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プロローグ

 その廊下は薄暗く、見通しが悪かった。  光といえば、先を歩く男の持つ手燭の明かりが僅かに足元を照らすのみ。  よすがにするには心許ない。  この先の見えなさは、まるで自らの人生のようだとほんの少しだけ卑屈な気持ちになる。  これからこの国の王たる魔王陛下にお目通りだというのに不安が拭えない。  足の運びも自然と重くなるが、目の前の男はこちらをちらりと気にする素振りもない。  前を見据え、その長い足は淡々と規則正しく一定の速度で動く。  その姿はまるで機械仕掛けのからくり人形(オートマタ)のようだった。  この冷徹そうな男のことだ。  うっかり気を抜けば、この暗く薄寒い廊下に置いていかれてしまうだろう。  そうなっては迷子になることはほぼ間違いない。  俺は彼を見失わないように必死になって後を付いて行く。  男はとある扉の前で止まり、ノックをした。  特徴のない扉だ。  この城同様、堅牢で実用性のみを追求されたような面白みのない、空間を区切るだけに存在するようなものだった。  この部屋の主――いや、この城の主もさぞかし面白みのない男なのだろう。  ふと窓の方に目をやる。  扉の向こうに話し掛けている男の後ろには、柔らかなホワイトブロンドの髪に金の装飾を纏ったペリドットの瞳を持つ美少女が満面の笑みを貼り付けていた。  俺はよく見慣れた自分の顔をじっと見つめた。  どこからどう見ても傾国の踊り子、絶世の美姫……と言いたいところだが、実のところ、俺は男だ。  甘やかな匂いのする肌に、すらりとした手足に薄い肩と細い腰。  俺は十年前――十四歳のときからずっと成長出来ずにいた。  だから、二次性徴を迎えることの無かった体は、華奢で柔らかな身体付きのままだった。  そのお陰でこうして女の振りをしてもなんら違和感のない見た目をしている。  そんなか細く儚げな見た目に騙されるものも少なくはない。  しかし、俺は復讐に燃える暗殺者なのだ。  狙うのはこの国の王である魔王陛下。  いつかチャンスが来る。  そう思ってずっと復讐心を隠して生きてきた。  そして、それが叶うときがやって来た。  数多くの試練に打ち勝ち、見事、王宮の踊り子となることが出来たのだ。  魔王を殺すと決めてから苦節十年。長かった。  踊り子として旅の一座に迎え入れて貰えたのが六年以上前の話だ。  それからは大きくならない乳を寄せ、毎日、踊りの練習をした。漸く掴んだチャンスだ。  しかし、俺は王宮の踊り子になるためのオーディションで大きな嘘を吐いていた。  実は俺、スリーサイズの規定を満たしていないのだ。  当たり前の話だが、乳のサイズが圧倒的に足りていない。  仕方がないので、胸にパットをしこたま入れて偽乳を作り、誤魔化してやった。  胸の大きさに貴賎はないが、俺も男だ。  大きな胸にはロマンを感じる。  自分が持っていないものには夢が詰まっていて欲しい。  しかし、この体型で89センチは盛りすぎた。明らかに揺れ方が本物と違う。  魔王がおっぱい星人だったら即座にバレるだろう。  バレたらきっとクビ。  いや、下手したら処刑される。  かくなる上は、バレる前にさっさと魔王を殺ってしまおう。  俺にとっては親の仇のクソ野郎だが、世間の噂では魔王はとても優秀な王らしい。……ということは、きっとすぐにこの乳が偽乳であることに気づくに違いない。  もうあれだ。魔王の目の前に立った瞬間にぶち殺そう。  会ったら速攻、殺すのが世界のためなのだ。 「入れ」  やり取りを終えたらしく、案内の男は俺に向かってぶっきらぼうに言った。 「はーい、ありがとさん」  俺は案内の男にひらひらと手を振って、部屋に入った。    部屋の中で最初に目を引いたのは大きなベッドだった。  何故ここにベッドがあるんだ。  俺は踊り子だ。宴会の席などに呼ばれるのが普通ではないのか。  でも、ここにはベッドがある。つまり、寝室だ。  俺は瞬時に悟った。  これは夜伽の相手になれということなのだ。  なるほど。  流石は魔王、弱い立場の者にいきなりそんなことを言うのか。鬼畜野郎め。  俺は目の前の男たちを睨む。  夢の中で何度も見たことのある憎らしくも美しい魔王の顔がそこにはあった。  魔王は涼しい顔をして椅子に座り、こちらを一瞥する。  その少し後ろには赤髪で眼鏡をかけた男が控えていた。  二人の男を目の前にして俺は少しだけ困惑した。  夜伽の相手が魔王だとして、この赤髪の男はなんだ。  魔王の愛人?  まさか三人でこれからいやらしいことをしようというのではなかろうか。  いや、まさかそんなわけは無い。  夜伽には立会人でも必要なのだろうか。  生憎、城だとか王宮だとか、貴族の暮らしに明るくないので俺には普通が分からない。  分からないがこれは何だかおかしいんじゃないだろうか。  訳も分からず、俺は魔王の前に跪いた。  とりあえずは獲物である魔王の前なわけだ。  さっさと殺ってしまいたいが、じっと我慢して魔王が話すのを待つ。 「名は何と申す?」  腹に響くようなずっしりとした重みのある甘い声。  想像していたよりもずっと色気のある声に腰が砕けそうになる。  もしかしたら、魅了か発情の魔法でも使っているのかもしれない。  これから品のない淫らで卑猥な行為をするためによくもまあおぞましい魔法を使うものだ。 「ルカと申します」  俺は頭を下げながら、丁寧な言葉遣いを心掛けて答える。  すぐに正体がバレて何も出来ずにすぐに捕まるかもしれない。何事も用心が肝心だ。  俺はただ魔王の様子を窺いながら、暗殺のチャンスを待った。 「ルカ、ルカ……」  魔王は咀嚼するように俺の名前を繰り返す。  繰り返しても俺の名前は変わらない。何度呼んでも俺はルカだ。  何が気になったのか分からないが魔王はそのまま少し黙り込んだ。 「顔を上げてくれ」  魔王の言葉に素直に従い、顔を上げる。  漸く魔王とのご対面だ。  一瞬、憎しみを忘れるくらい間近で見る魔王の顔は美しかった。  全ての夜を詰め込んで凝縮したような黒い髪は微動だにせず、アメジストに金粉を撒いたような瞳と整いきって澄ましたツラをこちらに向けている。  そこには感情が一切ないように見えた。  いや、僅かに今、目が見開かれたような気がする。 「嗚呼、お前は……会ったことがあるな」  魔王は問い質すようにはっきりとそう言った。  一瞬のことだった。俺の中の何かが弾けた。  沸きあがる怒りに頭が煮えたぎりそうになるのを感じる。  ダメだ。バレてしまった。  今しかない。  とっくの昔にしていた覚悟を確認するように腹を決める。  そして、隠していたナイフを取り出す。 「魔王! 覚悟!」  叫び声と同時に俺は素早く跳んだ。真っ直ぐ、力強く。  漸く、積年の恨みが晴らされる。  歓喜に震える胸を抑えながら、ナイフを振りかざした。  長い長い跳躍だった。地面が、魔王が、遠い。  やっと、やっと果たされる! 父様、母様、見ていてください!  そう胸の内に叫ぶ。  不意に魔王と目が合う。  そして、魔王はこちらに向かって悠々と微笑んだ。  それはあまりにも美しく、完璧なものだった。  あのときと、同じ表情なのに、何処かが違う。  いや、違わない。違うはずがない。  だって、魔王が、この顔の主が、俺の母の首を掻き抱いていたのだから。  魔王が俺に手を伸ばす。大きく広げられた腕。  すべてを受け入れるような仕草の意味が理解できなかった。  ナイフの切っ先は確実に魔王の胸を捉えている。  このままの勢いでいけば殺せるはずなのに、なんだかとてつもなくまずいことをしでかしてしまったような心細さと不安が襲う。  俺は堪らず逃げ出したくなった。  しかし、俺の体は空中にある。  魔法を使えれば、軌道を修正できたかもしれないが、生憎、魔法は使えない。俺の魔法は魔王に奪われたのだから。  そのまま、俺は魔王の胸元へ突っ込んでいき、その腕の中に収まった。  ◇  あの日――母様と父様が亡くなった日のことは今でも忘れられない。  あれは、よく晴れた日のことだった。  何故、あそこに行こうとしたのかは思い出せない。  覚えているのは、あのとき、何故だか無性に母様に会いたいと思ったことだけだ。  俺は母様の部屋のドアノブに手をかけた。  パチンと弾ける音とともに静電気のようなものが走る。  ぞわり。なんとも言い難い嫌な感覚と共に鳥肌が立った。 「母様」  今まで味わったことの無い感覚に胸騒ぎがして、俺は愛する人を呼んだ。  返事がない。  騒めく胸を押し殺し、恐る恐る扉を開く。  扉の開く音ともに目の前が真っ白になった。比喩表現ではない。無数の羽根が空中に舞い、視界は真っ白になっていたのだ。  そこに赤い染みが絨毯やベッド、天井に至る所についていた。  柔らかな色合いの壁紙も、母様と座ったソファも、甘い匂いのする鏡台も全部知らないものみたい。  見慣れたはずの部屋は赤と白で覆われて知らない世界になっていた。 「母様?」  掠れた声が漏れる。  その部屋からは死の匂いがした。鉄錆のような、それでいて恋い焦がれるような甘い匂い。  不快なはずなのに魔族の本能が刺激される匂いに頭がくらくらする。 「父様?」  もう一度、試しに今度はもう一人の愛する人を呼ぶ。  しかし、誰の声も返ってこない。  ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れると、他にも色が見えてきた。  白金と鮮やかな空色、舞い散る羽根の白、赤の染み。そして、黒。色だけはやけにはっきりしていた。  ごろり。  黒いそれが何かを落とした。  転がった何かと目が合う。  俺は息を飲んで目を見開いた。唇が震える。 「母様?」  震えた声に対する返事はやはりない。  俺と同じ色をしているはずの緑の瞳はどろりと濁り、何も映していなかった。  黒いものがくるりとこっちを向く。  それがなんなのか、十四歳の俺でも、十分すぎるほど分かっていた。  驚きよりも恐怖が身体を縛る。  怖い。  怖い。  怖い。  こわい。  目の縁からじんわりと視界が滲み、じわじわと半透明の膜で覆われる。  曖昧な像と色だけの世界に甲高い音が聞こえた。 「なぜ……なぜ……なぜ」  うわ言のように唇から漏れたのは陳腐な言葉だった。もっと発するべき言葉はたくさんあったのに。  半透明な膜は弾け、視界はクリアになった。涙がポロリと零れ、頬を伝う。  嗚呼、そのままよく見えない視界のままだったら良かったのだ。そうすれば、あんなもの見ないで済んだのに。  目の前の黒いものは、完璧に整った顔を歪めて微笑む。心臓が凍るほど美しい顔だった。  その顔がじりじりと近寄る。  動けない。  がっしりと包み込むようにそれの両手が俺の顔を掴む。  それは大きく目を瞠り、瞬き一つせず俺を見つめた。  その瞳は愉悦を浮かべる。月並みな言葉で言えば、痛ぶり方を考えているような捕食者の瞳。  じわりとアメジストに金粉を撒いた、夜明けの瞳に俺が映り込む。  自分の顔は恐怖で引き攣った顔をしていた。  背すじが凍ったように冷たく、固く、痛む。  母様と父様が何をしたと言うんだ。  こんなことってない。  だって、俺たちは貴方に忠誠を誓って生きていたというのに、なんで!  叫びたい言葉はいくつもあったのに、唇が震え、歯の根も合わず、ただ呼吸音が漏れる。 「あ、ああ……ま、おうさま……」  漸く、震える唇から漏れたのはその五文字だけだった。 「いい子だね」  そして、世界は暗転する。  真っ暗だ。真っ暗で何も見えない。  ただ、身体が熱く、バラバラに引き裂かれるような痛みが幾度も襲う。  大きな音が響く。耳が痛い。  誰かが叫んでいるようで、自分が叫んでいるような酷く曖昧な中、俺は藻掻くように手を伸ばす。  しかし、その手は握られることはなかった。  きっと誰にも届かない。救われない。助からない。  ただ、ひたすら母様の名を、父様の名を、友の名を、何度も頭に浮かべては痛みに耐えた。  やがて音も感覚も消え、そこには真っ暗な世界しかなくなる。  何もない世界。  だったら、全て消えてしまえばいい。  どうか、全てをなかったことにして欲しい。  これは夢だ。悪い夢。  叫び声を上げ、目を開ければ、きっと母様と父様が飛んできてくれる。  そして、俺を抱きしめて、大きくなったのに甘えたさんだと呟いて安心させてくれる。  その後はいつもの森に行ってあの子に悪夢を見たと話すんだ。  あの子はきっといつものように俺の周りを飛び回り、優しい光で慰めてくれるはずだ。  だから、早く目覚めてくれ。  俺は暗闇の中で祈るようにそう願った。

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