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第7幕 章、生活と戦う

篠塚章は、人生最大の危機に見舞われていた。 どたん、がたん、どたん。 暴れ回る脱水中の洗濯機。わけも分からず怯えながらも、枯れ枝のような無力な腕で必死に洗濯機を抱きしめる。なぜだ。どうしてこんなことに。 章はそもそも家事が出来ないわけではない。精神疾患による意欲減退によって今までできていたことができなくなり、できなくなってしまった事に気を病み……の繰り返しで元の住処は悲惨なことになってしまっただけで、洗濯も食事も掃除も、少なくとも23歳頃までは最低限自分でこなせていたのだ。 原因は十中八九、かつての自宅の洗濯機よりふた回りも大きい累の洗濯機の勝手が分からなかったことだろう。脱水に入ってから累の洗濯機は暴れに暴れ、そのうち人を殺すのではないかと思った。手負いの累に迷惑はかけたくないが、そろそろ本当に家を破壊してしまう。 躊躇いを振り払うように咳払いをしてから、思い切り叫んだ。 「る、累ーーーッ!」 「え、何、何なになにこれは」 「ごめん、ほんとにごめん、た、助けてくれ」 僕の悲鳴を受け、すぐに脱衣所に駆け込んできた累は間抜けな顔をして僕を眺めている。そりゃそうだ。なぜ成人男性が洗濯機にしがみついているのか。 「ったくよぉ」 累は冷静に一時停止ボタンを押した。洗濯機は鎮まる。行き場の無くなった腕の力は雲散霧消してしまい、僕は床にずるりと落ちた。 累は左腕だけで洗濯機の中身を点検すると、ふ、と鼻で笑った。なんだかそれがどうしようもなく悲しくて、長らく忘れていた怒りのようなものがちかりと腹の中で火花を立てた。 「章、こりゃ詰めすぎだぜ」 「……しかし……累……僕は……」 「大丈夫、ちょっとこの辺の偏りを直してやり直しゃあいいだけだ」 ほら。とだけ言って、累はいとも簡単に洗濯機を鎮め脱水を再開させてしまった。 「ありがとうな、使い方の説明聞いてくれてもよかったのに……もう疲れただろ、ちょっと横んなってきな」 累の言うことは最もだ。実際図書館に行き累が刺されたあの日、僕は疲れ果てて翌日丸一日寝込んだのだ。とにかく気力も体力も足りていない。正直洗濯機を回しただけで疲労困憊といったところ。 でも。それでも。 「干すとこまでやるよ」 「……無理すんなよ。こっちの怪我だってたいしたことねぇし」 「やるったら、やるんだ」 累は困ったような顔をして固まった。しばらくして、大きく大袈裟なため息をつき、そして困った顔のまま笑った。 「わかった。無理だけはすんなよ、マジで」 洗濯機の乾燥機能を使うもの、浴室乾燥を利用するもの、その辺に干していいものを累に教わる。僕の家の洗濯機は縦型であり、全て部屋に干していた。累に教わらなければきっと全部干しきれなくてまたショックを受けていただろう。ボタンひとつで止まる暴動だったとはいえ、あの時累を呼んでよかったのだ。 息も絶え絶えに洗濯物を干しながら、考える。 ここに来る前のことだ。僕の家はゴミ屋敷と言うにも生ぬるい、壊滅した巣のような有様だった。書けなくなり始めたころから精神と同じように荒れ始めてはいたのだが、家に奴がやって来て、身体を好き放題された後───僕は本当になにも出来なくなった。被害に遭った時の服を洗った洗濯機が汚れたものに思えて、服を洗わなくなった。着る服が足りなくなったら通販で新しく買った。床が見えなくなるほど山積みになる衣類は僕が壊れた証のようで、毎日踏みつけながら暮らしていた。万年床とトイレを往復するだけの日々は次第にトイレすら難しくなり、床を這うように移動した。この世の地獄だった。はやく死にたかったが、死ぬために起き上がる気力さえなかった。 やがて冬が訪れ、凍死が視野に入ったその時。 累は僕を助けに来た。 累は、僕を接続した。此岸に、医療に、清潔に。生ける死体と化していた僕を、発狂する元気が出るまで養い、何度狂っても突き放さずケアした。飼い殺した。 僕は。現状が心地よいと思い始めていたし、累の庇護下にあることの安寧に首まで浸かっていた。累の嘘を知っていた。よく良く考えれば、累があの状態の僕に無理やり手を出した訳が無い。僕が迫った。僕は繰り返しオメガとしての性を利用して、累に寄生することを正当化しようとしていたのだ。累はそれさえも庇ってしまっていた。 何故か。 その問いの答えが出そうな気がする。累と「接続」することで、ようやく本当に理解できるのだろうと思う。僕の方位磁針はこわれてしまっていて、自身へ向けられる感情がうまくわからない。言葉の出力機構も壊れてしまった。だからこそ、累との「接続」は現在の僕の命題なのだ。 殺人洗濯機は大人しく電子音で鳴いた。乾燥が終わったらしい。僕は暖かく柔らかいタオルを取り出しながら、明後日辺りにしようと思った。 累を襲う。接続してみせる。今度こそ。

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