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二月・ユウ「気づき」
あの日の朝。僕は目が覚めてすぐ、いつもと何かが違うと感じた。この一人ぼっちになってしまったような違和感はどこからくるのだろう……。
まさか。
布団を跳ねのけ、二段ベッドの梯子を数段登ったがそこにカイの姿はなく、きちんとベッドメイキングされた掛け布団が目に入る。枕の上には電源の切られたスマホが一台、ポツンと置かれていた。
嫌な予感が当たっているのでは、と僕の心臓は警告音でも鳴らすかのようにバクバクとする。
梯子から降り、狭いクローゼットを開ければ、カイのブレザーも、チョコレート色のマフラーも、そこには無かった。
僕はパジャマ代わりのTシャツとジャージのズボンのまま、廊下に出る。トイレや食堂は探しもせず、真っ直ぐ非常用扉に向かい、雪の積もった非常階段を室内履きで降りていく。
昨晩、僕が寝付く頃には二段ベッドの上にいたはずだ。ときどきギシッとベッドが音を立てていたから確かだ。もし父の命令で任務からはずされたのだとしたら、こんな姿の消し方はしなかっただろう。カイは自分の意思で、僕の前から姿を消したのだ。
裏庭に出て、カイの足跡を探すけれど、朝方まで降り続いていた雪が全てを覆い隠していた。それでも、僕はカイが通っただろうルートを辿る。
雪道を歩き、閉ざされた正門までやってきても、何の痕跡も見つけられない。けれどなぜか、カイはこの門から外の世界に出て行ってしまったのだと確信があった。
トボトボと寄宿舎への道を戻る。半袖で外にいる僕に驚いた寮父が、「どうしたんだ?」と駆け寄ってきた。僕は口が聞けなくなってしまったかのように、何も言えない。カイが居なくなったことを伝えることもできなかったし、寒さも感じなかった。
一限目の授業で皆がカイの不在に気がついた。そこから少し騒ぎになったが、翌日には担任が「丸河海斗くんは体調不良で一旦ご実家に帰省しました」と皆に伝えた。
カイが姿を消して三週間が過ぎた。
あれから僕の毎日はすっかり色褪せてしまった。カイが転入してくる以前の状況に戻っただけなのに、身体の真ん中にぽっかり穴が空いてしまったかのようだ。
ただ流れ作業のように味の感じない食事をし、授業を受け、生徒会室に顔を出し、寄宿舎へ戻るだけの生活を繰り返している。
父にカイの正体を明かされてからずっと、僕は怒っていた。いや、混乱していたのかもしれない。カイが手塚の指示を受け、僕の出会いを阻止するお目付け役の任務を負っていたなんて、信じたくなかったから。
カイとの思い出の一つ一つを、あれはカイの優しさだったのか、任務だったのかと考えてしまっていた。
任務だったとしても、そこに彼の優しさが含まれていたはずだ。そう思った途端に、違う、あれは任務としての振る舞いだったのだ、と思い直す。
例え全てが任務だったとしても、カイは僕を、運命を変えてしまう出会いから守ってくれているのだ。お礼を言うべきであり、怒ることではないのではないか。
思考がぐるぐる行ったり来たりする中、カイを無視し口も聞かない日々を過ごしてしまっていた。一人で考え込まず、同じ部屋で眠るカイに問えばよかったのに。彼と話し合えばよかったのに。
僕には今まで、優等生としてあるべき姿を演じている部分があった。父や先生が望むことを予測して汲み取り、行動に移していた。生徒会長として生徒の模範であろうと努めていた。
自分自身の意見というものが、常に希薄だったのかもしれない。
だからカイに対して、自分がどう思っているのか、どうしたいのか、そういう複雑な感情が処理できず、無視をするという安直な態度をとってしまった。つまり、ひどく子どもだったのだ。
僕は後悔している。
カズたちと軽音楽部の話をしたときのチャンスすら棒に振った自分を、ただひたすらに悔いている。まさかカイが黙って学園を出て行ってしまうなんて、想像もしなかった僕を殴ってやりたい。
そんな立ち直ることのできない日々を過ごす僕のもとに、一通の郵便が届いた。
長細い茶封筒の表面には学園の住所と僕の名前が、裏面には差出人の住所がなく、丸河海斗とだけ書かれている。それは見慣れたカイの字で、けして上手ではないけれど、丁寧に強い筆圧で書かれていた。
何が入っているのかと、気持ちが焦り震える手で開封すると、手紙はなく、僕が文化祭でプレゼントした紫のミサンガが出てきた。
返却されてきたのだ。呆然とそれを見つめる。
これで本当に縁が切れてしまったのかもしれない。この部屋から消えていたチョコレート色のマフラーだって、もしかするとすでに焼却炉に捨てられてしまったのではないか。
だって、カイにとって僕との日々は任務の一環だったのだから。僕だけが、趣味の合う、話の合う、僕の学園生活に彩りをくれる存在だと、この関係を幸せに思っていたのだから。
それでもいい。カイにとってはただの任務でもいい。とにかく僕は、またカイに会いたくて、声が聞きたくて、「ユウ」と呼んでほしくて、仕方がない。
郵便が届いた翌日、初めて体調不良を理由にして授業を休んだ。痛いところや、熱があるわけでもないのに、自分の部屋に引きこもって、一日を無駄に過ごした。
寝付けないのは相変わらずで、自分のベットの中で丸くなって考え事をする。
僕はいったいどうしたいのだろう。これから、どうすればいいのだろう。未来には濃い霧が立ち込めていて、先が全く見えない。
そもそも僕が「十七歳で運命を変えてしまう出会いがある」という占いを初めて聞いたのは、十三歳のときだった。
幼いころから自分が歩む道は、いい大学を出て、父の跡を継いで政治家になることしかないと思っていたから、占いの内容にむしろワクワクしたことを覚えている。
けれど父は、その占いをネガティブに捉えていた。十七歳での出会いを排除し、僕が予め用意された道を外さないよう、手を尽くそうとした。
だから僕を山の中の学園に閉じ込め、さらに守りを強固にすることを手塚に命じ、手塚がカイを雇った。
全ては父が思い描いたレールの上で起きている出来事なのだ。
その夜。部屋で一人過ごすことにも飽き飽きしていた。だから、消灯時間を一時間ほど過ぎた頃、廊下先の非常階段から寄宿舎を抜け出してみた。
真夜中にこんなことをするのは、七夕の夜以来だ。
裏庭に出て、ガラス張りの温室へと向かう。
常夜灯のみが灯る暗い温室に、もしかしてカイがいるかもしれないとキョロキョロしてみるが、当然、いるわけなどなかった。
ただ、睡蓮の花が全て閉じている時間帯なのに、どこからか甘い匂いが漂ってくる。
池の周りをぐるっと歩くと、どういうことなのか、何輪か花が咲いている一角があった。
近づいてみれば、ミサンガと同じ紫色をした美しい花が、水の上にぽかりと浮かんでいる。見惚れるように眺めていると、突然背後から声がした。
「綺麗だろ。それは夜咲きの熱帯睡蓮だよ。今回初めて育ててみたんだ」
声がするほうを振り向けば、モスグリーンのつなぎ服を着た庭師さんが立っていた。
「こ、こんばんは。すみません。こんな時間に……」
「別に。俺は教師じゃないし。だけど、どうかしたのか?優等生が一人で夜の大冒険なんて、ガラじゃないだろ」
鼻で笑うようにそう言われて、僕は黙り込んでしまう。今の自分の気持ちを、上手く言葉に表現することができないから。
庭師さんは憐れむような顔をして、僕を見た。
「あのさ、ぼっちゃんは意外と鈍いんだね」
「え?」
「運命はさ、もう変えられてしまったって、気がついていないでしょ」
「それは、どういう意味ですか?」
「客観的な立場から君らを見ていたら、よくわかるだけどな」
「君ら?」
「まだ分からないの?占いで言われた出会いの相手が誰だったのか。何がきっかけであろうと、自分のそばに何か月か居てくれた人を自分がどれだけ大切に思っているのか、そのせいで今、どれだけ心が揺れ動いているか」
水面に波紋ができ、熱帯魚のプラティが二匹、優雅に泳いでいるのが目に入る。
「……あぁ」
わかっていなかった。全く、何も。そうか、そうだったのか。十七歳でのカイとの出会いが、僕の運命を変えるのだ。もう変わっていたのだ。
今、こんなにも困惑し、寂しくてたまらないのは何故なのか。どうして、どうして今まで気が付かなかったのだろう。
「ほらね、簡単なことだったでしょ」
「あ、ありがとうございました」
僕は庭師さんに頭を下げ、温室の扉に向かう。 さっき見た夜咲き睡蓮以外の花は、蕾の状態で、皆眠っているようだ。ふと振り返れば、庭師さんは愛おしそうに、紫の花を見つめている。
「カイは、カイは、運命の出会いの相手が自分だと、気がついているのでしょうか?」
少し大きな声で、もう一つ質問を投げかけた。
「俺に聞くことじゃないだろ、ぼっちゃん。でも、手塚に与えられた任務を捨ててまで姿を消そうとしたんだ。つまりそういうことなんじゃないのか」
僕はもう一度、深々と頭を下げ、今度は振り返らずに扉へと歩いた。
温かい温室を出れば、外は凍えるほど寒い。夜空を見上げれば、よく晴れていて、細い細い月と冬の星座が輝いている。見つけやすいオリオン座を起点に、冬の大三角も確認できた。
霧がかかったようで、数歩先も見えなかった自分の視界が、急にクリアになって遠くまで見通せたような気になった。
部屋に戻り、僕は自分のベッドではなく、二段ベッド上のカイの布団へ潜り込んだ。掛け布団からも、枕からも、カイの匂いがする気がして、その匂いに包まれれば幸せな気分になれた。だから、とても久しぶりにぐっすりと眠れた。
翌朝、目が覚めて、カイから送られてきた茶封筒を見返す。どういう気持ちで僕の名前を書いてくれたのだろう。丁寧に一文字一文字書いているカイの姿が目に浮かぶ。
僕は授業が始まる前、職員室の固定電話を借りて、まず、手塚に電話をかけた。
「手塚、カイは元気ですか?」
電話が繋がって、一言目にそう問うた。
「おはようございます、ぼっちゃん。彼は病気も怪我もしていませんよ。私自身は直接会えていませんが、カイは、私が最も信頼する人物の家に身を寄せています」
それが聞けて、安心した。
「父はそこにいますか?」
「ちょうど今、お出かけになられるお仕度をされています」
「代わってください」
少し待たされてから「なんの用だ」と父が電話に出た。忙しいだろう父に「大切な話だから少しだけ時間をください」と切り出す。
大きく深呼吸してから、僕は受話器に向かって気持ちを伝える。
「お父さんは、僕が将来は政治家になると思っていますよね。それを一旦白紙にして欲しいんです」
「なんだと?」
「僕は政治家としてのお父さんを尊敬しているし、素晴らしいお仕事だと思っています。正直、政治家になりたいという気持ちも大きい。けれど、だからこそ、自分の可能性を広げたい。そのために、もっともっと勉強をして、世の中をたくさん見て、見聞を深めたい。大勢の人に出会って、色々なことを幅広く考えたい。そして政治家になるとしても、その道筋は自分で切り開きたい」
「切り開く?笑わせるな。それがどれだけ大変なことか分かっていないだろう」
「分かっていません。でも、お父さんが、どれだけ苦労をして、辛い思いをして、人に言えないようなこともあって、今の地位を掴んだのかは聞いています。僕に同じ嫌な思いをさせたくないと、レールを敷いてくれようとしていることも知っています。それゆえに、運命を変えてしまう出会いを阻止しようとしたのでしょう?」
「それの何が悪い」
「どうか僕には僕の道を歩かせてください。それを許してください。だって僕はまだ十七歳なのだから。大人になりきれていない僕を自由にしてください」
電話の向こうで父が何か言ったけれど「そういうことなので、よろしくお願いします」と電話を切った。
今の僕にできるのは、この学園でさらに勉学に励み、カイとの再会を待つことだ。だってこれは運命を変えてしまう出会いなのだから。必ずまた会えるに決まっている。これきりな訳がないじゃないか。
そう信じて残り少ない十七歳の日々を待つことに決めたのだ。
右手にミサンガを二重につけ、そこに口付けてから、そっと呟く。
「好きだ。早く会いたいよ、カイ」
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