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貴方にだけは知られたくなかったのに1
「悪い悪い、ついかけたくなっちまった」
下卑た笑いが降ってきて、千堂 真稀 は粘度の高い液体が張り付き重くなった瞼を上げた。
ようやくありつけた今夜の客は、人の顔を汚しておきながら自分だけ軽く身支度を整えると、事前に伝えた金額をぞんざいに押し付けてくる。
無気力に見下ろした札の上に、ポタッと男の生臭い体液が垂れた。
「ま、悪くなかったよ」
軽く手を上げ踵を返した男の後ろ姿を恨めしく見送りながら、心の中で不満をぶつける。
飲ませてって、言ったのに。
理性が微かな声で止めたが、顔についた精液を拭って舐めた。
正気なら吐き気をもよおすような行為だが、今はただ、空腹だった。
「(……まず……)」
いつもながら不快な味に辟易する。
それでも自分にはこれがないと、生きていくことができないのだ。
それに、美味いと感じるよりはいい。
この行為に愉楽を見出すようになったら、それはもう、人ではなく魔の領域に属する存在なのではないか。
自分は、少なくとも今はまだ、人間であることをやめるわけにはいかない。
だからどれだけ不快でも、不味いと思えることに感謝をするべきなのだろう。
「何見てんだ手前ェ……、あ、もしかしてあいつのお得意さんかな?ハハッ……お先」
ぼんやりと立ち上がれずにいると、暗い路地裏から通りへと出るあたりで、今の無作法な客が誰かと話している声が聞こえてくる。
この場所に立つようになって数ヶ月。再び足を運んでくる客もいるが、そういう客は大抵、後ろも使わせてほしいと求めてくるから面倒だ。
この場を離れようか。
……ああ、けれどこの身体は、まだ熱く、ヒトの精気を求めている。
そこにいるのが本当に自分の客だとしたら、場所を移して新しい客を探すよりも、このまま相手をする方が楽だろう。
今は選んでいるほどの余裕もない。渇きはすぐそこまできている。
あまり面倒でない客だったらありがたいんだけど、とゆるゆると立ち上がりながら、男の去った方向に顔を向けた真稀は、そこに信じられないものを見て、目を見開いた。
「……千堂君……?」
低く、いつもは落ち着いて耳触りのいい声が、驚愕を滲ませて呼んだのは、人違いなんかじゃない、自分の名前で。
鼓動が早鐘を打つ。
夜目のきく真稀には、見たくなくてもその姿がはっきりと認識できた。
「(どうして、この人が、ここに……?)」
今、最もこの姿を見られてはいけなかった相手だというのに。
真稀は、それでも信じられない思いで、確かめるようにその名を呼んだ。
「月瀬、さん」
月瀬 崇文 。
彼は身寄りのない真稀の後見人であり、……真稀が特別な想いを抱いている相手でもあった。
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