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第8話 身体だけじゃない、心まで欲しい

 有馬が目を覚ましたときは、もう夜中のはずだった。カーテンは完全に閉まっておらず、隙間から月明かりが差し込み、畳の上に斜めに影を落としていた。  有馬は目を開け、身じろぎした。  ああ、全身がひどく痛む。辺りを見回すと、ここが一ノ瀬の寝室だと気づいた。  いつの間にか新しい服とパンツに着替えさせられていて、下着までもが新品だった。  有馬の視線は部屋の中を漂い、思わず隣で眠る一ノ瀬の姿にとどまった。  一ノ瀬は安らかに眠っていた。  片手を頭の後ろに枕にし、顔は有馬の方を向いている。唇の端が少しだけ上がり、夢の中でも微笑んでいるようだった。  普段は口数の多い彼が、こんなにも静かに眠っているのは意外だった。  呼吸は穏やかで、まつげが瞼の下に薄い影を作り、いつもの「何でも知ってるぞ」とからかう表情とはまるで違った。  有馬はじっと彼を見つめ、ぼんやりとした気持ちになった。  一ノ瀬の寝顔は見慣れているはずだ。  数日前にはソファで居眠りしているところを見たこともある。でも、こんなに近くで、しかも自分が眠れずにいる時に見るのは初めてだった。 彼はそっと体を向け、顔を自分の枕に埋めたが、またこっそりと顔を傾けて有馬を見続けた。 「……この人、ずるすぎるな」  小声で呟き、相手を起こさないように気をつけた。ついさっきまでの親密な時間を思い返し、顔が熱くなった。  こんな自分は見たことがなかった。恥ずかしくてたまらなかった。  しばらく一ノ瀬を見つめていたが、少しだけ距離を詰めてみた。  ただ、もう一度だけよく見たいと思ったのだ。自分にそう言い聞かせて。  膝を立ててそっと近づき、一ノ瀬に触れそうになった瞬間、動きを止めた。  一ノ瀬の呼吸は変わらず静かで、まつげは微動だにしない。  有馬は息を潜め、何かを起こしてしまうのが怖かった。月明かりが一ノ瀬の眉や目元を照らす。  突然、額の髪に触れたくなった。彼が目を開けたら笑われるかもしれないと思いながらも。  しかし、何もせず、ただ静かに見つめるだけだった。耳だけが熱くなった。 「今の俺の姿も……この人ほど変態じゃないよな」  そう呟き、位置を戻そうとしたが、畳が「きしっ」と小さく音を立てた。  動きを止め、固まる有馬。  一ノ瀬のまつげがわずかに震え、まるで目覚めそうになった。  有馬は慌てて息を止め、目を閉じて眠ったふりをした。  数秒後、一ノ瀬の軽い笑い声が聞こえ、低く囁いた。 「……奏汰、お前ほんとに落ち着きがねぇな」  有馬は一瞬で心臓が潰れそうになった。慌てて目を開けるが、何も言えず、相手をじっと睨むだけだった。  一ノ瀬はただ寝返りを打ち、背を向けてまるで夢話のように言った。 「早く寝ろよ、えろガキ」  有馬は慌てて枕に顔を埋め、顔が真っ赤に燃えた。 「誰がえろガキだよ!お前こそ……!さっきも……」  声は小さく布団に吸い込まれ、自分でもよく聞き取れなかった。  一ノ瀬が有馬の布団をめくり、片手で頭を支えながら顔を覗き込んで言った。 「さっきはどうしたんだ?」  有馬は唇を固く結んでは開き、ようやく一言を絞り出した。 「……お前、俺のことちゃんと責任取れよ!」  一ノ瀬は有馬の顎をくすぐりながら言った。 「もちろん責任取るさ、こんなに可愛いお前を誰にも渡したくないんだからな」  有馬は一ノ瀬の手を掴み、顔を背けて少し怒ったように言った。 「自分が何言ってるか分かってるのか?」  一ノ瀬は手を布団の中に入れて有馬の股間をくすぐりながら、からかうように言った。 「わかってるに決まってるだろ」  有馬は慌てて手首を掴み、「触るな!」と叫んだ。 「敏感になってきたのか?」  一ノ瀬は顔を近づけ、頬にキスをした。  有馬は避けようとしたが、下半身の疼きと痛みで、思わず「はぁっ」と声が漏れた。  一ノ瀬は心配そうに有馬の頬を撫で、 「ごめん、抑えきれなかった」 「……お前も知ってるんだな……」  有馬は尻を揉みながら、顔を真っ赤にして呟いた。自分が甘えている気がして、思わず自分を叩きたくなった。  一ノ瀬は急に布団をめくり、有馬の上に乗った。  じっと有馬を見つめ、その視線に有馬はドキドキした。押し返そうとしても力が出なかった。 「……何するんだ?」 「ちょっとだけキスするだけだ」  そう言って低く唇を重ねた。  有馬は避けられず、鼻先が一ノ瀬の鼻に触れ、唇は優しく噛まれた。  まるで猫が胸元を舐めるように、甘くてとろける感覚だった。  認めざるを得なかった、自分はこの人のことが少し好きなのだと。  一ノ瀬はキスを終え、布団に戻ろうとしたが、有馬に手を掴まれた。  枕に顔を埋め、赤く潤んだ目で一ノ瀬を見つめ、言葉を探しているようだった。その様子に心が甘くなった。  一ノ瀬は鼻先を有馬の鼻に寄せて尋ねた。 「キスしたくなったのか?」  有馬は無言で両手を一ノ瀬の肩にかけ、目を細めてそっと唇を重ねた。ぎこちなくも舌を慎重に唇の間に入れ、絡め合おうとした。  一ノ瀬は有馬の足の間に割り込み、優しく応えた。鼻と鼻が触れ合い、深夜の小さな部屋に甘いキスの音が響いた。  とても甘美だった。  堪えきれず、手がまた有馬の胸の乳首に触れ、指で挟み揉みしだく。  有馬は小さく震え、まるで一ノ瀬が言った通り、自分の体は弱点だらけだと思った。  悔しくて大胆に舌を伸ばし、もっと深く入り込もうとした。  しかし、まだ足りないと言わんばかりに、一ノ瀬は有馬を押しのけた。唇はまだ濡れて艶やかで、一ノ瀬はもう一度啄んで言った。 「今日はここまで。続きはまた明日だ」 「そ、そんなの続けたいなんて思ってない!」  有馬は顔を背け、子供のように駄々をこねた。一ノ瀬は彼をなだめ、抱き寄せて横たえ、背中を優しく撫でた。  一ノ瀬は天井の月明かりと影を見上げながら言った。 「結婚すると言ったのはお前の方だったろ、奏汰」 「……え?」有馬は驚いて一ノ瀬の顎の輪郭を見つめ、言葉を失った。 「お前は忘れても、俺はまだ覚えてる」  一ノ瀬の声は少し寂しげだったが、手は有馬を胸元に引き寄せ続けた。 ……覚えていなくてもいいさ。  有馬は心の中でつぶやき、一ノ瀬の顎に軽く唇を寄せた。 ――これからも、同じなんだから。

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