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第37話

結婚式から一ヶ月が経った。  激動の一ヶ月だった。結婚式の翌日は大勢の貴族たちを交えた披露宴があり、オレはレオンの隣でずっと笑顔を保つのに必死だった。貴族たちは次々と挨拶に訪れてきて、そのたびにオレのことを「リディア王女を救った英雄」や「レオンハルト殿下を命を賭して守った忠義の騎士」なんて言葉を投げかけてくる。 「セリル様、リディア王女を救った時は本当に勇敢でしたね!」 「レオンハルト様を庇ったエピソードは、都中に広まっていますよ!」  挨拶するたびにそんな褒め言葉をかけられて、どう反応していいのか困惑するばかりだった。どうやらオレの噂は貴族たちの間でだいぶ誇張して広まっていて、かなり好意的に受け取られているようだ。確かに嬉しいんだけど、どうにも照れくさい。まだ慣れない。  その後も、国民に向けたパレードだの、引っ越しの手続きだの、とにかくバタバタした日々が続いて、なかなか落ち着くことができなかった。ようやく落ち着いてきたのはつい最近のことだ。 「……セリル殿、集中してください」  エドガーの厳しい声で、オレは慌てて手元の書物に視線を戻した。いまオレは王宮内の自室で机に向かい、勉強している。隣にはエドガーがピシッとした姿勢で立ち、他国の情勢や国の政治体制なんかをかなり徹底して教えてくれている。 「バフォード公爵領は王国北部の守りを固める要でありながら、第一王子派閥と強い繋がりを持っております。しかし、彼らの前当主は五年前に──」  エドガーの声が続く。公爵だの侯爵だの、それらがどこにいて、どんな政治的立場なのか、いくら説明されてもさっぱり頭に入ってこない。とはいえ、今のオレの立場は王族の伴侶だ。こういった知識がないと困ることになる。 (集中、集中……)  気合いを入れ直して勉強に取り組むものの、十分もしないうちにまた集中力が切れていく。窓の外の青空を見ると、ついため息が漏れた。天気のいい日は外に出て走り回りたい気分になってしまう。 「集中力が途切れていますね。……仕方ありません、本日の講義はここまでにしましょう」  そう言いながら、エドガーが本を閉じる。オレは思わず机に突っ伏した。 「やっと……終わった……」 「セリル様、王族の伴侶となった以上、国の政治や他国との関係について理解しておくことは避けて通れませんよ」 「わかってますよ。でも、オレっていつになったら護衛騎士に戻れるんでしょうか……」  思わずボソッと本音を漏らしてしまった。  レオンと結婚した後、オレは護衛騎士としての役目に戻れると思っていた。でも現実はそうじゃなかった。結婚してからずっと王宮内で勉強の日々。剣の稽古は許されているものの、それも「適度な運動」程度のもので、実戦を想定した激しい訓練は禁止されている。  エドガーは苦笑しながら首を横に振った。 「護衛騎士に戻ることは、しばらくは無理でしょう」 「どうして。オレの実力が信用できないってこと?」 「そうではありません」  エドガーは少し言葉を選ぶように間を置いた。 「今はあなたは、王族の伴侶として跡継ぎを産むことが何よりも期待されています。少なくとも第一子がお生まれになるまでは、その御身を守るため危険からは遠ざけられるでしょう」 「こ、子供!?」  思わず声が大きくなった。もちろん、オレはオメガだから子供を産めることは事実だし、レオンとの間に子供が欲しいという気持ちもある。でも、それがいつの話になるのかなんて、まだ考えてもいなかった。  エドガーはオレの表情の変化を眺めつつ、話題を変えるように懐中時計を確認する。 「……そういえば、今日はアドリアン様との定期検診の日ではありませんでしたか?」  その言葉にハッとした。すっかり忘れていた。急いで席を立ち、エドガーに会釈する。 「今日はありがとうございました! また明日!」  エドガーは微笑みながら頷いた。 「お気をつけて」  オレは慌てて部屋を飛び出していた。  アドリアンの研究室まではこの廊下をまっすぐ進んだところにある。まず、大階段を登って……。 「セリルさん!」  背後から元気な声が聞こえた。振り返ると、小さな人影が走ってくる。リディア王女だ。 「リディア様。こんにちは」  彼女は結婚式の際も、オレがレオンと結婚することをめちゃくちゃ喜んでくれた。今ではすっかりなつかれて、王宮で会うといつも駆け寄ってきてくれる。 「セリルさんはこれからどこへ行くところですか?」  リディアは年齢に似合わず、常に礼儀正しく話しかけてくれる。しかし時々、やはり子供らしいはしゃぎぶりを見せることもあって、その二面性がなんとも愛らしい。 「アドリアンに会いに行くところだよ。定期検診があるんだ」 「そうなんですね!」  リディアは嬉しそうに目を輝かせた。 「それで、セリルさん。レオンおじさまとはうまくやれていますか? 喧嘩とかしていませんか?」  思わぬ質問に、タジタジになってしまう。こういう時の彼女はとても大人びた口調で、まるで恋愛カウンセラーみたいだ。 「も、もちろん! 仲良くやってるよ。喧嘩なんてしてないよ」 「よかった! わたし、早くいとこの顔が見てみたくて」 「いとこ?」 「だって、セリルさんとレオンおじさまの子供が生まれたら、わたしのいとこになるでしょう?」  リディアの無邪気な言葉に、オレは思わず言葉を失ってしまった。さっきからオレとレオンの子どもの話が続いていて、なんだかいたたまれない。 「そ、そういうのはまだ先の話だよ!」 「そうですか? でも、お城の中ではみんな、セリルさんが早く子供を授かると良いねって言ってますよ?」  彼女はにこにことそんなことを言い、それでは失礼しますと丁寧なお辞儀をして、小さな手を振りながら廊下の向こうへ歩いていった。  オレは顔を両手で覆い、深いため息をついた。これからは宮廷内の視線を意識せざるを得なくなるのだろう。レオンとの子供のことが、すでにこんなに周囲の期待になっているなんて。  深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、階段の残りを上り、西翼の廊下へと進んだ。窓からは王宮の中庭が見え、庭師たちが色とりどりの花々の手入れをしている姿が目に入る。ここからアドリアンの研究室までは、まだ少し距離がある。  西翼から東翼へと続く渡り廊下を通り、オレは宮廷内でも比較的静かなエリアへと足を運んだ。この場所は一般の宮廷人があまり立ち入らない区域で、王室御用達の学者や魔術師たちの研究室が並んでいる。  アドリアンの研究室は東翼の最奥、塔に近い場所にあった。扉には彼の名前と「王室魔素研究官」という肩書きが記された銘板がかけられている。オレはその前で一度だけ服の襟元を整え、扉をノックした。 「どうぞ」  アドリアンが出てくると思っていたが、開いた扉の向こうに現れたのは意外な人物だった。 「あ、兄さん!」  アーサーだ。弟はいつも以上に生き生きとした表情を浮かべている。白い実験用の上着を着て、手には何かの記録用紙らしきものを持っていた。 「お、アーサー。元気そうだな」 「はい! 今日もアドリアン先生に色々と教えてもらってるんです」  そう、アーサーは今、アドリアンの助手としてこの王宮で働いている。結婚式の後、彼が魔素研究に強い関心を示したことがきっかけで、アドリアンから正式に助手として採用されたのだ。  研究室に入ると、前に訪れた時よりずいぶんと片付いていた。資料や書物がきちんと棚に整理され、床に散らばっていた実験器具も正しい場所に収納されているようだ。窓際には数種類の植物が並べられ、随分と部屋の雰囲気が柔らかくなっている。恐らく、というか絶対、これは弟が片付けたんだろうな。 「アドリアン先生! 兄さんが来ました!」  アーサーに呼ばれて、アドリアンが奥の実験台から顔を上げた。彼の手には魔素の輝きを放つ小さな石が握られている。 「おや、セリル! よく来たね」  アドリアンはアーサーに何やら指示を出し、彼は「はい!」と元気よく答えて作業に戻っていった。二人の仲睦まじい様子を見ていると、なんだか微笑ましい気持ちになる。師弟関係というよりも、兄弟みたいな雰囲気だ。弟を取られたような気持ちになって少しだけ複雑だけど、アドリアンはいい奴だから弟を預けるには申し分ない。 「さあ、こっちに来て」  アドリアンはオレを手招きして、隅に置かれたベッドに座らせた。 「王宮での最近の暮らしはどう? 少しは慣れてきた?」 「ようやく落ち着いてはきましたが、今度は逆に王宮でずっと勉強させられてて息が詰まりそうです」  素直に答えると、アドリアンは笑いながら診察道具を取り出した。 「まあ、今の君は王族の跡継ぎを産む大事な身体だからね。だからこうして定期的に僕のところに来て検診を受けてもらう必要がある」  また子供の話だ。なんだか今日は妙にそういう話題が多い気がする。  アドリアンは軽く咳払いをしてから、オレの上着を脱がせ、背中に魔素の流れを調べるらしい器具を当てた。冷たい金属が肌に触れ、思わず身震いする。 「深呼吸して……そうそう」  アドリアンは器用に検診を進めながら、世間話を続けた。 「レオから聞いたんだけど、どうやら隣国と奪われた砦のことについての交渉が始まったようだね」 「ああ、聞きました。隣国もあの砦を維持するのにかなり苦労してるみたいですね。人手や物資が足りなくなっているとか」  この話はレオンからも聞いていた。どうやら、隣国は砦の管理について第二王子カイルの援助があることを前提に考えていたらしく、砦の維持にまともな人員を配置できていないのが現状らしい。 「そんな状況だったから最初は武力行使で奪い返すことも考えられたんだけど、レオは隣国と交渉することで両者の落としどころを見つけようとしているみたいだね。話し合いだと完全な平和的解決は難しいだろうけど、それでも戦争が回避できるに越したことはない」 「そうですね。レオンらしい判断だと思います」  アドリアンの落ち着いた声を聞きながら、あの砦での出来事を思い出す。あの場所は、初めてレオンと本音を交わしたすべてのはじまりの場所とも言える。本当に色々なことがあったけど、あの砦での出来事がなければ、今のオレとレオンの関係はなかったかもしれない。 「……はい、検診は終わりだよ」  アドリアンの声で我に返る。彼は笑顔で立ち上がり、棚から小さな瓶を取り出した。 「そうだそうだ。これ、レオに渡しておいてくれる?」 「これは……抑制剤ですか?」  オレは瓶を受け取りながら尋ねた。色や形は以前にもらった抑制剤とは違う気がする。 「いいや、違うよ」  アドリアンは首を横に振った。 「何の薬なんですか?」  心配になって尋ねると、アドリアンはにやりと笑い、オレに近づいて耳打ちした。 「これは精力剤だよ。新婚の王族にはみんな渡すことになってるんだ」 「え……えぇっ!?」  思わず声が裏返った。精力剤だって!?何で?!と思ったけど、すぐに今まで散々聞かされてきた「跡継ぎ」という言葉が頭をよぎる。 「も、もう帰ります!」  顔が熱くなるのを感じながら、オレは小瓶を握りしめて研究室のドアへと向かった。背後からはアドリアンの含み笑いが聞こえる。 「頑張ってね~」  その言葉に背中を押され、オレは廊下に飛び出した。王宮に戻る道中、小瓶の存在が妙に重く感じられて仕方がなかった。  月の光が寝室の窓から差し込む頃、オレはレオンの腕の中で深い息をついていた。汗ばんだ肌が冷えてくる心地よさと、抱きしめられる安心感に包まれながら。  結局、アドリアンから貰った精力剤は渡さなかった。こんなものなくても彼はしっかりとオレを愛してくれているし──そもそも、この体力無尽蔵な王子様に精力剤なんぞ渡したらオレの身体がもたないのは目に見えている。自ら墓穴を掘る気はない。  レオンはオレの隣で、まだ少し荒い呼吸を整えている。お互いの体温がゆっくりと冷めていくのを感じながら、オレはぼんやりと天井を見つめていた。今日一日で聞いた言葉の数々が頭の中をめぐる。 「……オレとの子ども、欲しいですか?」  静寂の中でぼそりと呟いた言葉に、隣でレオンの動きが止まった。 「誰かに何か言われたのか?」  彼の声は穏やかだが、鋭さを隠していない。 「ええと、まあ。色んな人に跡継ぎを産むことを期待している、みたいなことは言われてます」  正直に答えると、レオンは苦笑を浮かべながらオレの頭に手を伸ばし、優しく髪を撫でた。 「……お前との子どもについて言えば、欲しくないといえば嘘になる。ただ、私の気持ちを押し付けてお前の意思をないがしろにしたくはない。特に私たちはまだ結婚したばかりだ。あまりそういうことを焦らなくてもよい」  あくまでオレの意思を尊重しようとしてくれるレオンの言葉に、胸が熱くなった。慈しむように頭を撫でられていると、彼にとても大切にされていることが伝わってきて、安心感と幸福感が広がっていく。 「……オレも、早く欲しいです。レオンとの子ども」  気づけば、そんな言葉が自然と口から零れていた。途端、オレを撫でていたレオンの手が止まる。  その時になって初めて、オレはかなり大胆なことを呟いてしまったことに気が付いた。慌てて弁解しようとしたが、もう遅い。見上げると、レオンの瞳には再び燃え上がる情欲の炎が宿っていた。どうやら、オレは完全に彼のスイッチを押してしまったらしい。 「あ、いやあの、子どもが欲しいっていうのは今すぐってわけではなくて……」 「でも、欲しいのだろう?」  レオンの声は低く、甘い響きを帯びていた。 「なら、遠慮はいらないな」  そう言うと、彼は再びオレの身体に覆いかぶさってきた。先ほどまで愛に満たされていたオレの身体は、彼からの愛撫を受け、いとも簡単に再び熱を取り戻していく。  オレは小さなため息をつきながら、目を閉じてレオンに身体を預けた。彼の温もりに包まれながら、ふと思う。  王宮で過ごす新しい生活、護衛騎士から王族の伴侶へと変わった立場、そしていつか生まれるかもしれない子どものこと。これから先の人生には、まだ見ぬ多くの変化が待っているのだろう。  だが今この瞬間、愛する人の腕の中にいるこの幸せは、何物にも代えがたい。  この夜はまだ、ふたりの物語の始まりにすぎなかった。  そして五年後。  エルクレスト王国の第三王子レオンハルト・ヴィルヘルム・エルクレストの傍らには、今日もいつものように一人の護衛騎士が控えていた。  深い青の軍服に身を包み、剣を腰に帯びたその騎士は、王子と肩を並べて歩いても全く遜色のない凛々しい立ち姿をしている。髪は短く整えられ、琥珀色の瞳は常に周囲に気を配っている。  その護衛騎士の名はセリル・グランツ。そして驚くべきことに、彼は第三王子レオンハルトの正式な伴侶でもあった。  オメガの男性が王族の配偶者となり、なおかつ現役の騎士として活動している――このこと自体が、五年前のエルクレスト王国では考えられないことだった。しかし時代は変わった。セリルとレオンハルトの結婚は、王国のオメガに対する偏見を大きく和らげていた。  彼らには既に2人の息子と娘がおり、彼らの仲睦まじい様子は、国民たちの間でも模範にするべき家族像とまで言われているほどだ。  ――こうして、元騎士のオメガと第三王子、そして彼らの愛する子どもたちの物語は、今日もまた新しい一ページを刻んでいく。  それはやがて、エルクレスト王国に語り継がれるだろう。  永遠に続く、愛と希望の物語として。

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