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ソーダ
僕が好きなのは、クラスメイトの灰原修也。灰原は成績優秀で、模試では常に一位をとっている先生たちのお気に入りだ。
授業中、灰原を見ると背筋を伸ばして凛とした姿で前を見ている。斜め後ろに座っている僕は、毎授業、灰原を見つめている。
いつから好きだったか、なんて覚えていない。一番強く記憶しているのは去年の夏。窓を閉めているのに静かな教室には蝉の声が小さく聞こえ、冷房が効いている快適な部屋で眠りそうになっていたときのこと。既に何人ものクラスメイトが机に伏せており、僕もその仲間入りになろうとしていると、ふいに灰原が振り向いた。眠りに入ろうとする僕の顔をじっと見つめている。その顔は非難するでも、肯定するでもなく、ただただ僕を見つめていた。牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけているのに、切れ長の瞳が知的さを感じさせる。睫毛は長く、眼鏡レンズが邪魔なのではとぼーっとした頭の片隅で思った。時間にして、五秒もなかったが、そのときの灰原が忘れられずそれからというもの僕はずっと灰原を意識するようになった。
僕を見つめるあの瞳が、またこちらを向くのではないかと期待している。
「水川、今日も灰原の方見てただろ」
休憩時間になると、友人の幸原が揶揄うように僕の肩を叩いた。
「駄目だろ、カンニングはよ」
幸い、灰原への好意には気づかれていないので曖昧に笑う。
進学校であるこの高校では、授業中必ず小テストを行う。そのテスト中にも僕は灰原を見ていたようだ。
自分がどのタイミングで見つめているのか自覚はない。気づいたら見つめている。灰原の方を意識している。
「なぁこれ見ろよ、このモデル可愛くなったよな」
幸原が雑誌の一ページを見せてくるが、僕は興味がない。
以前の僕なら多少の興味はあっただろう。どの子が可愛い、あの子が可愛い。そんな感情が僕にもあった。
だけど今、僕の感情は灰原へ向いている。
男が好きなのではなく、灰原が好きなだけだ。
凛としたあの姿勢や、こちらを射抜く瞳、にこりとも笑わないあの顔。
すべてが僕を虜にする。
「そういえば、売店に新しいアイスが入荷したんだってよ。サイダー味なんだけど、美味いんだって」
「サイダー味のアイスは珍しくないだろ」
「そうなんだけどよ、懐かしい円柱の棒アイスだぜ。昔よく食ってただろ」
昔食べてた円柱の棒アイス。そういえば、そんなものを小学生のとき食べていた気がする。
「灰原はこういうの食べそうにないよなー」
灰原がいないことを確認した幸原がそう言った。
確かに、灰原がアイスを食べているところは想像できない。本を読みながら紅茶をたしなんでいる姿は容易に想像ができる。
授業が始まると休憩時間のときの騒々しさはなくなり、誰一人として話さなくなる。先生の話が子守歌に聞こえ、一人、また一人と机に伏せていく。
どんなに眠たくなる授業でも、灰原だけは常に起きている。あの姿勢はそう簡単に崩さない。
午後の授業は一層眠く、僕もついつい首が動く。
眠ってしまうと灰原の姿を見ることはできないので、眠気を飛ばすように、ノートに灰原の絵を描く。
頭は丸く、首は細い。肩幅も広くはなく、背中の線は真っすぐで。
しゃっしゃとシャーペンを走らせ、細部を描こうとまた灰原に視線を向けると、びくりと肩が跳ね上がってしまった。
灰原が、こちらを見ている。
じっとこちらを見ている。
五秒ほど僕と目が合うと、灰原はすぐに黒板の方に目を向けた。
僕の心臓はどきどきと高鳴る。
どうして今、こっちを見ていたんだろう。僕の向こう側にある何かを見ていたのかも、なんて鈍感なことは思わない。灰原は絶対、僕を見ていた。
僕を見て、何を思ったんだろう。
何を思って、僕を見たんだろう。
授業中、僕の中でずっとその疑問がぐるぐるまわる。
灰原は僕のことどう思ってるんだろう。
僕と同じ感情を持っていてくれているのだろうか。それともただのクラスメイトだろうか。
考えても分からないことをずっと考えてしまう。
放課後になると、幸原は部活へ行く前に「あのアイス食べてみろよな」と言ってきたので、帰る前に食べるかと購買へ向かった。
帰りながら食べるという下品なことはできない。
おばちゃんからアイスを一本受け取ると、教室へ戻った。
今日は体育館で軽音部の発表会がある。イケメンと名高い先輩やマドンナと呼ばれている先輩の演奏を聞きに、クラスのみんなは体育館へ移動した。進学校の唯一の楽しみである軽音部の発表会は、全校生徒が楽しみにしている催しだ。あいにく、僕はそういうものに興味はないのでさっさと帰る。
誰もいないと思っていた教室には、灰原が一人だけ座っていた。
宿題をしているようで、止まることなくシャーペンを動かしている。家でやればいいのに、と思うが灰原が残っているなら僕も残ろう。
教室に用はないけれど、灰原を見るために自分の席につく。
がさっと音を立ててアイスの袋を開けると、灰原が振り向いた。
「それ、最近有名なアイス?」
初めて灰原に話しかけられた。
驚いた僕は返事をするのに時間を要した。
「あ、うん。灰原も知ってるんだ、これ」
「そりゃあね。みんな食べてるだろ」
優等生の灰原が、宿題を中断させて僕と会話をしている。
なんだか不思議な感じがする。
もっと喋りたい。
「灰原は、食べた?」
「いや、食べてない。コンビニで売ってるのと味は一緒だろ」
冷めた言い方だが、それが灰原に似合っている。
袋から取り出したまま口に入れずにいると、ぽたりとアイスが指に垂れた。
「溶けてるぞ」
「あぁ、うん」
僕は指に落ちたしずくを舐める。普通のソーダ味だ。
「普通、指はティッシュで拭くんじゃないのか?」
「あぁ、そうかも」
灰原と話している。
その事実が嬉しくて、緊張して、なかなか上手く言葉を返せない。
もっと話したいし、何より灰原が僕のことをどう思っているか知りたい。
「灰原も、食べる?」
アイスを差し出すと、灰原は驚いたように目を見開いたが、すぐに「いや、いい」と拒否をした。
アイスを拒否しただけなのに、僕が拒絶されたような気分になり、苛立ったし悲しいし、こっちを見てほしいと強く思い、持っていたアイスを灰原の口の中に突っ込んだ。
「んむっ」
灰原は一層表情を驚愕の色に染め、僕とアイスを交互に見る。
あ、やらかしたかも。
そう思うが、アイスをくわてえている灰原が新鮮で、灰原の口から途中まで抜いたアイスを、もう一度口の中へ突っ込む。
「んんっ」
灰原の口からくぐもった声が聞こえるが、苦しんでるような声ではない。
未だに驚いていた灰原だが、我に返ったのかしゃりっとアイスを噛んだ。
もぐもぐと咀嚼したあと呑み込んだので、灰原の喉が上下する。僕のアイスの一部が、灰原の中へ落ちて行った。
「何するんだ」
「ごめん」
灰原に避難されるが、僕は心のこもっていない謝罪しかできない。
「君、ずっと僕を見てるよな」
「うん」
「認めるのかよ」
「だって見てるから」
ばれてたのか。いや、ばれない方がおかしい。
毎日毎日僕からの視線が刺さり、気になっていたのだろう。
ということは、僕を意識してくれたのだろうか、そうだと嬉しい。
「でも、灰原だって僕のこと見ただろ。今日も、去年も」
「覚えてたのか」
「忘れるわけない」
「気になったんだ。いつも感じる視線が」
「ごめん」
「いいけど、君、俺のこと好きなのか」
灰原の顔には揶揄いや嘲笑がない。
真剣に僕に訊いている。
「うん」
冗談で済ませる気はなかったので、正直に答えた。
灰原は「ふうん」と呟くと、僕のシャツを引っ張った。
一瞬、灰原の柔らかい唇とぶつかる。
今度は僕が目を見開く番だった。
相変わらず表情を一ミリも変えない灰原は、言った。
「悪くないな、ソーダ味」
ぺろ、と自分の唇を舐めた灰原はとても色っぽかった。
「僕、今日からソーダ味が一番好きかも」
「俺も」
灰原はくるりと背を向け、宿題を再開した。
僕は指に垂れ続けるのも気にせず、灰原の食べ掛けにがぶりと嚙みついた。
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