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第1話
突然だが、アイーザは苺が嫌いである。珍しいとか、それくらい直ぐ克服できるだろうとか思う者もいるかもしれないが、アイーザのそれは尋常ではない。
昔の話をしよう。それはまだロイドが高校1年生、アイーザが高校3年生だったとある夏の日のこと。授業の合間の休憩時間にたまたまロイドはトイレに行った。用を足してトイレを後にしようとドアに手をかけようとした瞬間、別の誰かが勢い良く扉を開けて入って来た。
「なっ!?」
「退けっ!」
入って来たのはアイーザだった。顔は青白く酷く具合が悪そうで、かなり焦っている様子だった。そのままロイドを無理矢理押しのけ個室に駆け込むアイーザ。ドアを閉めることもせずその場に崩れ落ち、便器に顔を突っ込んで酷く嘔吐いている。
「ちょっ!?大丈夫ですか!?」
「あの女…殺す…ッ!…ゲホッ!…う"おぇぇ“…っ!」
普段の敬語からは考えられないような言葉遣い。知らぬ者が聞いたら驚くだろうが、ロイドはアイーザがそんな品行方正な人間でないことも、普段の彼は中々に口が悪いことも知っているので、ああ、珍しいなと思う程度だった。アイーザはそんな姿を誰彼構わず見せるような性格ではない。
今の彼は普段であれば絶対に誰かに見せたりなどしないであろう姿を、ロイドが居るにも関わらず晒しているくらいに余裕が無いらしい。そんなアイーザを放っておくことなどできず、ロイドはアイーザの傍らで背中を擦っていた。
時折咳き込みながらもアイーザは便器から顔を上げることはない。胃の中身を全てぶち撒け、更に胃液まで吐ききっても、アイーザはまだ嘔吐し続けていた。
嘔吐くアイーザの声と、アイーザが吐いたものが便器の中に落ちる音と、外から聞こえる蝉の声だけがトイレの中に響く。
夏の校内のトイレなんて、夏の暑さと湿度も相まってサウナ状態だし、それ故普段以上に臭いも酷いというのに、アイーザが吐いた吐瀉物の酸っぱいような饐えた臭いが混じり、端的に言っても地獄のような状態になっていても、ロイドは嫌な顔一つすることなく、ずっとアイーザに寄り添っていた。
「アイーザ、もう出ないんでしょう?無理して出そうとしても無駄に体力を使うだけですよ…」
アイーザからの返事は無い。そのかわりにう"お"え"ぇ"ぇ"…、とまだ無理矢理何かを吐き出そうとする。
「アイーザ…」
ロイドは何とかアイーザを便器から引き剥がす。ぐったりと力無くアイーザはロイドにされるがままになっている。アイーザは一度大きく咳き込み、まだ何かを吐こうとする素振りを見せる。
「アイーザ、一度口を濯ぎましょう?気持ち悪くないですか?」
ロイドの声掛けにやはり返事は無い。それでもこのままにしてはおけないとロイドはアイーザを立たせ、引き摺るように外へ連れ出した。
外の水道でロイドはハンカチを濡らし、吐瀉物やら唾液やらでべったりと汚れているアイーザの口周りを拭いてやる。制服のYシャツにも飛び散っていて、そこも拭いてやるものの、完全に染みとなって痕が残っていた。
「アイーザ?口を濯げますか?気持ち悪いでしょう?喉とかイガイガしてませんか?」
やはりぐったりとアイーザは崩れ落ちるように座ったままで、返事もない。仕方ないとロイドは水道の水を口に含むと、アイーザの唇に口付け、含んだ水をアイーザの口内へと移す。
アイーザの口内へと移った水が時折ロイドの口へと逆流する。苦い…。吐瀉物特有の臭いが鼻につく。けれど、ロイドはやめようとはしなかった。
水はそのままアイーザの口からダラダラと流れ落ち、制服を汚した。けれど、吐瀉物で気持ち悪いままよりは…と、ロイドはそれを繰り返した。
アイーザの制服だけでなく、ロイドの制服までダメになったが、そんなことは些細なことで、別にどうでもよかった。
4回ほど繰り返したところで、アイーザがロイドの口から逃れるように頭を振り、ゲホッ!と大きく咳き込み水を吐いた。そのまま身体を震わせ咳き込みながらアイーザは完全に地面に崩れ落ちそうになる。
既のところでロイドが何とかアイーザを抱きとめ、咳き込んでいるのか吐きたいのかわからないアイーザの背中をロイドはただ擦っていた。
その後、なんとか落ち着いてきたらしいアイーザはハァ、ハァっ…、と荒い呼吸をロイドの腕の中で繰り返した。既に授業ははじまっていて、周囲に人影は無い。こんな姿のアイーザを誰にも見られなくてよかったと、ロイドはひっそり安堵していた。
「ロイド…」
胃液で焼けたのだろうガサガサの酷く掠れた声で、アイーザはロイドの名を読んだ。
「はい…」
アイーザはまだぐったりとしていて、吐いた疲れと暑さのせいか身体中が汗ばんでいる。ロイドはそんなアイーザをただ支え、一言返事だけを返した。
「…帰る」
「はい」
アイーザの言葉にロイドは小さく頷いた。相変わらずアイーザの声はガサついていて聞き取りにくく、力もないので、普段の彼からは想像できないほどにか細かったが、ロイドの耳にははっきりと聞こえていた。
その後、偶然通りかかった教師に見つかり、アイーザの酷い状態を見られた。その際にロイドが感じたのは明確な怒りと独占欲だった。弱ったアイーザの姿は誰にも知られたくなかったのに…。その時、ロイドは人間になってはじめて殺意を抱いた。
ロイドもアイーザ同様酷い格好だったのもあり、2人でタクシーで帰らされた。タクシーの中でもアイーザはぐったりと背凭れに凭れ掛かったまま、「帰る」と喋って以降、自宅に着くまで一言も喋ることはなかった。
ロイドもただ黙ってアイーザを見ていた。アイーザの汗ばんだ頬に彼自身の長い前髪が張り付いている。それをロイドは指でさっと払い除けると、そのまま頬にそっと触れた。
タクシーに揺られて気持ち悪いのか、アイーザはたまに小さくうめき声をあげる。また段々と彼の顔が青褪めていくのをロイドは見ていることしかできなかった。
タクシーがアイーザの自宅に着くと、アイーザは転げるように飛び出して自宅の中へ消えた。ロイドも慌ててお金を渡し、釣り銭も貰わぬままアイーザを追いかける。
玄関扉は開けたまま。中の玄関には彼の鞄と脱いだ靴が散乱している。余程焦っていたのだろう、廊下の奥からはアイーザが嘔吐く声が聞こえた。
ロイドは玄関扉の鍵を閉め、自身とアイーザの靴を揃え、自分の鞄を携えたままアイーザの鞄を回収して音の方へと向かった。
アイーザはやはり自宅の便器に顔を突っ込んで胃の中が空になっても嘔吐いていた。毒でも盛られたかのような惨状。あの女…とアイーザは言っていた。何となく察しはついていたが、あえてロイドはアイーザの傍らに座り込むと、アイーザに尋ねた。
「何がそんなに気持ち悪いんですか?」
ゲホッ…!おぇっ…ッ!と嘔吐いていたアイーザが、便器から一度顔を上げると、口の中に溜まった唾液が気持ち悪いのか、何度もそれを吐き出している。
なんとかそれも収まると、ポツリポツリとガサガサの聴き取りにくい声でアイーザは説明しはじめた。
「…ッ、あの女……言うに事欠いて…、ハァっ…、苺の香料のリップで…キスしてきやがった…ッ!」
理由を説明するアイーザは、口の中の唾液を飲み込みたくないのかダラダラと口の端から垂れ流し、涙と鼻水で顔がドロドロなのにも構っていられないほどに、口の中が気持ち悪いと訴えていた。
言い終えると、その時のことを思い出して気持ち悪くなったアイーザがまた便器に顔を突っ込んで、何も出ないにも関わらず嘔吐く。
アイーザがこんなにも酷い状態だというのに、ロイドはそんなアイーザの顔を見ても、この男はこんな姿になっても美しいままなのだなぁと、ただ感心していた。
こんなにぐちゃぐちゃでドロドロで、声だってガサガサでボロボロなのに、アイーザは美しい。そして、ロイドはやはりアイーザが好きだなぁと思うのだった。
でも、これ以上アイーザを傷つけたくはない。だから、ロイドは声を掛ける。
「アイーザ、もうやめましょう?もう大丈夫。全部出しましたから。」
ロイドがそう言うと、アイーザはようやく嘔吐くのをやめた。顔をあげたアイーザにロイドはそっと唇を重ねた。学校でのものとは違う、何の理由も無い、ただの口付け。
アイーザの唇から苺の香りなんてしなかった。けれど、アイーザにキスをした女にムカついて、アイーザをこんなにした女に殺意を覚え、こんな姿のアイーザを見つけた教師を殺したくなった。
ロイドはアイーザの唇の感触を上書きするかのように、何度も口付けを繰り返し、段々と深くなる。
最初は何の反応もなかったアイーザだったが、段々とアイーザの方から舌を絡め、アイーザの口の中にあったはずのロイドの舌が、いつの間にかロイドの口の中でアイーザの舌に翻弄されている。
口の中が苦い。慣れた煙草の苦味とは違う、他人のゲロと胃液の混ざった苦味。それが、アイーザ以外の別の誰かのものならば、ロイドは今頃嘔吐いていただろう。けれど、それはアイーザのだから、ロイドは何とも思わなかった。少し口の中がピリピリした。
アイーザの舌に口内全てを弄られ、口の中にアイーザの味が広がる。ロイドはアイーザの口から流れ込む唾液も呼吸も飲み込んで、それすら幸せだと感じていた。
このキスが、ファーストキスじゃなくてよかった。まさかのファーストキスがゲロの味なんて、あまりにも斬新すぎる。そして、そんな絶対に忘れられないような人生ではじめてのキスをしてしまえば、ロイドはきっと普通のキスでは満足できなくなってしまう。
だから、このキスがファーストキスでなくてよかったとロイドは思った。
ようやく2人の唇が離れた。銀色の糸が互いの唇を結ぶ。それがゆっくりと垂れて、ぷつりと途切れるのを勿体無いなぁ…と思いながらロイドはうっとりと見ていた。
アイーザが体重をかけてロイドに覆い被さるように抱きついてきたので、ロイドはアイーザの首筋に顔を埋めながら、アイーザをしっかりと抱き返した。スンッ、と鼻で呼吸すると、アイーザ自身の匂いと彼の汗が混ざった匂いがした。
アイーザは香水の類をつけない。だから、アイーザの匂いを妨げるものが何もなく、薄っすらと汗ばんでいる現状、彼の匂いをより一層濃く感じられる。ロイドはそれにすらうっとりと恍惚な表情を浮かべ、アイーザの匂いを堪能した。
実際は、アイーザからはまだ吐瀉物の酸っぱい饐えたような臭いがしたし、トイレの芳香剤の匂いもある。けれど、ロイドの嗅覚はそれらを全てシャットアウトし、ただアイーザの匂いだけを感じとっていた。
しっとりと肌に張り付くYシャツの感触が邪魔で焦れったい。2人の手は、互いの身体をしっかりと確かめるかのようにワイシャツ越しに肌の上を滑っていた。ロイドの手はアイーザのしっとりとしたYシャツとともに彼の背を撫でている。
アイーザの手はロイドの背を這い回り、もう片方の手は腰のラインに沿うように滑っていく。ズボンに仕舞われていたYシャツの裾を引き摺りだすと、アイーザはその中に手を突っ込み、ロイドの肌を直接撫で回す。
ロイドはただアイーザの手が自身の肌の上を這い回る感触に感じ入っていた。
アイーザの自宅は空調設備が整っているので、学校のトイレとは違い蒸し暑さなど感じないし、通いのお手伝いさんが毎日綺麗にしているので不快な臭いもない。
けれど、こんなところで2人で何をやっているんだろうな…と、ロイドは思わずにいられない。
それでもアイーザが離れるなというように腕に力を入れてしっかりと腕を絡めて抱きつかれてしまえば、ロイドは全てがどうでもよくなるので、そんな考えもどこかへ消えてしまう。
結局2人がトイレを出てシャワーを浴びたのはそれから1時間以上経ってから。
浴び終わった後、なんとかアイーザに下だけ履かせ、ロイドはアイーザが着るのを嫌がった部屋着の上を着て、下はパンツ1枚だけの格好でリビングの黒革のソファの上で、やはりまだぐったりとしているアイーザにべったりと抱きつかれていた。
すると、玄関扉が開く音とともに、人の気配が此方に近づいてくるのがわかった。時計を見れば16時を余裕で過ぎていた。そのせいもあってか、ロイドはこの気配の正体に察しがついており、アイーザに抱きつかれたまま、何かを取り繕おうともしないでソファに座っていた。
「一体何度我が家をヤり部屋にするなと言ったら、貴方方は理解するんでしょうねぇ…」
リビングに入って来たのは、この家に住むもう1人。アイーザの双子の兄であるルネで、普段の胡散臭い笑みの面影もないほどに不機嫌を隠しもしない冷めた顔をしたルネが、リビングの入り口から此方を見下していた。
「今日はまだ何もしてませんよ」
「そんな格好でちちくりあっていたら、ヤッていようがいまいが大した違いはありませんよ?」
「大アリですよ!無茶苦茶すぎませんか?」
「前科者が何を言ったところで、文句を言う権利など無いんですよ?罪とは一生ついて回るものですからねぇ…」
「貴方といい、アイーザといい…本っ当にいい性格してますよね…」
「せめて家にいるときくらい大人しくしていてくれれば、私も口煩く言わないんですがねぇ?」
2人の会話は、平穏さや仲の良さを感じさせるものでは一切無い。一応の気安さは感じるが、その声色も空気も、何もかもが喧嘩腰のような不穏なものそのものだ。
けれど、アイーザはロイドの意識が自分から離れるのが気に食わない。アイーザだけを見て、アイーザだけの声を聞いて、アイーザだけを感じて、アイーザ無しでは居られなくなればいい。
アイーザがロイドだけでいいように、ロイドもアイーザだけでいいと思えるところまで、早く落ちて来ればいいのに。
そう思いながらアイーザはロイドに全体重をかけて縋り、ロイドの身体が軽く悲鳴をあげるほど彼を抱きしめしがみついた。「…ッ!」と痛みか息苦しさか、とにかく不快そうな小さな呻きをロイドが溢す。
アイーザは知らぬふりでロイドを必死に抱きしめていた。取り敢えずルネは死ね。
「全く…。見苦しいほどに無様ですね。取り敢えず今日は見逃しますが、今日中になんとかしてくださいね。それ」
そう言うとルネは一度自室に戻り支度を済ませてから何処かへ出かけて行った。あの口振りでは今日はもう帰宅しないのだろう。ロイドは少し安心した。
「…ロイド…」
「はい?」
アイーザの呼ぶ声に返事を返すと、無言のままアイーザはロイドを更に締め付けるように抱きついてきた。ロイドの身体が軋み、ミシミシと悲鳴をあげている骨。
けれどロイドはそんな事をされても優しくアイーザの頭を撫でて、その痛みとアイーザの腕の感触、体温、身体に触れるアイーザの全てをロイドは幸せそうに享受している。
「怖かったんですか?私はアイーザだけですよ?」
「…。」
「でも、ルネと会話ばかりしてアイーザを蔑ろにしたのは私が悪いので謝ります。すみません。」
アイーザは何も言わない。その手を緩めることもない。それでもロイドは小さな子供に言い聞かせるように、優しくゆっくりとアイーザに話しかけた。
「私は今も昔もアイーザだけが好きで、アイーザだけを愛しています。私の全てをアイーザに捧げてしまえるくらい、私にはアイーザしかいません」
ロイドの手はアイーザの背と頭を撫で続けている。その間もロイドの骨は軋み、悲鳴をあげているが、ロイドにとってそれは不幸なことなどではない。
むしろ、骨の一本や二本、折れてしまえばいいのだ。そうすれば、骨の治療をする間、不意に痛みを感じた瞬間、不便を感じる全ての時間、いつでもどこでもアイーザを感じられる。
いっその事折れて、治らなくなって、傷になって、一生この身に刻んでおけたなら…。ロイドにとっては幸せなことでしかない。
きっとそうなったら、治りかける度にアイーザに傷を増やしてもらい、全身傷だらけになってもロイドはうっとりとした恍惚な表情で、傷の一つ一つを丁寧に指でなぞってはアイーザを思い出すのだ。
あぁ…そんなことになったら、なんて幸福なことだろう…。
いつか…いや、今でもいい。アイーザにしてもらいたい。
上半身が軋んで、肺の空気が奪われ、脳の酸素が減少して朦朧としてきた頭でロイドはそんな事を考えていた。いっその事、このままアイーザに殺されたとしてもロイドは幸せだったから。
でも、こんな状態のアイーザを放ってはおけないから、そんな幸せな考えは一旦横に置いて、ロイドはアイーザに声をかける。
「アイーザ、部屋に行きましょう?ここだと身体も休まらないでしょうし。私はアイーザの部屋に行きたいです。アイーザの匂いしかないから。私は貴方の部屋がいいです」
アイーザは無言で頷くと、力を抜いて、腕を緩めた。
その瞬間、ロイドは後悔した。
アイーザの体温が、肌の感触が離れるのを寂しいと思った。せめて、抱きしめられた場所に痣ができるなり、骨にヒビが入るなり、何かしらの形でアイーザが触れていてくれた痕が残るといい。そう考えながら、ロイドはアイーザとともに2階の彼の部屋へ向かった。
アイーザは自室の冷房を四六時中、自宅に居なくてもつけっぱなしにしているので、彼の部屋はいつでもアイーザにとって快適な温度が保たれている。
必要最低限とすら言い難いほど殺風景な部屋。けれど、どれもこれもアイーザの手垢がついて、彼が日常的に此処に居て、アイーザと同じ空気を吸えて、いつでもアイーザを感じていられるというだけで、ロイドにとってはこの世の楽園とも言えるほど、まさに天国のような空間だった。
だから、ロイドが無意識のうちにニヤけてしまったとしても仕方のない事なのだ。だって此処にいる間だけはアイーザだけを感じてアイーザのためだけに生きていればいいのだから。
自然とロイドの体温が上がる。この空間はアイーザばかりで、隣には本物のアイーザが居て、異質な物質はロイドだけ。今、上に着ているのはアイーザの服で…あ、下着もアイーザのを借りてしまえばよかったと、ロイドはひっそりと後悔した。
そうすれば、ロイドはもっと、完全にアイーザだけに包まれてもっと幸せだっただろうに…。内心舌打ちするのも仕方がない。だってロイドはアイーザが好きだから。
だから、突然「ロイド」と名前を呼ばれ、強引に肩から腕が外れそうなほど引っ張られ、ベッドに縛り付けるかのように押し倒され、無理矢理唇を奪われるような暴力的なキスをされても、ロイドは嫌がるような真似はしない。アイーザにされることは何でも嬉しいから、好きに使われても構わない。
あ、嘘。浮気はダメだ。浮気するのは嫌い。
アイーザを誘う女が嫌いで、殺したいほど憎たらしいから、浮気は嫌いだ。
でも、アイーザは美しいから、誘われるのは仕方ないし、ロイドばかりでは飽きるだろうから暇潰しに別の誰かを抱くのも仕方のないことだと思うので。だから、アイーザのことは嫌いになれない。というか、そんなアイーザも好きなのだからどうしょうもない。
アイーザに伸し掛かられて、アイーザの手で腕をベッドに押さえつけられて、唇も呼吸も奪われて、このまま全て奪ってくれたらいいのに。アイーザの唇はロイドの唇から離れていってしまう。ずっと終わらなければいい
のに…。
「ロイド…」
「はい?」
「お前、ゲロ吐いてるような人間に、よくキスしようなんて思いましたね」
「なんですか、急に…」
多少調子を取り戻したらしいアイーザが、ロイドを押し倒したままそんな事を言う。
まぁ、アイーザだったら絶対にしないだろうから、純粋に疑問に思ったのかもしれないが…。気色悪いとか言われたらどうしよう?それすら嬉しい。
「キスの最中に突然吐かれたら…。とか、考えなかったんですか?」
「他人なら死んでも御免ですけど、貴方のなら別に。むしろそのまま私の口で受け止めますよ?量が多くて吐き出しそうなら、飲んでしまえばいいので」
勿体無いし、処理も省けて、私も幸せだし、むしろまだゲロは無いから試してみてもよかったかもしれないと、ロイドは何でもないことのように言う。
「お前は…」
ロイドはあー、と大きく口を開け、舌を出し、眼前で呆れているアイーザに真っ赤な口内を見せつけた。
「私は貴方のものなんですから、好きに使ったらいいんですよ。アイーザにされることなら何でも好きですし。浮気は…嫌かなと思ってたんですけど、されたところで私は貴方を嫌いにならないし、愛していますし、余所見する貴方すら好きですし、アイーザに意識して貰えるなら嫌われても嬉しいですし、多分無視されても私は貴方に無視されることに特別視をされていると感じて喜ぶと思うので、やっぱり私はアイーザを愛しています」
「随分と呆れた物言いをするようになったんですね。暑さにやられましたか?」
「貴方を好きになったなら自然とこうなったんです!むしろ責任取ってくださいよ。仮に、貴方に捨てられたとしても私は貴方を好きで、その事に興奮するような身体にされたんですからね?」
「勝手に転げ落ちて来たのは貴方の方だというのに?責任は全て私に押し付ける気ですか?」
「貴方がアイーザであることが悪いんです!勝手に私の目の前に現れて、私を骨抜きにして、本当にどうしてくれるんですか?私、貴方が居ないと生きてる意味無いんですよ?私まで貴方みたいな変人になっちゃったじゃないですか!」
「勝手に転げ落ちた挙げ句、そうなったのはお前の自業自得だろうが。それとも何か?貴方、私に嫌われたいんですか?私を愛しているのに、私に愛されるのは望んでいない頭のおかしな変態だと?」
「失礼な!別に嫌われたところで愛しているのは変わらないし、私を心から憎み嫌う貴方も好きですし、興奮しますけど。あと、当然一番幸せなのは貴方に愛されることですよ?ただ、何をされようが貴方を嫌いにならないってだけです」
「とんだ大馬鹿者ですね、貴方」
「貴方に一目惚れしたときから周囲に言われ続けていたので今更ですよ」
「ですが、一番はそんな貴方に興奮してこのまま全て終わらせてしまいたい私でしょうね」
「最高です!あ、でもまだダメですね」
「私と今ここで死ぬのは不満だと?」
「そうじゃなくて!人間、どうしても何かしらに縛られますし、その辺処理しておかないと後々面倒そうじゃないですか。死んだ後で何の心配するんだって言われると、まぁそうなんですけど…ってなるんですが」
「お前、頭は馬鹿でおかしいのに、そんな事を考えられるんですね。少し感心していますよ」
「少し私のことを馬鹿にしすぎでは?あぁ、あと死んだ後も抜け殻とはいえ貴方の身体と離れたくないので。一緒のお墓って憧れません?棺も一緒で、貴方と私の身体を雁字搦めになるように固定して、2人一緒に眠るんです!そうなると土葬がいいですかね?あ、でもこの国って火葬でしたっけ?一緒の棺で焼いてもらえるんですかね?骨壺は当然一緒にしてもらいますけど…」
「ロイド、お前…。そんなに私と離れたくないんですか?」
「当然じゃないですか。そうでなきゃ貴方の恋人になろうなんてしませんよ」
「全くお前は…困った子ですね」
当然、アイーザは全く困った顔などしていない。喜色に溢れた愛おしい者を見る目でロイドを見つめている。
ロイドはそんな甘い顔のアイーザも大好きなので、そのまま2人はベッドの上で唇を重ねた。
とまぁ、私の高校時代にそんなことがありまして…。
あの時のアイーザは本当に可愛かったんですよねぇ。
今も格好いいし、美しいし、可愛いんですけど…。え?身体を重ねたりしていなかったのかって?そりゃあ、私もアイーザも男ですし?なんなら私、学校のトイレでアイーザが吐いている姿を見て勃ってましたし?アイーザも興奮してたので、後日学校休んでヤりまくってましたけど。
あぁ、当然ルネにブチ切れられて、ルネとアイーザが高校卒業したと同時に、アイーザは父親が愛人囲うために買っていた高級マンションに引っ越したんで。
え?なんだその話って?ルネとアイーザの両親は互いに愛する人がいて、2人には金だけ渡すような人間で、家庭なんてものは2人が物心つく前に崩壊していたそうですけど。
アイーザもルネも特に気にしていないので、詳しく聞いたこともないんですよね。むしろ2人とも、下手に幸せな家庭に生まれて毎年クリスマスだ誕生日だとケーキだのなんだの嫌いな物を食べさせられて祝われたくもないものを祝われるよりは余程良いと言っていましたから。
え?2人とも狂ってないかって?今更では?あの2人と交流があればあるほど、多少は誰でも狂いますよ。たぶん。
とまぁそんな過去の出来事もあり、アイーザの苺嫌いの克服は無謀とも呼べるような代物なのだと、ロイドは昔をしみじみ思い出しながら手の中にあるクレープの割引クーポンを見ていた。
女子生徒が大切な物を無くしたと授業終わりの講義室で騒ぎ出し、探すのを手伝って偶然ロイドが見つけたのがきっかけで、御礼にこのクーポンをもらった。期限は明日。学校は休み。ロイドは甘い物が好き。問題は無いように思える。
しかし、そのクーポンが苺DX限定の割引クーポンなのが問題だった。明日はアイーザと約束がある。その前にそんな苺だらけのクレープを食べた後、彼に会うのは禁忌を犯す行為だ。
アイーザは苺を生で食べるのは勿論、加工品も無理。匂いもダメ。当然香料なんかもNGで、見ることさえ吐き気を覚えると言っていた。実際、ファンシーな女性物を扱う雑貨屋でイチゴ柄の様々な物を見ていただけでアイーザは自宅で吐いたと言っていたこともあるから病的なほどの筋金入りである。
そんなアイーザとクレープを天秤に掛けることすらせずとも、ロイドはアイーザを取る。しかし、クレープは食べたかった。
翌日、ロイドはアイーザと約束しているよりかなり早い時間に家を出た。目的の大学近くのクレープ屋は開店したばかりのようで人は疎らだ。
そんなお店の前で1人の母親がクレープが食べたいとぐずっている小さな女の子に手を焼いていた。
ロイドはそんな親子に駆け寄り、例のクーポンを取り出した。
「あの、よかったらこれ、どうぞ」
当然最初、母親は受け取れないと言ったが、ロイドの押しに負け受け取った。女の子にお兄ちゃんありがとう!と御礼を言われて気を良くしたロイドはクレープ屋で季節限定ラズベリー&ピスタチオをチョコソース追加で頼み、アイーザの家に向かう道中、笑顔でがっついていた。
「お前、こんなところで何をしているんです?」
本来ならここで聞くはずのない声にロイドは驚き、声がした方へ振り向いた。そこには予想通り、アイーザが立っていた。
「アイーザ?」
「口にモノを含んだまま喋るな」
アイーザにそう言われ、ロイドは素直に口の中のクレープを飲み込んだ。
「なんでここに?」
「ルネに用がありまして。これから帰るところです」
「なるほど…」
「貴方はわざわざ私に会う前にクレープですか?」
「クーポンをもらったんです。使う気はなかったんですけど、見たら無性に食べたくなるときってあるじゃないですか」
「さぁ、食事という行為に意味も感じず、興味も無いのでなんとも…」
「あー、というか貴方、そもそも甘い物嫌いですもんね」
そう言ってロイドは最後のクレープを頬張った。予想より大きかったそれは口に入り切らず、口の端にクリームがついた。ロイドが舐め取ろうとする前に、アイーザの手が伸びてきて指で口の端のクリームを攫っていく。
そして、それを口に運ぶ…はずもなく、持っていたウェットティッシュで丁寧に拭き取っていた。ちょっとがっかりしてしまったがロイドは悪くない。
「そこは普通舐め取るところでは…?」
舐めてる姿に見惚れて、甘さに顔を歪めている可愛い瞬間を楽しみたかったのに。本当に狡い。だってそんな事を言ったロイドに呆れている顔すら格好いいし、美しいし、可愛いのだ。狡い。
「おかしな普通を押し付けるな。こんな油と砂糖の塊、誰が舐めるか」
「貴方今、全世界の生クリーム好きを敵に回しましたよ」
「知ったことではありませんね」
「あーもー、外で恋人らしいことができるかもと、少し期待した自分が馬鹿みたいじゃないですか」
「お前は元から馬鹿なので問題ありませんよ。そもそも我々、そんな可愛らしいことをする関係でも、そんなことをして今更ときめくような関係でもないでしょう」
それ以前にそういった関係だと隠していたことなんてありましたか?とアイーザに問われればそれもそうかとロイドも思わなくはない。しかし、それはそれ、これはこれだ。
「好きな人の新たな一面を見てときめく心も、毎日のように貴方の顔を見ても格好いいなと感じて、貴方に対する好意を毎分毎秒のように更新し続けている私の健気な恋心を踏み躙るような物言いはやめてください。また好きになるじゃないですか」
「本当に、ものの見事に転げ落ちましたね。それでよくもまぁ、そんな頭で普通の大学生を装えるものだと、呆れると同時に褒めてやりたくなりますよ」
「本当ですか!?じゃあ、家に着いたら期待してもいいですか?沢山可愛がってくださいね?あ、意地悪されてもいいですけど。貴方にされることならなんでも嬉しいので」
「本当に出来ているんでしょうね?そんな顔、大学でもしていたら許しませんよ」
「そんな顔…?」
鏡も無いし、ロイドはよくわからず首を傾げた。アイーザが意地悪く笑って、ロイドの耳元で囁く。背筋にぞくぞくとしたものが駆け巡り、腰の辺りがじんわりと痺れて、たぶん、外じゃなければ軽くイッてた。
「サカリのついたメスの顔」
「っ…!?♡」
あー、出てたか…。と思うのと同時にアイーザと一緒にいるのだから仕方ないだろうとも思う。だって、これからそういうことをしますし?出るでしょう普通。
きっとこんなことを言えばアイーザは喜んでくれて、お前の頭のおかしな普通と世間一般の普通を一緒にするなと叱られるんだろう。アイーザ自身が世間一般と程遠いような男のくせに。狡い。好きだ。
早くアイーザの家に行きたい。そのまま家の中に閉じ込められて死ぬまで、死んでもずっとアイーザと2人だけでいられたらいいのに。
そんな事を思いながら何も隠す気が無いロイドはアイーザの腕に自分の腕を絡め、早く帰りましょう!とアイーザを急かすのだった。
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