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第1話

私は幼少期より、捻くれた餓鬼でした。  なぜ、捻くれていたかというと、学がなかったからだと思います。しかし、馬鹿だったのですが、考える事は好きでした。  しかしどれだけ考えても、結局は馬鹿の考える程度の戯れです。あまり意義のあるものではありませんでした。  その当時の私は、いつも、人はなぜ争うのか。そればかりを考えていました。資本主義が原因のような気がしましたが、そんなことはありませんでした。  なぜ争い、ひいては戦争になるのか。漠然と答えが出たのは、小学校一年生の時でした。  クラスメイトのA君と取っ組み合いの喧嘩をしたのです。A君は私の何が気に食わなかったのか、暴力を振るってきました。そしたら私もやり返します。殴り、髪を引っ張り、蹴り、そんな些細な喧嘩、大人から見れば微笑ましいような喧嘩でしたが、私にとってそれは、戦争なのでした。  全ての尊厳をかけ、握り拳に力を込めました。A君もそうであったでしょう。  喧嘩が終わった後、一番痛い場所は、殴られ、蹴られた場所ではありません。人を殴ってしまった拳が、一番痛むのです。じんじんと骨から響くような痛みを、今でも鈍く思い出せます。  結論を言うと、戦争に意味なんてものはなく、ただただ空しく虚栄のようなものでした。原因だって、特にありません。子供の癇癪とさして変わりません。  学年が上がり、二年生になった頃の話です。  私は、九九ができませんでした。何度言っても、書いても、聞いても、理解することができませんでした。算数の授業で、一人ずつ九九を発表するのですが、私はいつも、四の段で数字が出てこなくなるのでした。  言葉が詰まると、クラスの中では笑いが起こり、それに反して先生は顔を真っ赤にして、鬼のような形相で私を叱るのでした。  一番ショックなのは、覚える気がないから覚えられないのだと、あたかも私にやる気がないからできないのだと言い張ることでした。  違います。このクラスの中でも、最も九九を覚えようとしたのはぼくです。その必死の主張は受け入れられず、こっぴどく怒られて、教室の中でえんえんと泣いてしまったのです。  南無妙法蓮華経を唱えるように、九九を唱えました。なんとか九九を覚えられましたが、九九が九九たる理由を、算数の観点からというと、全く私は甚だ理解の及ばないものだと決めつけてしまったのです。  歌を歌わされる授業でも、楽器を演奏させる授業でも、絵を描かせる授業でも、英語を練習する授業でも、国語教科書を音読する授業でも、度々同じよう、晒し首にされるのでした。  唯一、体育だけは得意でした。それでも体が小さかったので、先天性による才能はなく、周りの少年たちと同じように、野球選手にだとか、サッカー選手にだとか、そんな大志は抱けなかったのです。  ある日、跳び箱の授業で、忌々しい事件が起こりました。  隣の席のB子さんは、跳び箱が苦手のようでした。私は高い跳び箱をひょいひょいと飛び上がり、そのB子さんを眺めていました。  B子さんが必死に踏み切りますが、こてんと跳び箱の上に座ってしまうだけでした。そのたびに皆は笑います。私は笑いこそしなかったものの、安堵感を得ていました。  体育の授業だけは、晒し首にならずに済むと。  その時に思ったのです。  B子さんは、あの恥辱の渦の中にいる。どうしようもない劣悪な環境。精神の全てを削ぎ落とされるような渦の中に。  それを知っていた上で安堵している自分に、嫌悪感を覚えました。人間の誰にでもある、下を覗いて安堵する醜い感情が、私だけのものだと思えて仕方がなかったのです。  B子さんに跳び箱を教えました。手のつき方、走り方、飛び方、B子さんはあっという間に跳び箱を飛べるようになったのです。  私とは違う人間だと、深く絶望したのを覚えています。喜びを露わにしているB子さんを前に、私は絶望をひた隠しにしてヘラヘラと笑い、共に喜んだようにみせました。  自分が孤独なのだと、その時にハッキリと感じました。  「ねえ、ポケモンをやっている?」B子さんに言われたのは、それから一週間も経たないうちでした。私は兄のお下がりのゲームボーイを持っていたので頷きました。ポケモンもなぜか、クリスマスのプレゼントに買ってもらっていたのです。  「今度ポケモンを交換しましょう、ふふ、〇〇レジデンスにお越しくださいな」それは、ここいらで有名な高級マンションでした。近所の人間なら、誰でも名前は知っています。マンションの下には公園があり、みなそこで遊ぶのです。  その約束の日付を決めてから、私はポケモンを再開しました。私にとってポケモンは、勉学と同等くらいに難しく思われました。クラスで恥を晒されないだけ、幾分かましではあったでしょう。  しまってあったゲームボーイを取り出して、電源をつけました。せっかく買ったのだからと、しばらくは遊んでいましたが、結局進め方が分からずに放置してしまったのです。  一番最初の街で、最初に貰ったポケモンが手持ちにいるだけでした。私は、遊び方が分からずに、最初の街で、ひたすらポケモンと戦っていたのです。ポケモンが弱いと馬鹿にされるのではないか、そんな不安が脳裏を過り、その作業を繰り返すのでした。  約束の日、私は走って家に帰り、徐にゲームボーイを取り出しました。ゲームボーイを両手で抱え、マンションの公園へと走ります。  ベンチだけが置いてある後は何も無い公園に、B子さんは既に座って待っていました。  私は早速その隣に座って、ゲームボーイの電源を入れると「まだ一つもバッヂを持っていないのですね」B子さんは笑いました。 「バッヂ? なんだいそりゃあ」と、聞き返したらバッヂの入手方法を教えてくれました。  二人で、日が暮れるまでゲームをして遊びました。私はその時にやっと、ポケモンの遊び方が分かったのです。  しかしその日以降、ゲームの電源を入れることはありませんでした。  B子さんの私に対する興味というのは、それこそ、自然の摂理とも言うべきでしょうか。季節が変わるようにスッと消えていってしまいました。  小学校三年生にもなると、恥をかくことに慣れてきてしまいました。しかし大衆の前で笑われるのは、そりゃあ気持ちの良いものではありません。  クラスで人気者のC君は、いつも道化を演じて笑われていました。私はなんとなく親近感に似た感情を覚えましたが、すぐに違うと感じました。  彼は周りを楽しませて笑わせていまいしたが、私はただの笑い者なのでした。親近感を感じていたC君が、自分とは一番遠い者だと理解したのです。  私の恥の上塗り生活は、死ぬまで永遠に続くのでしたが、そのくだらない人生の中にも転機は訪れるのです。  中学校一年の四月です。  朝、部活動の練習をしているサッカー部の連中は、登校してくる陰気な生徒にボールをぶつける遊びをしていました。彼らのサッカーのルールは、ゴールに入れれば一点、顔に当てれば百点。幼稚なスポーツです。  私にもボールは飛んでくるのですが、避けながら進みました。しかし、目の前の上級生の頭に当たり、ふわりと倒れてしまったのです。  私は駆け寄って、大丈夫かと声をかけました。  その少年は、日光に肌を晒したことがないのかと思うほど、病的なまでに白い肌をしていました。 「ああ、大丈夫だよ。ああ、大丈夫」顔を押さえながら、しばらくは蹲ったままでいました。男にしては艶のある真っ直ぐな黒髪を、顔の周りに漂わせていました。  ようやく痛みがひいたのか、顔を上げて私を見ました。 「ああ、ありがとう」全く感情のこもってない、淡白な言葉を吐かれました。  私は衝撃でした。その男の顔は、私が今まで見てきた中で、一番美しかったのです。憂いを纏わせた表情と、鋭い瞳に睨まれ、背筋にゾクゾクと薄く撫でられるような快楽が走り、首の付け根から流れてきた衝撃は股間にも。私は勃起してしまったのです。  それが、私の人生で唯一の友人と呼べる、杉原との邂逅の瞬間でした。  美しい顔をした杉原は、立ち上がると、何事も無かったかのように歩き始めました。病弱に見えた杉原に、保健室に行った方がいい、送って行くから。それは、私の杉原に対する興味がそうさせたのでしょう。別段、保健室に行って手当てを受けるような怪我など、していなかったのですから。  「君は心配性だな、なんて事ないよ」フッと薄く笑いました。鋭い目というのは笑うと一点して、愛嬌のある眼差しになる事を、初めて知りました。  私は、サッカーボールが飛んでくる左側を歩きながら、矢継ぎ早に話しかけました。初めて会う上級生に馴れ馴れしく、鬱陶しいと思った事でしょう。  杉原との出会いは、それほど、運命なんて薄っぺらい言葉を使いたくなるほどに、昂っていたのです。実際に運命だったのでしょう、今になってそう思います。  その日は授業に身が入らず、一日中上の空でした。  放課後、私たち一年生は、入る部活道を選ばなくてはいけませんでした。自由に部活動を見て回るのです。私は杉原を探しました。部活動などはどうでもよく、杉原と共にいる方がよほど大事に思われたのです。  あの病的な肌で、運動部はないだろう。文芸部、吹奏楽部、手芸部、軽音部、将棋部、見て回りましたが、杉原は居ませんでした。  私が見たのは、幻想だったのでしょうか。そうだとしても違和感はなく、むしろ納得してしまいそうな、儚さを孕んでいました。  部活動のパンフレットを見ていると、美術部というのがありました。三階にいた私は急いで一階まで駆け下りて、美術室に向かいました。  扉を開き、失礼します、大きな声で言いました。私には確信があったのです。  杉原は、一番後ろにいました。ハッと息を飲みます、白い石膏像と並んでいても、引けを取らないくらいにやはり美しく、艶のある黒髪が唯一となり、より一層杉原を引き立てたのです。 「こんにちは。入部希望者かな、おや、今朝の。おいで」手招きをされました。私は飼い主を見つけた犬のように走り、目の前にお行儀よく座りました。   「入部希望かい?」杉原に言われ、何度も首を縦に振りました。好きな画家を問われましたが、私は画家を一人も知りませんでした。ゴッホやダヴィンチ、北斎など、教科書に載っている有名な画家の名前なら知っていましたが、名前を知っているだけです。  何も考えずにここまでやって来る、厚かましく無知な私でしたが、そこでようやく羞恥が湧いて顔を伏せました。  杉原は笑い、私にスケッチブックを渡しました。お互いを描こう。そう言って鉛筆を走らせます。私は絵が得意ではありませんでしたが、その美しさを少しでも書き写そうと鉛筆を握りました。  他愛もない話、そうですね。私はこの美術室に誰も居ないので疑問を持ち、それを杉原に投げかけました。 「寂しい部活さ、僕一人しかいない」私は、大変嬉しく思いました。つまり、私以外の入部希望者がいなければ、杉原と二人で過ごせるのですから。  去年までは先輩が居たらしいのですが、卒業して一人になってしまったそうです。 「君が来てくれてよかった。美術部が消えずにすむ」杉原は鉛筆を置きました。私も描き終わっていたのですが、とてもじゃありませんが、人に見せられる物ではありません。  オドオドしている私のスケッチブックを取り、自分が描いていたスケッチブックを渡してきました。 「僕はこんなに醜いかい?」笑いながら冗談のように、私の絵の下手さを揶揄うように言ったのでしょうが、私は本当に申し訳なくなったのを覚えています。  違うのです。ぼくの絵があまりにも下手で、貴方の美しさを描き写す事ができなかったのです。私は面と向かって美しいなど、恥ずかしくて言える質ではありませんでしたが、呼吸をするように言葉を吐き出していたのです。 「大丈夫さ、味のあるいい絵だ」杉原はそんな世辞を言うのでした。それにしても杉原が書いた絵は、退廃的に暴力的で、私なのに私ではない、内面を覗いて描いたような絵を描くのです。鳥肌が立ち、全身を掻き毟りたくなる衝動に駆られました。  内にあった興味が畏怖に塗り替えられるような。真っ黒い色でしたが、それはそれは、吸い込まれてしまいそうな、漆のような黒でした。私は塗り替えられてしまったのです。  この絵を頂いても宜しいでしょうか? 私は杉原が書いた絵を、戒めや教訓のように感じ、糧としたかったのです。あとは、私のような醜い存在が、杉原のスケッチブックにいる事が許せなかったのでしょう。もしかしたら、自分ではない絵の自分が杉原の側に居るので、嫉妬していたのかもしれません。その当時のあやふやな感情を、今は思い出すことができないのです。  杉原はスケッチブックから、私の絵を破いて、手渡してくれました。その絵は生涯の宝物になるのでした。観れば出会いを思い出せたので。それが唯一無二、私の生きていた証明です。  部活動を終わりを知らせる鐘が鳴りました。パタン、小気味よい音を立てスケッチブックを閉じました。杉原は立ち上がり、背筋と手を伸ばして、何度か腰を回しました。 「帰ろうか」カバンを肩に掛け、優しく微笑を浮かべました。 校門を抜け、杉原と並んで下校しました。十分ほど歩くと、小さい煙草屋があってすぐ正面に交差点がありました。  私は右に、杉原は左に、手を振って別れました。  家に帰ると、母親に持って帰ってきた絵を驚かれました。そこで私は、美術部に入ることを打ち明けたのです。怪訝な表情を浮かべられこそしましたが、反対されはしませんでした。  中学校の美術部なんて女子が入る部活だと母は思っていたようで、それが古い価値観なのか時代のせいなのかは分かりませんが、私が絵を描いてもらって女子に惚れ込んだのだと勘違いしていました。  それでもまあ、惚れ込んだことに間違いはないでしょう。しかし私は恥ずかしかったので、部員は美しい男性が一人だと、一応の弁明をしました。  「その部長さんのお名前は?」言われ、お互いに自己紹介をしていないことに気がつきました。名前も名乗らなかった自分に頭を抱えました。そんな中母は続けざまに「貴方は副部長になるのかしら?」と言うのです。  気が重くなる一言でした。肩に重石を載せられたような、私は背中が丸まってしまいました。まだ決まったわけではありませんが、その肩書は余りにも分不相応に感じられました。  私は目眩でクラクラしてしまいましたが、描いてもらった絵を自室へ飾りました。その絵を見ていると、本当に時間はあっという間に過ぎ、宵は三日月が浮かんでいたことを思い出します。私は初めて、月を見たような気がしたのです。  朝、私は交差点で杉原を待ちました。煙草屋の婆さんと他愛のない話をしていると、「わざわざ待っていなくてもいいのに」呆れたように両手を軽く上げて言いました。  私はグラウンドの横を通り抜ける時、左を歩きました。昨日ボールに当たり蹲っている姿を思い出すと、どうしても不安になるのです。  ゴールキーパーのように飛んできたボールを弾き、杉原に被害が出ないよう努めました。  放課後になると、私は美術室に走りました。  杉原よりも早く来てしまい、大人しく背筋を伸ばして座って待ちました。ドアが音を立てて響きました。 「今日は課外活動をしよう」開口一番に言い、悪い笑みを浮かべました。  顧問の先生には許可を得たらしく、私を連れて学校の外に出ました。学校の裏には工場が密集していて、濁った川が流れていました。  土手を越えると、腰まで伸びた草が生い茂っているのですが、一箇所だけミステリーサークルのように禿げた地面がありました。  二三メートルの円形でした。岩に近い石がいくつか置いてあり、杉原はそこへ座りました。隣の石をポンポンと叩くので、私は隣に腰を下ろしました。  濁った川は、腐臭を放っていましたがそこまで気になりませんでした。 「綺麗じゃないからいいのさ」杉原は何処を見ているのか、気障な台詞を吐いてスケッチブックを取り出しました。  そこで私はようやく自己を紹介し、杉原の名前を知りました。杉原。頭と心で反芻し、とてもしっくりとくる名前だと思いました。  話を続けていると「僕が部長で、君が副部長だよ。当たり前じゃないか」私のプレッシャーに押しつぶされそうな姿を見て、杉原は呵呵と笑いました。笑い過ぎて眼尻に浮かんでくる涙を、人差し指の腹でピンと払いました。  その動作は杉原の癖のでした。静かそうな男でしたが、よく笑いました。少し俯きながら、ピンと弾くのです。私はその癖が好きでした。笑い者に生まれてよかったと、私は初めて思えたのです。  杉原はスケッチブックをしまうと、歩いて川へと近づきました。足下を見ながらフラフラと歩き、何かを見つけると蹲み込んでしまいました。  立ち上がった手には、丸くて薄い石が握られていたのです。杉原は石を、横投げで川に放り投げました。  ちょんちょんと石は何度も跳ね、水面に重なり合うような波紋が広がりました。 「一緒に水切りをしよう」杉原に言われ、私も石を探しました。  私の石のは全く跳ねず、吸い込まれるように消えていくのです。その度に杉原は笑い、私は不貞腐れ、それがより杉原を笑わせるのでした。 「自殺は神が人間に与えた、究極の自己の表現だと思うんだ。」  石に座り夕焼けを眺め、杉原は突如として言ったのです。その言葉は私の胸に、生涯淀んでいました。画家も、作家も、音楽家も、自己の表現を生業としている人間には、自殺のエピソードがついて回ります。  杉原も絵を描く人間だけあって、そんなことを考えていたのでしょう。その時の私は、小難しい話をするのだな、と、呑気な気持ちでポカンとしていました。  杉原はおもむろに私の髪をグチャグチャに掻き混ぜて「帰ろうか」石から立ち上がりました。差し伸べられた手を握ると、グイと引っ張られました。  私があと二年早く生まれていたら、杉原の艶のある髪に触れられたのでしょうか。年下の私は、眺めることが精一杯でした。  煙草屋の前。「さようなら。明日は待ってなくていいから」杉原は疲れたように言い、私たちは左右へ分かれました。  家に帰ってローファーを脱ぐと、土手の芝が入っていました。家の外に出て、ローファーの踵を叩いてひっくり返しました。風に乗せられて寂しげに流れいく芝生の切れ端を、私は見えなくなるまで見守っていました。     それから私たちは毎日、共に登校しました。いつも私が先に煙草屋の前で待っていたのですが、一度だけ、遅れてしまったことがありました。  杉原は、毎日待たなくていい、と言うのに、その日は私が来るまで待っていてくれたのです。 「先輩を待たせるとは、一体どういう了見だ?」ケラケラと笑っていました。  六月になりました。私はまだ、学校生活に慣れず、クラスにも馴染めずに、孤立していました。  私は美術室で、絵を描きませんでした。学校の授業についていけなかったので、部活動の時間は授業の復習をしていました。  杉原何も言わずに見守ってくれていましたが、私が英語の勉強をしているときに、遂に話しかけてきました。 「今から言う事は、全く悪気は無いし、傷ついたら申し訳ないのだけれど、聞いてくれるか?  君はもしかしたら発達障害を患っているかもしれない。話を聞いて、一緒に居て、そう思った。自分でも気になっていると言っていたし、本当に気になるのなら、一度病院で調べてみるといいかもしれない。  自分の持つ個性に名前がつく事は、嫌になるかもしれないが、楽になるかもしれない。どう転ぶかは分からないが、結局、一生付き合っていかなければならない問題には違いない。  よく考えてから、ご両親に相談してみてはどうだ? 僕で良ければ相談に乗るよ、唯一の可愛い後輩だ」  今までずっと、私の無能は怠惰なせいだと言われ続けてきました。それが違う可能性があると提示され、すぐにでも調べてみたく思いました。  物事の結果を否定されるのは納得できたのですが、過程を否定されることはどうしても辛く、呪いのように纏わり付くのです。  私は家に帰ってから、早速母に相談しました。自分で自分を障害者と呼ぶことと、私を障害者かもしれないとと言った杉原に激怒しました。果ては、杉原の人格まで否定する始末です。  いくら母でも、それだけは許せなかったのです。初めて、怒鳴り合うような口論をして、なんとか母を折れさせて、私は精神科を受診する運びとなりました。それからしばらく、母と口を聞かなくなりました。  結局私は、やはりと言うべきでしょうか、発達障害でした。その中でも、学習障害と呼ばれているもので、教科書を読めなかったり、九九を覚えることができなかったり、あまつさえ平仮名を書けなかったのもそのせいだったのです。他にも併発していたそうですが、私は大して気になりませんでした。  その事実だけが免罪符のように、私を救ってくれたのです。神が、冷たい沼の奥深くに沈んでいる私を、掬い上げてくれたようでした。  ただ、母は変わってしまいました。私にひたすら泣きながら謝り、それは縋っているようでした。私は自分のディスアドバンテージを、生涯どうでもいいと思っていました。  母は胡散臭い発達障害の本を、家で読むようになったのです。偉人の名前をつらつらと並べては、彼らは発達障害の疑いがあったと嬉しそうに言うのです。それは、私に対して、精神に対する傷害でした。その期待は、重過ぎたのです。  無理矢理、幼少期のエピソードなどの類似点を探しては、嬉々として一々私に報告してくるのです。母が元から阿呆だったのか、私が母を阿呆にしてしまったのか分かりませんが、どうやら前者だったと思います。  私の人生はその日を境に変わったようで、あまり変わってなかったと思います。  ただ、一番嬉しかったのは、教科書の読み方を教えてもらったことです。学校の先生にではありません、病院の先生にです。  読んでいる行の文字以外は、ほかの白紙で隠してしまうのです。一行だけに集中できて、随分と捗るようになりました。  しかしそんな読み方をしているのは、クラスで私しかいません。周りの連中にはよく、知恵遅れと揶揄されました。私はそれでも、強くなった気でいました。障害者という強力な鎧を纏ったような、いえ、違います、鎧を脱ぎ捨て障害者であることを曝け出し、自分の身を守ったのです。  杉原だけは唯一、私に全く態度を変えませんでした。どれだけ私の心の支えになったでしょうか、感謝してもしきれません。 「障害は決してアドバンテージになるものだとは限らないのにな」しみじみと、今思い出しても心が温かくなり、大粒の涙がポロポロと溢れてしまいます。  杉原は基本的に大人びているのですが、時折中学生らしい一面が顔を覗かせるのです。私はそんな杉原が好きでした。  美術室でルービックキューブを取り出し、ゆっくりガチャガチャと色をバラバラにしてから、私に渡してきました。 「一面でいいから揃えてみな」言われ私は色を揃えようとしました。  十分もかけて真っ白い一面を揃えました。杉原に渡すと机の上に置いて、ルービックキューブを描き始めました。色の揃ったルービックキューブを画用紙に描いた後、裏に、色の揃ってないルービックキューブの絵を描きました。  私は美術の美の字も知りませんでしたが、二面性を両面に描くことは面白いと思ったのです。色の揃っているように見える世界も、他の面から見れば実はしっちゃかめっちゃかなのではないかと。あえて曝け出そうとはせずに、隠すように裏面に描いているのですから。崇高な皮肉は、胸に突き刺さりました。  中学生が考えそうな下らないことだ。そんな評価をさせる余地さえも、わざと残しているのではないか。杉原はオゾンと同じくらい高い位置から、嘲り見下しているのでないかと思いました。  杉原には懇意にしていただきました。  私が杉原先輩や、部長と呼ぼうとすると「距離を感じさせる呼び方をしないでくれよ、頼むから」なんて、寂しそうに言うのです。ですから私は敬称は内に秘め、有り余る尊敬の念をぶつけていました。  なぜ杉原は私を懇意にしてくれたのでしょうか。今になって疑問に思うのです。  馬鹿な方が可愛いと言いますが、もしその言葉が本当なら、私は途轍もなく可愛かったでしょう。度を越した馬鹿でしたので。  しかしそうではなかったと思います。杉原と私は土手でキャッチボールをしたり、可憐な花を眺めたり、課外活動と称して、休みの日に二人で美術館に行ったことすらあるのです。それは全て、杉原から誘いを受けたのでした。  杉原も周りの中学生と同じように、友人と遊んだり、恋仲と愛を育んだりといった生活は、送っていなかったと記憶しています。  杉原ほどの優れた容姿なら、人気者になってもおかしくないような気がしまたが、きっと中学生にはあの憂いと色気を理解できなかったのだと思います。近寄りがたい雰囲気を醸し出していましたし、砥いだナイフのような目つきでした。しかし私は人との距離感が全く掴めなかったので、杉原の懐へと潜り込めたのでしょう。  これもまた、私の障害のお陰です。やはり私の障害は、私の人生を豊かにしてくれていたのです。アドバンテージなんて言葉では測れないほど。  杉原はいつも、油絵が描きたいとぼやいていました。油絵はお金がかかるので、暴力的にアクリル絵の具を塗りたくっていました。  その作品の中の一つが、コンクールで特別賞を獲りました。雨に近い霙が降っていた二月の半ば、珍しく顧問の先生がやって来たかと思えば、坦々と結果だけを伝えました。  その結果を聞いて、彫刻刀で削られたボロボロの机に突っ伏しました。木目を指で撫でながら、大きなため息を一つ吐きました。 「父さんも認めてくれるだろうか」杉原は力の抜けた声で言いました。絵の勉強をしたかったそうですが、両親が認めてくれなかったと話していたのを覚えています。両親に反対される理由の、安定した職業に就いてほしい、その親心は分かります。なので杉原は結果で示したのでしょう。自分には絵の才能があるぞ、と。  数日後に「学業と両立できるなら、続けてもいいとさ」気障ったらしい笑みを浮かべて嬉しそうだったので、私まで嬉しくなりました。  週末に展示されている絵を観に行きました。三つほど離れた市の市民会館へバスと電車を乗り継いで、一時間ほどでした。  大々的に飾ってある絵は、杉原が描いた絵の中ではお上品な絵で、賞を取るために描いたような絵でした。そうでしょう? と聞いてみても笑ってごまかされるだけで、本当のことは教えてくれませんでした。  他の絵を観て回って三十分、二人で熱いうどんを食べてから帰宅しました。  部活動のパンフレットを作る為に、二人で写真を撮りました。杉原が賞状を持って椅子に座り、私はその後ろに立ちました。  私は配られたパンフレットの写真だけを切り抜いて、自室に飾りました。それも、私の数少ない宝の一つです。  私は常日頃から、杉原に美しい美しいと言っていました。杉原は自分の中性的な容姿をコンプレックスを抱いていたようで、それを打ち明けられました。おんなおとことクラスで呼ばれて揶揄されていると言うのです。  それから私は杉原に美しいと言わなくなり、内に秘めるようになりました。  心の中では、おんなおとこと呼ばれる故も納得できました。本当に女より美しく、たまに見せる幼さは、可愛らしいと思えるのです。  時間があれば、切り抜いた写真を眺めていました。  美しい人を美しいと思う気持ちも、同性となれば異端となってしまう時代でした。世間では認められていなかった同性愛も、私は障害者だから仕方がないと、開き直ることができました。障害を認められてから、私が強くなった気がする故でした。  ただ私は、同性愛者ではなかったし、異性愛者でもなかったのです。杉原に抱いていた感情は、親愛ではなく敬愛でした。  劣情を抱くことさえ恐れ多い存在だったのですから。なんと例えるのが一番でしょうか、信仰と不淫、その言葉が一番当てはまるでしょう。  一度だけ、私の中学校生活にも事件と呼べる出来事が起きました。目的までは覚えていませんが、杉原に話があって教室へ足を運びました。  廊下で騒いでいる男が二人、それと対面するように杉原がいました。男の片方の手には、学生鞄が握られており、それを二階の窓から外に放り投げました。それは杉原の鞄だったのです。ナイフのような鋭い目を潤ませて、階段を降りていきました。私の中の何かがおかしくなり、目の前が燃え上がるようでした。私は男たちの元へ走り、その時にやっと、自分の心に湧いた感情を理解できたのです。怒り、では足りません、憤怒と呼べば足りるのでしょうか、私はその男の顔面を殴りつけました。戦争の始まりです。  結果は目に見えた戦争でした。上級生二人に敵うはずもなく、顔を殴られ、腹を蹴られ、あっとういうまに蹲ってしまいました。あとは酷いものです。痛みを感じなくなるまで蹴られ、爪先が身体にめり込む感触だけがありました。顔を蹴られた時にはついに、意識を失ってしまったのです。  目が覚めたときは、真っ白い天井が見え、鼻に付く消毒液の匂いがしました。保健室の先生に何があったのかと聞かれ、私は答えに困ってしまいました。しばらくジッとしていなさい。言われ、もう一度横になりました。  鐘が鳴ってすぐ、廊下に足音が響き保健室のドアが勢いよく開かれました。杉原が立ってこちらをみていました。  ベッドの縁に腰を下ろして「大丈夫か? 心配したよ」崩れてしまいそうな表情と、掠れた声で言いました。大丈夫と答えてから、他愛もない話をしました。  杉原はいきなり私の手を握り、真っ直ぐ目線で貫いてきました。 「僕の為に振りなれない拳を振るってくれたのだろう。それは嬉しいよ。ありがとう。  ただ僕は、お前のこんな姿を見たくはなかった。その殴ってやろうという気持ちを抑えて、僕の為にその気持ちさえ押さえてくれたら、もっと嬉しかったよ。」  頰に手を添えられました。肌が触れ合う感触はありません。私の頰にガーゼのような布が貼られていることに、初めて気がつきました。  憤怒さえも押さえられる気持ちを持てたら、それは確かに一番の想いでしょう。私は考えもしませんでした。  それからというもの、道を踏み外しそうになったときに言葉を思い出して、どうにか踏み止まれたのです。どんな思想や哲学よりも大事なものでした。  二人の穏やかな生活は取り戻せました。何処の誰かはわかりませんが、あの知恵遅れは実は人を殺したことがある、知恵遅れだから捕まってないだけだ。手を出すのはやめておけ、刺されるぞ。と、事実無根の噂を流したのです。それから、二人にちょっかいを掛けてくる連中はいなくなりました。  穏やかな中学校生活を、享受できたのです。  幼い私にとって、世界の全ては杉原で形成されていると言っても過言ではありません。杉原が中学校を卒業してからは、世界が音をたてて崩れ落ちるようでした。  杉原は、「卒業してからも会おう」そう言ってくれたのですが、私には建前に聞こえて仕方がなかったのです。  しかし不安は杞憂で、杉原は高校に進学してからも、私に接してくれるのでした  しかし杉原は、隣の市の高校に進学したのと、油絵を描く為の費用を工面するためのバイトを初めてしまったので、会える時間は減ってしまいました。  杉原は見かけによらず、真面目な高校生ではありませんでした。電車で通学するのが面倒くさいと言い、原付バイクの免許を取得し中古のカブを買っていました。  原付バイクだと言うのに、私を後ろに乗せて遠出をしたのは良い思い出です。土手沿いを走り風を感じ、それが本当に気持ち良くて、私もバイクを買おうと決意しました。  人生というのものは、楽しいことだけではありません。呑気に生きてきた私でしたが、将来や進路といった、学生にとって在り来たりの言葉に、頭を悩ませるのでした。  担任の先生に進路指導をいただいたとき、あなたはこのままでは真面な職業に就けず、ロクな人生を送れないですよ。真っ当で忌憚のない意見を仰りました。  私は文字を読めなかったし、数字は頭の中でグシャグシャになってしまうので、最初から知識労働は諦めていました。私の父は所謂土方でした。父の、肉体労働ならいくらでも働き口があるから安心しろ。私はその言葉を盲信していました。  しかし担任の先生とは話が食い違うのです。すぐに分かったのですが、肉体労働は、先生の価値観に於いて真面な職業ではなかったのです。  私は何よりも恐ろしかったのです。先生の言葉ではありません。父を軽蔑してしまった自分が、何よりも恐ろしかったのです。  先生の言った通り、私はロクな人生を送れませんでした。親を恥じてしまった自分を恥じ、親孝行をしようと思ったとき、余計なことはしなくていいから、孫の顔を見せて欲しい。と、私は絶望しました。笑顔を張り付けて応え、実家を逃げるように後にしました。  わたしは中学校を卒業してから、割り箸工場に入社しました。結局は父の言葉も、健常者に限った話でした。  障害者就業支援施設で斡旋されて、実家を離れて寮に住みました。それからは、毎日八時間の間、障害者の方が作った割り箸です。そう書かれた袋に割り箸を詰める仕事に従事しました。  意思の疎通が図れない障害を持った方の面倒をみることも、仕事のうちに含まれていたと思います。  毎日箸を作り、隔週に一度杉原と飯を食べに行く。そんな生活を、五年間ほど送ったでしょう。悪くないと思えたのは、偏に杉原のお陰でした。  杉原の学生生活の話と、描いた絵を私に見せてくれることが、少ない楽しみでした。  空は澄んで薄い青が広がる四月の半ば、私の元に、心臓が止まるような知らせがやって来ました。  杉原が倒れた。私は仕事をほっぽり出して、病院へと向かいました。ベッドの上で上体を起こし、血が通ってないような青白い肌、生気が感じられず今にも消えてしまいそうでした。  杉原は過労で倒れたらしいのです。大学の学費や画材を購入するために遅くまで働き、寝る間も惜しんで絵を描いていたのです。  ベッドの横に腰を下ろし、杉原の手を握りました。氷のように冷たい手でした。  子供のように泣いてしまいました。杉原に何かあったら、私は生きてはいけないと、杉原は大袈裟だと笑うのです。  その時に初めて、杉原に怒りの気持ちが湧きました。健康に気を使って生きてほしい、怒鳴るのなんて簡単でした。ただ、思いやりの気持ちなんてものは、この世で最も無意味だと私は知っていました。  私は五年間で貯めた金を、杉原に渡しました。寮に暮らし、趣味などは何もなく、賃金の殆どは貯金に回していたので、学生を一人養えるだけの金額はあったと思います。  私にとって金は、数字が書いてある紙。それ以上でもそれ以下でもありませんでした。必要としている人、それも杉原に使ってもらえるのなら、この上ない喜びです。  杉原は当然受け取りを拒否しました。わたしもムキになっていたので、受け取らなければ燃やしてしまうと、子供じみたことを言っていました。  一時間ほどの押し問答の末、「絶対に返すから」そう言って受け取ってくれました。返さなくて良いですから、一枚絵を描いて欲しいのです。私は頼みました。  杉原は鋭い瞳を丸めて、「利子で描いてやる」微笑んで言いました。  一年半後、私が聞いたこともないくらいとんでもない賞を、杉原は受賞しました。噂を聞いて手に取った美術系の雑誌に、杉原の名前が載っていました。  物凄く嬉しかったのですが、遠くに行ってしまったようで少し寂しかったのです。  それから杉原に、アトリエのような場所へ呼び出されました。杉原の周りには、人が増えていました。同年代くらいの人から、御年配の方まで。  「よく来てくれたね」挨拶も早々に、パンパンに膨らんだ封筒を渡されました。  私はそれを受け取ってしまうと、全てが終わるのではないか。蔓延る不安がどんどん膨らみました。しかし、杉原は私に押し付けて「お前のおかげだよ」今まで見せてくれた表情の中で、一番優しく笑いました。  生まれてくる人間の全てに何か役目があるとしたら、私の役目はそこで終わったのでしょう。そんな気がしました。  絵を描くから、もう少し待っていてくれ。その日は、アトリエにいた方達と一緒に食事に行きました。立派な定食屋に連れられ、品書きを見ました。  達筆な字で細かく書き連ねられた文字を、私の頭は受け入れませんでした。文字を読むときの為に持っている厚紙を取り出して、隠しながら一文字ずつ指でなぞり、文字を読みました。  君は文字が読めないのかい? 杉原の連れの一人に言われ、ええ、色々障害があって、なので杉原には随分世話になりました。  おお、流石は杉原だ。障害者に哀れみ接するなど、人格者たる行いだ。連れ達はパチパチと手を叩き、音を鳴らしました。そうだ、杉原は人格者だ! 私は、心の中で賛同していました。  皆、私と杉原の思い出話を聞いてくるのです。私の障害について、根掘り葉掘り聞いてくるからでしょう、杉原は辛そうな顔をしていました。なのでなるべく、なんて事のない日常を話すようにしました。  杉原は画家の仲間入りを果たし、忙しくなったのでしょう。以前と同じように二人で会って話す機会は、ほとんどなくなってしまいました。  雑誌の記者の方などもいました。その記者はどうしても、私の障害と杉原の感動ポルノのような話を聞き出そうと必死になっていました。杉原はそれが、二人の思い出を土足で踏み荒らされる行為が、どうしても嫌だったのでしょう。私に気を遣い、自身から遠ざけるようになったのです。  それから半年間、一度も会うことはありませんでした。約束の絵が書けたから、取りに来ないか? 連絡が来ました。  絵も勿論ですが、杉原に会えることがどんなに嬉しかったか。電車を乗り継いでアトリエに向かい、杉原に会いました。  艶のある髪を肩まで伸ばし、それを一つに縛っていました。あまりの美しさと、昔からの画家の風格の開花で、もう私とは別世界の人間に思えました。  丸いテーブルを二人で囲み、杉原はブランデーとグラスを二つテーブルに置きました。グラスに注がれ、乾杯と軽やかに高い音を響かせると、舐めるようにブランデーを飲みました。  安い酒を二人で浴びるように下品に飲んでいたことが、昔の思い出になってしまいました。私は上品な酒の嗜みかたを知らなかったので、杉原の真似をして舐めるように唇に触れました。 「どうだ、最近の調子は?」 「変わりませんよ毎日使い捨ての箸を作っているだけです。杉原は?」 「僕も変わらないさ、毎日絵を描いているだけだ」  三十分ほど他愛もない話をしたでしょうか。杉原は立ち上がりF4サイズの小さな絵を持ってきて、私に手渡しました。  抽象的な天使と、倒れた人間の絵です。杉原は中学校時代から、宗教画を好んで描きました。力強いのに、儚い絵でした。白や青などの鮮やかで明るいを色を基調としているのに、どこか退廃的で、悲壮という言葉から搾り取った青色を使ったのではないかと錯覚してしまうほどです。私は時間を忘れて、絵を眺めていました。 「気に入ってくれたか?」どれだけの時間が経ったのでしょうか、杉原に話かけられ、私は頷いて応えました。ならよかったよ。杉原はグラスに口をつけてから微笑みました。  人には、出会いがあれば別れもある、必然です。今日がその別れだろうと、漠然と思いました。  寮に帰ってから、絵画を飾りました。中学生時代に描いてくれた私の肖像画、二人で写った写真、天使と人の絵画、その三つが私の生涯の宝です。後は何もありません。  それからの私は、安い酒を浴びながら、その宝を眺めるばかりでした。私の人生は、過去にしかありません。  唯一の楽しみは、美術系の雑誌を手に取って杉原の名前が載ってないかを探すことでした。  二年ほど経った頃でしょうか、生きる実感を無くし、亡者ともゾンビとも化して、私はただ緩やかな自殺をしながら、身が腐るまでを待っていました。私が住んでいた寮は、側からはモルグと呼ばれていたので、まさに私の現在を表すにぴったりでした。  ある日、カウンセラーの先生に、あなたは能動的に活動した方がいいと言われ、障害者支援の集まりに半ば強制的に参加させられる運びとなりました。  そして、私はその集まりの中で、一人の女性と出会ったのです。近くの大学に通う女子大生で、ボランテイアの活動として、その集まりに参加していたのです。  その集まりの中で、私とは生半可に意思の疎通が図れてしまったからでしょう、私を可哀想だと言いました。  生きるのが辛いでしょう、大変でしょう、本当に可哀想。と何度も言い、同情されました。しかしY子さんは、私を使って自分を慰めているだけでした。  私もその集いに参加しなければ良いのに、わざわざ参加して、可哀想だと何度も何度も言われ、彼女を慰めてあげるのでした。  何故かY子さんと話すようになり、福祉系の仕事に就きたいと話してくれました。あぁ、なるほど。点数稼ぎの為にこんな事をやっているのか、口には出しませんが、心の中で思いました。  しかし、一緒にいるうちに彼女の持つ慈悲の心は、極めて純粋に近いことがわかりました。その純粋さを感じるたびに、私は本当に可哀想な存在なのかと、自問自答を繰り返すようになりました。  私は気が狂いそうになって、この世で最も下劣で最低な方法を使い、彼女の慈悲を確かめたのです。  例の如く集いの中で、可哀想可哀想と言われたので、私は可哀想で、今まで満足に生きれたことがありません。後生です、私と一晩を共にしてもらってもよろしいですか?  私は怒鳴られて、打たれて、それで満足したかったのです。彼女に自分が放った言葉は、なんと浅ましく、薄っぺらい戯言で、虚飾なのかと気がついて欲しかったのです。そして、Y子さんの慈悲が偽物であると、確かめたかったのです。  Y子さんは頷いてから俯いてしまいました。浅ましいのは私でした。体の中が空っぽになってしまったようで、風が吹けばどこかへ飛んで消えてしまいそうでした。  私とY子さんは宿へ向かいました。  薄暗い部屋の中でY子さんは、ブルブルと震え、目には涙を浮かべていました。怯えた姿を見ていると杉原を思い出しました。そのおかげで、自分の罪を見つめ直すことができたのです。  急に体から熱が奪われ、頭が冴え渡り、自分の愚かさを突きつけられるようでした。  訳も分からない障害者に、体を許しても良いと言えるくらい、Y子さんは確かに慈悲深い女性でした。今は、震えて泣いているのです。  きっと、彼女の中にある慈悲の心よりも、私を可哀想だという想いが勝ったからでしょう。  そうだとすると、私はどれだけ可哀想なのでしょうか。文字も読めず、計算もできず、障害者という免罪符がなければ働くこともできない私は、どれだけ可哀想でしょうか。  私は今まで自分を可哀想だと思ったことは殆どありません。それは本当に愚かで、哀れで、浅はかで……。Y子さんの涙で、思い知らされるのでした。  こんなにも慈悲深い女性を泣かせるほど、私は可哀想な存在でした。  腹から焼けるような痛みが、喉まで上がってきました。便所に駆け込み、全てを吐き出しました。全てを吐き出してから咽び泣き、自分がどれだけ不必要な存在かを思い知らされて、その時、死を決意しました。  杉原がいなければ、私がこの選択肢を選ぶのまで何年も早かったと思います。  私は今、電車に乗っています。杉原と並んで見た川が、ちょうど見えてきました。杉原が言った言葉を思い出します。 「自殺は神が人間に与えた、究極の自己の表現だと思うんだ。」  思い出すと、体が軽くなります。世に疎まれた私ができる、最後の自己表現なのですから。懐かしの駅で電車を降りてから、思い出の場所を歩いて回りました。  花見をした公園、学校帰りに寄った駄菓子屋、待ち合わせ場所にしていた煙草屋。昨日の事のように鮮明に思い出せ、私はポロポロと涙を流しながら、土手へと向かいました。  私は最後に、丸く平たい石を川へ放り投げました。やはり跳ねず、ポチャリと水面が揺れました。  杉原、貴方の名前が、天国か地獄に轟いてくることを、私は楽しみにしています。  最愛の人よ、貴方に出会えてよかった。さようなら。  その手紙が届いてから、すぐに訃報が届いた。  お前は眠っているのではないかと思えた。火葬された後の骨を見て、その時にようやく実感が湧いた。お前は死んでしまったのだと。  薬を飲んで川へ入水自殺。僕がお前を殺してしまったのか。  お前に救われて、お前を見捨てた。きっとお前は元気で生きているのだろうと、勝手に思っていた。お前の恩を、仇で帰してしまったのか。  共依存の関係から僕だけが抜け出して、お前を置いて行ってしまったのか。  お前と距離を置いたのだって、お前を慮ったわけではない。新しい環境を手に入れて、お前が必要なくなったんだ。  中学生の頃のお前の噂を、流したのは僕だ。お前を孤立させて、僕の手元に置いておきたかった。一番愚かな罪人は、僕だ。  一週間前に一度だけ、お前から唯一着信が届いた。その時は忙しくて電話に出なかった。連絡を返そうと思って、思っただけで、結局蔑ろにしていた。あれはお前の、最後の……  この手紙は私への報いだ。  お前を殺した、私への報いだ。お前を見捨て、のうのうと生きることなどできない。  あぁ、神よ。あぁ。  手の震えが治らない、きっと治ることはないだろう。筆を取って、思い出す。お前の愛らしい間抜け面を。  大切なものは失って初めて気がつく。お前を失うとは、思っていもいなかった。自分が憎くて仕方がない。  書き終えたお前の顔には憎悪が籠もっていた。これは、僕の身勝手な願いだ。僕が僕を憎んでいる以上に、お前に、僕を憎んでいてほしい。  もう一度、手紙を見る、お前は字が下手くそだ。必死に書いたグチャグチャの文字が、僕に訴えかけてくる。  それこそ呪いのように、重く纏わり付く。  酷く苦しい、お前にこんな手紙を残されては、僕は生きていける訳がないのに。  お前はきっと天国に行っただろう、私は地獄に行くのだろうな。お前に会えないな、それだけが悲しい。  遺言を書いた。財産は母に相続する、それだけだ。  電車に揺られ、川が見えた。懐かしい川だ。  僕も見て回ったよ、お前との思い出を。お前がいるんじゃないかと思って、探し回ったよ。お前は駄菓子屋で、十円を大事そうに握りしめていた。いつも買うものは決まっているくせに、毎日悩むんだ。  当たりが出たときだけ、他のお菓子を買っていたな。百円が当たった時なんて、宝くじが当たったときのように大騒ぎしていた。  なあ、なんでだよ。なあ、どうしてだよ。なあ、そこにいるんだろ。  お前の残り香を辿りながら、歩いた。鼻水まで垂らして泣いたのは、生まれて初めてだ。  お前としょっちゅう眺めた川も、一人で見るとこうも味気ない。文字の通り、膝から崩れ落ちた。  自殺とは神が人間に与えた、究極の贖罪だ。

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