経営している。颯真がほぼ一人で切り盛りできるほどの広さで、古き良き時代をコンセプトにしている。照明を抑えた洒落た空間はとても居心地がいい。客の年齢層は高目で、大人が一人でもゆっくり飲めるようなテーブル配置になっている。  ただ、比較的早い時間は颯真目当てのおばさまたちが、連れ立って来ていたりもするから面白い。一度でも颯真に笑顔を向けられれば、また笑いかけてほしいと欲が出るのは仕方がない。まるで魔性の男だ。  バーテンダーの颯真は白シャツに黒ベスト、さらに蝶ネクタイを付けている。彼のその姿を見るだけでも、ここに来る価値があると断言できる。  店に入ると、颯真はテキパキと開店準備を始めた。オレはカウンターの隅におとなしく座り、働く推しを眺める。動きに無駄がないし、備品の取り扱いが丁寧だ。  カクテルに使う果汁やシロップには全てナンバーが振られている。調合を間違わないための工夫だろうか?  三十分で支度は終わり、颯真は外に出て扉の札をCLOSEからOPENへと裏返した。  最初の客は常連さんで、まさに颯真ファンのおばさま二人組だった。とはいえ、必要以上にバーテンダーに話しかけるような下品なことはしない。少し凝ったカクテルをオーダーし、シェイカーを振るバーテンダーの姿を眺め、お酒を楽しむのだ。  微笑みを浮かべシェイカーを振る推しの美しい所作は絶品で、オレもついつい工程の多そうなカクテルを頼むから、お仲間である。 「お兄さん、颯ちゃんのお友達?」 「えぇ、まぁ」 「お兄さんも、颯ちゃんに負けないくらいイケメンね」  そのまま、おばさまたちの会話に混ぜてもらっていると、なんのきっかけだったか「ジャムを作るのが趣味なのよ」という話になった。 「ちょっと質問なんですけど、杏でもジャムって作れますか?」 「作れるわよ。甘酸っぱくてスコーンに乗せたりしたら、とっても美味しいの」 「オレに作り方を教えてもらえませんか?」 「お安い御用よ。手作りのジャムは傷みやすいから、作ったらできるだけ早く食べてね」  おばさまの一人がメモ用紙に材料とレシピを書いてくれた。思ったより大量の砂糖が必要なことに驚き、思わず聞き返してしまった。  オレが杏ジャムを作ったら、颯真はどんな風に喜んでくれるだろうか。  次に蔦の洋館に行ったのは、予定通り一日置いた水曜日だった。曇り空だったが、雨は降ってない。 「あのさ、庭の杏を収穫してもいい?」 「いいですけど、そんなに美味しくないですよ。酸っぱくて」 「じゃ、もらって帰ってもいいよね?」 「いいですけど、どうするんですか?」 「いいから、いいから」  用途を言わぬまま、颯真に脚立の足を押さえてもらい、杏を収穫する。岩山は「もの好きだな」と手伝ってもくれず、オレの持参したエクレアをソファで食べている。  その夜、一人暮らしのマンションに帰宅して、すぐシャワーを浴び身体を清めてから、杏ジャムを作った。  まず大きな種を取り出すのに苦戦したが、どうせドロドロになるのだから、この際、形は関係ない。ほぼ新品の両手鍋に、種を取った杏と昨日のうちに購入しておいたグラニュー糖を計量して入れた。このまま三十分放置だ。  次に中火で二十分煮詰めた。焦げないように木ベラで、丁寧に丁寧に混ぜながら目を離さずに。ワンルームの狭い部屋の中に、甘くていい香りが立ち込めている。  最後にレモン汁を加え、味見をすれば大満足の出来栄えだった。  バーでレシピを教えてくれたおばさまに「必ずやりなさい」と言われた通り、保存用の瓶も煮沸しておいた。我ながら完璧だ。  たぶんこの時、オレは浮かれていた。料理なんてしたことないのに、思ったより上手にジャムが出来上がって。これを颯真が食べて、「美味しい、ありがとう」とニッコリ笑ってくれることを勝手に想像して……。  木曜日は本来、蔦の洋館に行く日ではなかった。けれど、一刻も早くこのジャムを渡し、颯真から賞賛の笑顔を浴びたかった。ただただ自己満足のために、そう思って有休まで取得した。  アポを取っていないのだからと、一応インターフォンの無い洋館の玄関扉をノックする。本降りの雨音がうるさかったせいもあり、やはり反応はない。だからオレは、いつもどおり裏の庭へと回ったのだ。  時刻は十四時半。今日のおやつは、昨日オレがエクレアと一緒に持参したフィナンシェのはずだ。でも予定を変更し、この杏ジャムと購入してきたスコーンを食べて欲しかった。スコーンにはコーヒーより紅茶が合うだろうと、茶葉も買ってきた。  オレは颯真がコーヒーを淹れる前に、杏ジャムとスコーンと紅茶を渡そうと、このタイミングを狙ったのだ。全てはオレの計算通りに行くはずだった。  バルコニーに立つと、掃き出し窓からリビングの様子がよく見えた。ソファにはいつも通り黒い服を着た颯真が座っている。オレは傘を閉じて中に入ろうとしたが、颯真の表情があまりにいつもと違っていて酷く戸惑い、窓を開けることができなかった。  今まで、颯真と顔を合わせた全ての時間、彼は笑顔を見せてくれていた。嫌な顔をせず、ネガティブなことを言わず、微笑んでオレに接してくれた。  その颯真が泣いていた。目を真っ赤にし、ただ静かに涙を流していた。まるで全てが嫌になったかのように、ソファに深く座って、手足を投げ出して。身体の力が抜けきった無気力な姿でそこにいた。  オレは驚きのあまり、雨で自分の肩が濡れるのも構わず、バルコニーでただその姿を見ていた。  五分ほど経っただろうか。颯真の視線が、ゆっくりとこちらを向く。そしてオレに気が付き、心底驚いたように目を見開いた。慌てて、手の甲で涙を拭って、取り繕ったような笑顔を浮かべた。  オレは掃き出し窓を開けてリビングに入り、颯真に駆け寄る。 「どうしたの、颯真くん?大丈夫?つらいことがあった?悲しいことがあった?どこか痛い?ねぇ、どうしたの?」  颯真はブンブンと顔を横に振る。 「やだなぁ、なんでもないですよ。ちょっと欠伸して涙が出ただけ」  顔を背け、ソファから立ち上がりキッチンへ行こうとする。 「全然、大丈夫そうじゃなかった、さっきの颯真くん。心配だよ。何かあったのならオレに話して。力になれるかもしれないし」 「いやいや、僕は本当にいつも通りですよ。変ですよ、啓人さん。そんなに慌てちゃって」  いつもの颯真と同じ口調、同じ笑顔がそこに居た。目は真っ赤なままなのに。 「ところでどうしたんですか?今日来る予定の日じゃなかったですよね。スーツじゃない啓人さん、新鮮だなぁ。あっ、肩が濡れてる。今タオルを持ってきますね」  会話運びが上手くて、気遣いが出来て、優しい笑顔で。泣いていた姿とは別人のようだ。彼はどこからかタオルを持ってきて、オレの肩をそっと拭いてくれた。 「颯真くん、あのさ。さっき泣いて……」 「あっ、そうだ。コーヒー豆を切らしてたんですよ。ちょっと買ってきますね」  バタバタと財布とスマホだけを持って、颯真はオレを避けるように玄関扉から雨の中へ出かけて行ってしまった。  リビングに立ち尽くしたままのオレに、低い声が話しかけてきた。 「啓人、来てたのか。どうかしたのか?」 「あっ、岩山さん。じ、実は、さっきそこのソファで颯真くんが泣いていて……」 「見たのか?」 「えぇ。どうしたんでしょう?何か辛いことでもあったのかなぁ」 「それでオマエは「どうしたの?大丈夫?」って責め立てたのか、颯真を」 「責め立てたって、そんなつもりは……」 「颯真は、自分で決めて、強い意志をもって、人前では常に笑顔でいようとしている。一人のときくらい泣いてたっていいだろ。オマエは見てほしくもない姿を勝手に見て、心配したつもりになって」 「だって心配でしょ?いつも笑顔の颯真くんがあんな顔するなんて」 「笑顔は颯真の防御装備なんだよ。俺はオマエに「気を付けろ」って言ったよな。楽しいから笑顔でいる奴ばっかりじゃないんだよ」 「そんな」 「俺も、どうして時々颯真があんな悲しそうな顔するのか理由は知らないよ。だけど、必死に笑顔でいようとするんだから、気付かないフリしてやるべきだろ」 「だけど……」 「啓人、オマエ、今日は何しにきたんだ?大した用じゃないなら、もう帰れ」  杏ジャムも、スコーンも、紅茶も、そのままマンションに持ち帰った。持ち歩いた紙袋が雨で濡れて今にも破れそうだ。  杏ジャムは一人で食べる気にもならず、結局誰の口にも入らなかった。

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