4 / 61

第4話私に任せろ

 エリペール専属の従者と共に部屋へ向かう。 「マリユスさんの部屋は明日にでも案内しますね。今夜はきっとエリペール様から離れられないでしょうから」 「僕の部屋なんてあるのですか?」 「勿論ですよ。他の従者もほとんどが住み込みで働いていますから、全員に部屋が与えられています。別棟になるので荷物をまとめておいてくださいね」 「荷物なんてありません」 「何も?」 「はい、身一つで来ましたから」  石積みの塔の中で必要なものなど何もなかった。食事さえ運んでくれた時にしか食べられなかった。  着替えもない、靴なんて今日初めて履いた。  貴族様は他に何を持っているのだろうか。  従者はこれは大変だと言わんばかりに目を瞠り、それ以上何も喋らなかった。 「リリアン、マリユスに部屋など必要ない。私の部屋ですごせばいい。荷物がないと言ったな? 着替えも何もないなら、すぐにてはい(・・・)しなければならない。頼めるか?」 「かしこまりました、準備できる限り集め、直ぐにお持ち致します」  リリアンと呼ばれた従者は部屋に入るや否や服と靴のサイズを確認し、退室した。  エリペールは窓際のソファーに座らせるとピアノの前に座った。 「明日はピアノの先生が来るから、練習を聞いてくれたまえ」  楽譜という紙を見ながら辿々しい指使いで音を出す。  僕にはそれが暗号にしか見えなかったが、エリペールはゆっくり確認しながら紐解くように音に繋げる。  合っているのか間違っているのかさえ分からない。凄いことを成し遂げているのだと感じた。  ひとしきりピアノと向き合った後、「疲れた。まだ楽譜を読むのに時間がかかって、メロディーにならないのだ」両手をふるふると振って指を解す。 「エリペール様は凄いですね。ブランディーヌ様が仰っていた通り、素晴らしい方です」 「お母様が!? 私を褒めていたのか?」 「えぇ、とても優秀だと」 「そうか。では明日のレッスンも頑張らなければならないな」  エリペールは一度蓋を閉めたピアノをもう一度開き、練習を再開した。  ピアノの音は美しくていつまでも聞いていたくなる。リリアンが途中で戻ってきたが、演奏が終わるまで話しかけないでいてくれた。   「エリペール様、本当はピアノのレッスンが一番苦手でらっしゃるのですよ」  リリアンが運んできた服や靴を並べながら話す。 「こんなにお上手なのにですか?」 「ええ、先生がスパルタなのもありますけれど、かっこいい所をお見せしたいのですね」  ふふ……と笑いながら作業を続ける。  リリアンはエリペールが生まれた時から、専属の従者として仕えているそうだ。だからなんでもよく知っている。そんなリリアンでも添い寝役は務まらなかったのだと言った。   「ここの人たちはマリユスさんに期待していますよ」 「僕はただの奴隷です」 「さぁ、これがマリユスさんの夜着です」  リリアンは返事をせずに僕の服の説明していく。  十三歳にしては小さすぎる身長に細すぎる体。同じ年頃の男の子であれば、大人の女性用と同じサイズくらいであるらしいが一番小さなサイズでもブカブカだった。 「後でブランディーヌ様に報告して新しく準備してもらいますね。それまではこれで我慢してください」 「新しい服など勿体無いです。ここに来るときの服まで準備してもらいました。これだけあれば、他には要らないです」 「そういうわけにもいきません。仕事をする時の服と寝るときの服が同じじゃいけないですから」 「今まで寝るためだけの着替えなど、したことがありません」  暗い牢屋の中では、いつ崩れ落ちるかもしれないギシギシと軋むベッドに横たわるだけだ。寒い日も暑い日も耐えるしかない。  商人からすると、朝起きて死んでいても悲しむ対象にはならない。処分しなければいけないのは多少面倒ではあるだろうが。  話を聞いたリリアンは何故か涙ぐんでいた。 「そんな酷い世界があるだなんて」声を詰まらせ、ハンカチーフで目尻を拭った。 「マリユス、今日からは暖かいシーツに包まれて寝るのだ。もう着替えてベッドに入るのも良い」 「エリペール様、それは名案ですわ。マリユスさんもお疲れでしょうし、寝る前のハーブティーを準備いたしますね」  リリアンは両手を組んで歓喜した。再び部屋を出るとエリペールが寝室を見せてくれた。 「ここが私の寝室だ」 「広くて豪華ですね」 「お父様がはりきってデザインしてくださったのだ。早くマリユスに見せたかった」  分厚いマットにふんわりとしたシーツ、天蓋から幾重にも垂れ下がっている柔らかそうな薄布がベッドの周りを取り囲み、眠りの妨げになるものから守ってくれているようだ。 「最近は毎晩リリアンが香を炊いてくれていたけれど、やめてしまった。効果がなかったのだ。こっちに来たまえ」  エリペールは幼児らしい可愛らしい声で、大人のような言葉で喋る。そのアンバランスさが絶妙で、緊張が解れていく。 「君は私の左側に寝てほしいのだ。右側に寝られると、どうも落ち着かない」 「はい……左はどっちですか?」 「こっちだ。そして私に腕をかしてほしい。こうだ」  実際に横になり、エリペールが僕の腕を敷き込むように頭を乗せる。もう片方の腕は背中に回し、エリペールを包み込むような体勢になった。 「あぁ、いい。やはり私の目にくるいはなかった。マリユスはとても良い匂いがしてリラックスできる」 「ありがとうございます」そう返すので精一杯だったが、素直に嬉しくて照れ臭くて耳朶を弄る。  隣で眠るだけかと思っていたが、添い寝とは体を密着させることらしい。静まり返った部屋で、心臓の音がやたら大きく感じた。五月蝿いと言われないかと視線を下げたが、彼はとてもリラックスして僕の胸に顔を埋めている。 「ここで頑張れそうか?」  目を閉じたままエリペールに訊かれ、頷いた。 「ここの人たちは、沢山名前を呼んでくれます。石積みの塔で、僕は自分の名前なんか忘れていました。そう言えばそんな名前があったんだと思い出したくらいです。でもここの人たちは誰も怒らないし、ぶたないし、蹴らない。天国のようなところです」 「あの汚いところでは誰も名前を呼ばないのだな」 「僕は物心ついた時には、もうあの場所で住んでいました。でも今まで名前を呼ばれた記憶はほとんどありません」 「マリユス」 「はい」 「マリユス、マリユス、マリユス」 「はい、どうしました?」  エリペールが繰り返し名前を呼ぶ。  横たわったままこちらを見上げ、得意げにもう一度「マリユス」と名前を呼んだ。 「私に任せろ。毎日たくさんマリユスの名前を呼んでやる。それでマリユスも私の名前をたくさん呼んでくれたまえ。そうすれば、きっと毎日が楽しくなる」  宣言したのち、エリペールは再び僕の胸に顔を埋めた。  心の中で「はい」と返事をする。  胸の奥がじんわりと温かく解れていくのを感じる。    このベッドは本当に最高の寝心地だ。自分の体重でシーツに体が沈んでいく。柔らかいながらもしっかりと弾力があり、体を包み込んでくれる。  ただ布団が暖かいのではなく、エリペールの優しさがそうさせているのではないかと思われた。  このベッドでも寝られないなんて信じ難い。  今にも眠ってしまいそうだ。ぼんやりと視界がぼやけていく。エリペールが眠るまでは目を閉じてはいけない気がした。しかし眠い。寝付けない主人を放っておいて自分だけが眠るなどあってはならない。  眠気と葛藤していると、寝息が聞こえてきた。  目線だけ下に向けると、エリペールが夜着にしがみついたままぐっすりと眠っているではないか。  長いまつ毛が欠伸で出た涙で濡れていた。  心地よいリズムで繰り返される寝息を聞いていると、眠気に抗えず、リリアンが戻って来る前に二人して眠ってしまったのだった。

ともだちにシェアしよう!