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第26話
「西崑国と東越国の連合軍が行軍を開始したとの報告が入りました!」
黒炎軍本陣の作戦室で、急いで飛び込んできた兵士の声が響いた。部屋には龍承業をはじめとする幹部たちが集まっており、壁には東越山脈周辺の大型地図が貼り出されている。
「全軍に準備を整えるよう伝えろ」
龍承業の落ち着いた声に、周囲の将兵たちが一斉に動き始めた。戦闘が近いことを示す緊張感が空気を満たしている。
俺――梁易安はその光景を壁際から眺めていた。公式な「軍師」の肩書きがあるにも関わらず、今や発言権はほとんどなくなっていた。いや、正確には発言すること自体は許されているが、その言葉に耳を傾ける者は今や総大将である龍承業だけになっていた。
(ちょっと前までは、みんな俺の意見を聞いてくれてたのに……)
だが、これも自ら選んだ道だ。「東越山脈の戦い」で勝利するために、俺は龍承業との約束を交わした。その結果として……
「今日の兵力配置の確認を終えたら、私の部屋へ来い」
作戦会議の終わりに、龍承業がさりげなく俺に言い渡した。誰にも聞こえない小声のつもりだろうが、部屋の空気が一瞬凍りついたように感じた。そして、俺の背中に刺さる周囲の視線。
(はぁ……夜の相手役として呼ばれてるって、もう周知の事実になっちゃってるんだな)
約束から二週間が経ち、俺は龍承業に命じられた通り毎晩彼の寝所で過ごすようになっていた。最初の数日は緊張と戸惑いの連続だったが、今では少し慣れてきた部分もある。彼は意外にも俺の意思を尊重してくれることが多く、無理強いされることはなかった。
呼ばれて初めて彼の寝所を訪れた夜、俺は震える手で衣服を脱ぎ、覚悟を決めたものだった。だが、龍承業は「今日はただ横になっていろ」と言い、俺と添い寝するだけで眠りについた。二日目は長いキスの後、お互いの体に触れる程度。本格的な行為まで至ったのは初回を含め、数回しかない。
行為をする時、彼は必ず俺の体のどこかに痕跡を残していく。首筋、肩、胸、背中…まるで自分の所有物にマーキングするように。
おかげで俺の評判は地の底まで落ちた。せっかく商業特区の成功で上向きになりかけていたのに、今や「龍承業専用の男娼」として軍内で噂されるようになっていた。
(みんな表面上は何も言わないけど、裏では色々言われてるんだろうな……)
◆◆◆
「梁兄! 大丈夫ですか? 今日もあまり顔色が良くないですけど……」
作戦室を出たところで、温修明が心配そうに駆け寄ってきた。軍内で唯一、俺に変わらぬ態度で接してくれる存在だ。
「ああ、大丈夫だよ。いつも通りだって」
軽く笑って答えるが、温修明の眉間にはしわが寄ったままだ。
「でも……最近、梁兄は……」
彼は言葉を選ぶように口ごもった。
「総大将に何度も呼ばれてるって? そんなの気にしなくていいよ」
俺はできるだけ明るく言った。
「……軍師としての仕事だから」
全くの嘘だし、温修明はきっと薄々気づいているだろう。だが彼はそれ以上追及せず、代わりに小さな包みを差し出した。
「これ、梁兄のために用意しました。元気が出る漢方です」
その純粋な親切に、胸が熱くなった。
「ありがとう、修明」
彼の肩を軽く叩いて、俺は自分の宿舎へと向かった。龍承業の元へ行く前にちょっとでも休んでおきたいからだ。
宿舎は小さいが綺麗に整えられた部屋だ。最近はほとんど寝に帰るだけの場所になっているが、それでも自分だけの空間があるというのは心の支えになる。俺は寝台に横たわり、天井を見上げた。
(龍承業は俺に対して何を考えているんだろう……)
この一週間、彼との会話は少なかった。彼が俺を呼ぶのは、俺の体を「味わう」ためだけのようにも思える。でも、時々見せる表情には、単なる欲望以上のものが感じられた。
彼が俺を抱く時、その腕の中で俺は不思議な安心感を覚える。まるで大切なものを守るように、彼は俺を抱きしめてくる。俺はそれが好きだった。
(あんな恐ろしい男に惹かれているなんて、俺はどうかしてるのかもな……)
その思いが頭をよぎった瞬間、俺は自分の気持ちに気づいて愕然とした。
惹かれている? まさか俺が龍承業に?
(あり得ない。これは単なる異世界で生き残る戦略であって……)
そう自分に言い聞かせても、胸の高鳴りは収まらない。たぶん、俺は彼に何かを感じ始めている。それが恐怖なのか、好意なのか、依存なのか、まだ自分でもわからないが。
◆◆◆
日が落ち、龍承業の部屋へ向かう時間となった。彼の部屋は相変わらず豪華だった。だが、いつもより緊張感が漂っている。明日は戦場へ向かうからだろうか。
龍承業は書類を眺めていたが、俺が入ってくると顔を上げた。
「来たか」
「はい」
俺は静かに扉を閉め、彼の前に立った。彼の鋭い視線が俺を上から下まで舐めるように見た。
「明日からが本番だな」
「はい、東越山脈での戦いですね」
彼はゆっくりと立ち上がり、俺に近づいてきた。ふと、彼の目が疲れているのに気づく。幹部たちの前では見せない顔だ。
「総大将、休まれた方が……」
「黙れ」
言葉は厳しいが、口調には迫力がない。疲労しているのは間違いない。考えてみれば、彼は昼夜問わず戦の準備に身を削っている。
「少しの間、寝台で横になりませんか?」
彼は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに小さく笑った。
「心配してるのか?」
「あなたが倒れたら軍は崩壊します。休息も戦略の一部ですよ」
龍承業は軽く頷くと、俺の腰に手を回した。
「今夜は、少し趣向の違うことをするか」
「違う……ことですか?」
彼は寝台に腰掛け、上着を脱いだ。その下の筋肉質な上半身に、思わず視線を奪われる。彼の体はいつ見ても完璧だった。
「何をぼんやりしている。こちらへ来い」
俺はゆっくりと彼の横に座った。すると突然、腕を引かれ、彼の腕の中に収まるような形になる。
「え……?」
「今夜は休めと言ったではないか」
龍承業は俺をベッドに押し倒し、自分もその横に横たわった。そのまま、俺を静かに抱き寄せる。
「……まるで俺を抱き枕みたいに使われてますね」
俺は緊張を和らげようと冗談を言った。
「うるさい。寝ろ」
龍承業の声は眠そうだった。彼の腕の中で、俺は不思議と安心感を覚えた。彼の体温、鼓動、そして吐息が近くで感じられる。こんな状況で安心するなんて、俺もどうかしている。
彼の腕がきつく俺を抱きしめてきた。この男は本当に俺に何かを感じているのだろうか。それとも、単なる所有欲だろうか。
「龍承業……」
俺は小さく呟いた。彼の名を呼ぶのはまだ慣れない。
「なんだ?」
「明日の戦い……必ず勝ちましょう」
彼はわずかに笑みを浮かべた。その表情は俺だけが見ることのできる特別なものだと感じた。
「ああ、必ず」
その言葉を胸に、俺は彼の腕の中で、複雑な思いを抱えながらも、次第に眠りに落ちていった。明日からの戦いがどうなるかはわからない。だが、少なくとも今は……この人の腕の中にいることが、正しいことのように思えた。
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