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君がくれた、一瞬の奇跡
「手品はお好きですか?」
唐突な問いかけに、思わずきょとんとした顔を浮かべた。
その反応がおかしかったのか、白と黒で彩られた仮面の下から、くすりと笑い声が漏れた。
ほんの数分前まで、僕は人波に紛れて、ただ漫然と歩いていた。
夕暮れ時。疲れ果てたサラリーマンたちが背を丸め、ぞろぞろと駅へ向かうなか、僕もネクタイを緩めて、大きく息を吐いていた。
月曜日はいつだって重たい。今日という一日はことさらに長く感じた。
早く帰って、何もせずに過ごしたい。
そんな思いで足早に歩いていた僕に、声をかけてきたのが彼だった。
黒いマジックハットを被り、白黒の仮面の奥の目が笑っている。黒のスーツに、内側が真紅に染まったマント。
どこからどう見ても、一癖ある手品師といった風貌だった。
「いや……あの……」
本来ならきっぱりと断るべきだったのだろう。
だが、昔から頼まれると断れないという、悪い意味での優しさが顔を出した。
「ほんの三分ほど、お時間をください」
手品師は、そう言って僕の手を取った。
「手を開いて、ぎゅっと握ってください」
手のひらには、何もない。
言われたとおり、ぎゅっと力を込めると、不思議な感覚がした。
まるで、手の中に熱が膨らんでいくような気がする。
「開いて」
言われるがまま手を開くと、パッと白い鳩が飛び出した。
思わず、僕は口をあんぐりと開けてしまった。
「最後にもう一ついい?」
口を開けたまま頷くと、手品師はゆっくりと仮面に手を当てた。
「あっ……」
僕の唇が震える。
仮面の下に現れたのは、紛れもなく、僕の大好きだった幼なじみだった。
幼い頃は同じぐらいの身長だったはずが、今はその倍くらい伸びている。
見上げて、僕は彼の美しさに思わず息を呑んだ。
長い睫毛に縁どられた切れ長の目元には、どこか寂しげな光が宿っている。
透き通るような白い肌に、すっと通った鼻筋。
声をかければ消えてしまいそうな儚さが、その顔立ちに漂っていた。
美しいという言葉では足りなかった。
ドクンドクンと高鳴るこの鼓動の意味に、昔の僕は気づけなかった。
あの頃は、ただ一緒にいるだけで楽しくて、それ以上の気持ちだなんて思わなかった。
でも今なら、はっきりわかる。
僕は、彼に恋をしていたんだ。
たしか彼は、十代の頃に手品の修行のため、海外へ渡ったと聞いていた。
それきり連絡も取れず、もう二度と会えないと思っていた。
なのに今、目の前にいる。
こんな形で再会できるなんて、それは奇跡としか言いようがなかった。
名前を呼ぼうとしたその瞬間、彼は人差し指を僕の唇にそっと当てた。
「これが最後の手品。さぁ、目を瞑って。俺が3秒数えたら目を開けて」
目を瞑った瞬間、突然唇にふわりとぬくもりが触れた。
冬の街に差し込んだ陽だまりのように、そこだけがほんのりと熱を帯びていく。
まるで、春の気配がこっそり忍び込んできたような、穏やかな温度だった。
この唇からも、手品が始まる気がする。
不思議な予感に背中を押されて、そっと瞼を持ち上げた。
目の前にあったのは、彼の顔だった。
距離が近すぎて、呼吸するのも忘れそうになる。
まさか、と思ったときには、すでに彼は静かに身体を離していた。
「まだ数えてないのに、目を開けちゃダメだよ」
僕は顔を真っ赤にして俯いた。
何か言おうとしたのに、言葉がうまく出てこなかった。
胸の奥で鳴り響く心臓の音が、耳元まで届いてくる。
「さ……最後のは……手品じゃない……」
震える声で言うと、彼は「手品だよ」とサラりと答えた。
「でも、今のは……」
その言葉の途中、冷たい風が頬を通り抜けた。
慌てて見上げると、そこには誰の姿もなかった。
周囲を見渡しても、それらしき人影はどこにもない。
いや、むしろ、ほんの今、彼と会っていたことすら夢だったのではないか。
そんな気がして、僕は唇に残る熱を抱いたまま、帰途についた。
スーツの袖に手をかけたとき、不意に「くしゃ」と紙の擦れる音がした。
眉をひそめ、ポケットに指を差し入れる。
そこには、折りたたまれた一枚の白い紙があった。
心臓の鼓動が、ほんの少しだけ速くなる。
指先を震わせながら、その紙をゆっくりと開いていった。
そこには、たった一行の文字。
──ずっと好きだったよ
嬉しくて、なんだか悔しくて、気づけば視界が揺れていた。
「……そんなの、ずるいよ……」
読み終えた瞬間、足元から力が抜けていく。
僕はその場に膝をつき、ただ、手紙を胸に抱きしめた。
次に会えたら、今度こそ、ちゃんと伝えよう。
僕の本当の気持ち。
そう決めたけれど、あれ以来、彼は現れなかった。
数日後、ふとした拍子に彼の名前を検索した。
きっと、どこかで今も手品を続けている。
海外のステージに立って、たくさんの客を魅了しているかもしれない。
そんな光景を思い浮かべながら、僕は検索欄に彼の名前を打ち込んだ。
見出しには、英語で書かれたニュースの断片。
「Traffic Accident」──交通事故。
僕は、心の奥がざわつくのを感じながら、震える指で記事の中身を確認した。
そこに、彼の名前があった。
まさか、と思って、何度も瞬きをした。画面を凝視しても、視線を逸らしても、やはりそれは彼の名前だった。
否定したい気持ちと、信じてしまう怖さが、胸の奥でせめぎ合う。
喉の奥がきゅっと詰まり、指先の感覚まで遠のいていく。
ドクンドクンと心臓が響く中、僕は記事に目を滑らせていった。
そして浮かび上がってきたのは、一行の事実だった。
あの日。僕の前で手品を見せてくれた、そのちょうど一年前。
彼は、命を落としていた。
涙が滲んでも、画面の文字はにじまなかった。
何度見ても、名前がそこにあった。
あの時の彼は……もう、どこにもいない。
「目を瞑って」
彼の声が聞こえた気がして、ゆっくりと目を瞑った。
まぶたの裏で彼の笑顔が浮かぶ。
僕の前で、ずっとトランプやコインを消した時の得意気な顔。
「目を瞑って、俺が3秒数えたら目を開けるんだよ」
彼の声が、ふと耳の奥で蘇る。
あのときも、僕はこうして、目を閉じたんだ。
「1、2……3」
目を開けてもそこには何もない。
ふと、ポケットに手を入れた。
くしゃと鳴った白い紙。そこには、たった一行だけ。
──ずっと好きだったよ
……そんなの、ずるいよ。
なんで今さら、そんなことを言うんだ。
言えなかった想いが、胸の奥で渦巻く。
僕だって、ずっと君に、そう言いたかったのに。
好きだって、言いたかったのに。
君の言葉を、笑顔を、手品を、全部……今さら置き土産みたいに渡されても、僕は……。
遅いよ。
遅いんだよ……。
拳を握ると、手の甲にぽたりと涙が落ちた。
温もりを確かめるように、ポケットの奥にある、あの白い手紙をそっと撫でる。
彼はもう、僕の手の届かないところにいる。
でも、いつか僕が辿り着いたら、きっと迎えに来てくれる。
黒いマジックハットを被って、ふいに笑って、言うんだ。
「今から瞬間移動するよ。さぁ目を瞑って」
そして、ふたりで数えるんだ。
「1、2……3」
そのときが来たら、僕はもう、迷わずに伝える。
いつかの続きを始めるために。二人で、もう一度。
また会えると信じて、僕は今でも、あの場所で、彼の声を待ち続けている。
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