1 / 1

君がくれた、一瞬の奇跡

「手品はお好きですか?」  唐突な問いかけに、思わずきょとんとした顔を浮かべた。  その反応がおかしかったのか、白と黒で彩られた仮面の下から、くすりと笑い声が漏れた。  ほんの数分前まで、僕は人波に紛れて、ただ漫然と歩いていた。  夕暮れ時。疲れ果てたサラリーマンたちが背を丸め、ぞろぞろと駅へ向かうなか、僕もネクタイを緩めて、大きく息を吐いていた。  月曜日はいつだって重たい。今日という一日はことさらに長く感じた。  早く帰って、何もせずに過ごしたい。  そんな思いで足早に歩いていた僕に、声をかけてきたのが彼だった。  黒いマジックハットを被り、白黒の仮面の奥の目が笑っている。黒のスーツに、内側が真紅に染まったマント。  どこからどう見ても、一癖ある手品師といった風貌だった。 「いや……あの……」  本来ならきっぱりと断るべきだったのだろう。  だが、昔から頼まれると断れないという、悪い意味での優しさが顔を出した。 「ほんの三分ほど、お時間をください」  手品師は、そう言って僕の手を取った。 「手を開いて、ぎゅっと握ってください」  手のひらには、何もない。  言われたとおり、ぎゅっと力を込めると、不思議な感覚がした。  まるで、手の中に熱が膨らんでいくような気がする。 「開いて」  言われるがまま手を開くと、パッと白い鳩が飛び出した。  思わず、僕は口をあんぐりと開けてしまった。 「最後にもう一ついい?」  口を開けたまま頷くと、手品師はゆっくりと仮面に手を当てた。 「あっ……」  僕の唇が震える。  仮面の下に現れたのは、紛れもなく、僕の大好きだった幼なじみだった。  幼い頃は同じぐらいの身長だったはずが、今はその倍くらい伸びている。  見上げて、僕は彼の美しさに思わず息を呑んだ。  長い睫毛に縁どられた切れ長の目元には、どこか寂しげな光が宿っている。  透き通るような白い肌に、すっと通った鼻筋。  声をかければ消えてしまいそうな儚さが、その顔立ちに漂っていた。  美しいという言葉では足りなかった。    ドクンドクンと高鳴るこの鼓動の意味に、昔の僕は気づけなかった。  あの頃は、ただ一緒にいるだけで楽しくて、それ以上の気持ちだなんて思わなかった。  でも今なら、はっきりわかる。  僕は、彼に恋をしていたんだ。  たしか彼は、十代の頃に手品の修行のため、海外へ渡ったと聞いていた。  それきり連絡も取れず、もう二度と会えないと思っていた。  なのに今、目の前にいる。  こんな形で再会できるなんて、それは奇跡としか言いようがなかった。  名前を呼ぼうとしたその瞬間、彼は人差し指を僕の唇にそっと当てた。 「これが最後の手品。さぁ、目を瞑って。俺が3秒数えたら目を開けて」  目を瞑った瞬間、突然唇にふわりとぬくもりが触れた。  冬の街に差し込んだ陽だまりのように、そこだけがほんのりと熱を帯びていく。  まるで、春の気配がこっそり忍び込んできたような、穏やかな温度だった。  この唇からも、手品が始まる気がする。  不思議な予感に背中を押されて、そっと瞼を持ち上げた。  目の前にあったのは、彼の顔だった。  距離が近すぎて、呼吸するのも忘れそうになる。  まさか、と思ったときには、すでに彼は静かに身体を離していた。 「まだ数えてないのに、目を開けちゃダメだよ」  僕は顔を真っ赤にして俯いた。  何か言おうとしたのに、言葉がうまく出てこなかった。  胸の奥で鳴り響く心臓の音が、耳元まで届いてくる。 「さ……最後のは……手品じゃない……」  震える声で言うと、彼は「手品だよ」とサラりと答えた。 「でも、今のは……」  その言葉の途中、冷たい風が頬を通り抜けた。  慌てて見上げると、そこには誰の姿もなかった。  周囲を見渡しても、それらしき人影はどこにもない。  いや、むしろ、ほんの今、彼と会っていたことすら夢だったのではないか。  そんな気がして、僕は唇に残る熱を抱いたまま、帰途についた。  スーツの袖に手をかけたとき、不意に「くしゃ」と紙の擦れる音がした。  眉をひそめ、ポケットに指を差し入れる。  そこには、折りたたまれた一枚の白い紙があった。  心臓の鼓動が、ほんの少しだけ速くなる。  指先を震わせながら、その紙をゆっくりと開いていった。  そこには、たった一行の文字。  ──ずっと好きだったよ  嬉しくて、なんだか悔しくて、気づけば視界が揺れていた。 「……そんなの、ずるいよ……」  読み終えた瞬間、足元から力が抜けていく。  僕はその場に膝をつき、ただ、手紙を胸に抱きしめた。  次に会えたら、今度こそ、ちゃんと伝えよう。  僕の本当の気持ち。  そう決めたけれど、あれ以来、彼は現れなかった。  数日後、ふとした拍子に彼の名前を検索した。  きっと、どこかで今も手品を続けている。  海外のステージに立って、たくさんの客を魅了しているかもしれない。  そんな光景を思い浮かべながら、僕は検索欄に彼の名前を打ち込んだ。  見出しには、英語で書かれたニュースの断片。 「Traffic Accident」──交通事故。  僕は、心の奥がざわつくのを感じながら、震える指で記事の中身を確認した。  そこに、彼の名前があった。  まさか、と思って、何度も瞬きをした。画面を凝視しても、視線を逸らしても、やはりそれは彼の名前だった。  否定したい気持ちと、信じてしまう怖さが、胸の奥でせめぎ合う。  喉の奥がきゅっと詰まり、指先の感覚まで遠のいていく。  ドクンドクンと心臓が響く中、僕は記事に目を滑らせていった。  そして浮かび上がってきたのは、一行の事実だった。  あの日。僕の前で手品を見せてくれた、そのちょうど一年前。  彼は、命を落としていた。  涙が滲んでも、画面の文字はにじまなかった。  何度見ても、名前がそこにあった。  あの時の彼は……もう、どこにもいない。 「目を瞑って」  彼の声が聞こえた気がして、ゆっくりと目を瞑った。    まぶたの裏で彼の笑顔が浮かぶ。  僕の前で、ずっとトランプやコインを消した時の得意気な顔。 「目を瞑って、俺が3秒数えたら目を開けるんだよ」  彼の声が、ふと耳の奥で蘇る。  あのときも、僕はこうして、目を閉じたんだ。 「1、2……3」  目を開けてもそこには何もない。  ふと、ポケットに手を入れた。  くしゃと鳴った白い紙。そこには、たった一行だけ。  ──ずっと好きだったよ  ……そんなの、ずるいよ。  なんで今さら、そんなことを言うんだ。  言えなかった想いが、胸の奥で渦巻く。  僕だって、ずっと君に、そう言いたかったのに。  好きだって、言いたかったのに。  君の言葉を、笑顔を、手品を、全部……今さら置き土産みたいに渡されても、僕は……。  遅いよ。  遅いんだよ……。  拳を握ると、手の甲にぽたりと涙が落ちた。  温もりを確かめるように、ポケットの奥にある、あの白い手紙をそっと撫でる。  彼はもう、僕の手の届かないところにいる。  でも、いつか僕が辿り着いたら、きっと迎えに来てくれる。  黒いマジックハットを被って、ふいに笑って、言うんだ。 「今から瞬間移動するよ。さぁ目を瞑って」  そして、ふたりで数えるんだ。 「1、2……3」  そのときが来たら、僕はもう、迷わずに伝える。  いつかの続きを始めるために。二人で、もう一度。  また会えると信じて、僕は今でも、あの場所で、彼の声を待ち続けている。

ともだちにシェアしよう!