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烏山先生は逃げたがり〜作家と編集、真夏の海で追いかけっこ〜

 日本のエロ、昭和史を飾るあの名作「プルプルヘブン~桃色果実は熟れ盛り~」まさかの漫画化!  機動戦士ダンディムセカンドシーズンのキャラクターデザインを担当した新進気鋭の漫画家烏山影人による令和に蘇ったエロのレジェンドを見逃すな!!    リーフ出版に勤める水上渚は、ごく平凡なサラリーマンであり、週刊少年漫画誌の担当編集者だった。元々小学校教師を目指していたが、なかなか採用のめどは立たず、困っていたところを、幼なじみで兄貴分の甲賀明日真に誘われて、現在の出版社に就職したのだ。  十代前半の少年向け漫画誌の担当ということもあって、その年頃の子供たちがどんな作品に興味を示しているのかを知るのは、なかなか興味深かった。  渚はいずれ教職に就きたいという思いがあったので、漫画雑誌の担当編集者というのは、その通過点に過ぎないと思っていたのだ。 「烏山影人を落としてこい!」  女性編集長の寺門冴子のこの一言で、運命は変わってしまった。  烏山影人と言えば、今業界で一番注目を集めている漫画家で、処女作がアニメ化されると、その人気に火がついた。  繊細で美麗なキャラクターデザインは、男性のみならず女性ファンの心もつかみ、今では本業の漫画家としての顔以外にも、ソーシャルゲームやアニメのキャラクターデザイン、イラストレーターとしての顔も持っている。  そんな若手有望株が、老舗とはいえアニメ、漫画部門には参入して間もないリーフ出版の専属になってくれるとは思えず、渚も乗り気ではなかった。 「あいつはプルヘブの大ファンだからな。プルヘブの漫画化の話だったら、すぐ食いつくだろう」  そんなのんきなことを言っていた明日真は、影人とは高校の同級生だったらしい。 「ま、頑張れや。あとで酒おごってやるから」  そう言って肩を叩かれ、渚は意を決して烏山影人の事務所を訪れたのだ。    まさか本当に食いついてくるとは思わなかった。    渚は仕事帰り立ち寄った本屋のコミックスコーナーに、ドーンと平積みにされた男性向けコミックスを見て、ため息を零した。  帯には『日本のエロ、昭和史を飾るあの名作「プルプルヘブン~桃色果実は熟れ盛り~」まさかの漫画化! 機動戦士ダンディムセカンドシーズンのキャラクターデザインを担当した新進気鋭の漫画家、烏山影人による令和に蘇ったエロのレジェンドを見逃すな!!』と言う煽り文句が踊っている。 「プルプルヘブン~桃色果実は熟れ盛り~」というタイトルが、表紙に描かれた女性キャラクターの持つ清涼感とかけ離れていて、苦笑が漏れた。  とんとん拍子に話がまとまり、リーフ出版初の成人向け漫画誌の専属となった烏山影人の描くプルヘブは、昭和のにおいが消え、ハイセンスな大人の恋愛コミックスとして生まれ変わったのだ。  こんな繊細なキャラクターを描く烏山影人の素顔が、寝癖のついたボサボサの髪に、寝不足でいつも半開きの目をしたマスク男だとは、誰も思わないだろう。  しかも……逃走癖があるとは!  締め切り間際だというのに、仕事場から逃げ出すのはもちろん当たり前で、我慢の限界を迎えた渚が担当から外して貰うと言えば「渚君が担当を辞めるなら、俺も漫画家辞める~」と泣き出す始末。  編集長の冴子に肩を叩かれ「いいか? この雑誌は烏山影人の人気で持ってるような物なんだよ! アイツを何が何でも逃がすんじゃないよ!」とドスのきいた声で囁かれて、渚は思わず烏山を恨みたくなった。  その烏山がまたしても逃げだそうとしたのを、すんでの所で捕まえたのは今日の昼過ぎ。 「なんで逃げるんですか? まだ締め切りまで時間があるじゃないですか」 「ん~。気分がね、のらないんだよねぇ。世間は夏休みなんだからさ、渚君、一緒に旅行に行かない?」  何寝ぼけたこと言ってるんだ! と言いたいのをぐっとこらえて、渚は愛想笑いを浮かべた。 「あいにく俺には夏休みはないんですよ。烏山先生にも夏休みはないんです」 「え~」 (え~じゃない。え~じゃ)  いい年した大人が、子供みたいな駄々をこねるのだ。 「俺だってたまには東京から離れてみたい」  そう言った烏山に渚はある提案をした。 「分かりました。東京から出られれば良いんですよね?」  東京近郊の観光地に、リーフ出版は烏山のような逃走癖のある作家を缶詰にする部屋を、いくつも確保していた。  一度社に戻った渚は、リーフ出版の押さえてあるホテルの中から、烏山を缶詰にできそうな部屋を探し出す。  作家を缶詰にする時以外は、リーフ出版の保養施設としても解放されているので、子供たちが夏休みのこの時期、どのホテルも満室で空きがない中、やっと開いているホテルを見つけた。  太平洋に面した眺望が売りの高級リゾートホテル。ここなら烏山も満足するはずだ。  渚は急ぎ烏山に電話をかけて、ホテルを確保したことを伝えたのだが。  予想に反して烏山の反応は薄かった。 (あんなに旅行に行きたいって言ってたのになぁ……)  腑に落ちない渚に、外回りから帰ってきた明日真が声をかけてきた。 「どうした? 影人がまた駄々をこねたのか?」 「旅行に行きたいと烏山先生が言うので、海に面したリゾートホテルの部屋をもぎ取ったんですが……烏山先生、なんだか気が乗らないみたいで」 「あー、海は駄目だ。海は」 「明日真さん?」 「アイツ海は嫌いなんだよ。泳げないから」  周囲を気にせずたばこを吹かす明日真に、冴子の視線が飛んだが、剛胆な幼なじみは気にした風もなかった。 「やっぱり別のホテルにかえた方が良いかな……」 「かえなくても良いだろうよ。どうせ缶詰にするんだろ? ホテルから出られないなら、海だろうと山だろうと構わねぇだろ」 「まぁ、そうなんですが」 「頑張れや!」  そう言って明日真は豪快に笑った。      明日から海の見えるリゾートホテルで、烏山影人の逃走を見張る日々がはじまるのだ。 「よしっ」  気合いを入れ、渚は書店を後にすると家路を急いだ。      翌朝烏山の住むタワーマンションに、青い軽自動車に乗って迎えに行った渚は、まるで近所に買い物に出かけるようなほぼ手ぶらの烏山を見て、頭を抱えた。 「烏山先生……仕事道具はどうしたんですか? しばらくホテル暮らしなんだから、着替えぐらい持って来て貰わないと困ります」 「仕事道具はここにあるよ~」  そう言って烏山はジーンズの後ろのポケットに入っているプルヘブを取り出した。 「あとはここで構想を練るだけだし」  烏山は自分の頭をがりがりと乱暴に掻く。 「着替えは? 着替えはどうするんですか?」 「着替え? 渚君の借りれば良いよね? 渚君こそどこかに引っ越しする位荷物抱えてるじゃない。パンツの一枚ぐらい貸してよ?」  烏山は渚の車に積み込んである大きなボストンバックを指さした。 「貸してあげません。烏山先生が用意してくれないなら、俺が用意します」  下着って経費で落ちるのかな? とブツブツつぶやく渚に、烏山はにこにこほほえみながら、さっさと車の助手席に乗り込んだ。      首都高速を抜けて、東名高速道路に入ると、都心を抜け出した開放感からか、烏山が上機嫌で歌を歌い出した。 「烏山先生、それなんて言う曲ですか?」 「〝blue car〟って曲。渚君の車の色が青だからね。思い出しちゃったの。   〝Let's go to the sea in your blue car~〟 ♪って言うの。知らない?」 「うーん。聞いたことあるような気もするんですが」  分からないですと苦笑すると、じゃ、教えてあげると答えた烏山の歌を聴きながら、車は目的地へ向かって走り続けた。      カーナビを頼りにたどり着いたリゾートホテルは、リーフ出版が押さえているだけあって、ものすごく豪華だった。  こ……こんなホテル、入社式以来だよ。  大理石のロビーの先にあるフロントでチェックインを済まし、ホテルマンに部屋まで案内されている間中、渚は落ち気がなく辺りを見回していた。 「渚君、ちゃんと前見て歩かないと転ぶよ?」  子供みたいに目を輝かせる渚の姿が面白いのか、烏山はじっと渚を見つめている。  ふと何を思ったのか、渚の右腕を烏山が掴んだ。 「迷子になっちゃいそうだからね」  そのまま上機嫌で腕を引く烏山に連れられて、否と言うこともできずに頬を染めて歩いていると、あっという間に部屋にたどり着いた。      烏山を缶詰にしておく為の部屋は、寝室部分がツインルームになっていて、作家を見張る担当用の個室がちゃんと用意されていた。  リゾートホテルとはいえ、仕事用に押さえているだけあって、あらかじめPC等の通信機器は備え付けてあり、ほぼ全ての作業をデジタルで行う烏山には、十分すぎる作業環境だった。    烏山を部屋に残し、宿泊用の着替え一式を購入しにホテルの売店へ行っていた渚は、両手いっぱいの紙袋を抱え部屋に戻ってきた。 「烏山先生。着替え用意しましたから、試着してみてください」  ふかふかのソファーの上に運んできた紙袋を下ろし、中身を取り出しながら声をかけたのだが、烏山からの返事はなかった。 「烏山先生?」  怪訝に思い部屋の奥をのぞき込むが烏山の姿はない。 「寝てるのか?」  寝室のドアを開けたが烏山の姿はなく、一枚の紙切れがベッドの上に置かれていた。  まさか!!  渚は大急ぎで紙切れを引っ掴む。  そこには『カーと鳴くカラス』が描かれていた。 「やられたっ!」  まさかここまで来て逃げられるなんて思いもしなかった!  渚は大慌てで寝室から飛び出す。  部屋にスマホが残されていないことを確認して、ほっと息を吐く。  良かった。とりあえず連絡は取れるみたいだ。  渚は即座に烏山宛てに電話をかけるが、コール音ばかりが鳴り響く。 「もしもし、烏山先生。今どこにいるんですか?」  10コール目に繋がった電話に、渚が一気にまくし立てると、ばつが悪そうなくぐもった烏山の笑い声が聞こえた。 『んーどこかな? 分かる? 当ててみて?』 「当てて見てって! 烏山先生、いい加減にしないと怒りますよ?」 『もう怒ってるじゃない』  おかしそうに肩を揺らして笑う烏山の姿が目に浮かんで、渚は言い返してしまった。 「怒ってません!」 『そういうのを怒ってるって言うんでしょ? ホテルのバルコニーから見えるかな? 灯台』 「灯台ですか?」  渚が大急ぎでバルコニーから顔を出すと、眼前に広がる青い海と、海水浴客で賑わう砂浜の外れに、白い灯台へと続くコンクリートの道が延びており、そこから手を振っている人影があった。 『渚君見えた?』 「見えました! 絶対、絶対そこ動かないでくださいね! 迎えに行きますから!」  電話口からはまだ烏山の楽しげな笑い声が聞こえていたけれど、渚は電話を切ると急ぎホテルの部屋から飛び出した。      夏休みの子供連れで賑わう砂浜を走り抜けて、ごつごつした岩場の先にある灯台目指して、照りつける日差しの元を走り続けた。  体力には自信があったけれど、流石にきつい。  息を切らせながら、ようやく岩場を上り灯台へと続く埠頭へとたどり着く。 「進入禁止? 高波注意って!」  灯台へと続く道は鉄格子の扉で封鎖されていて、警告の看板も付けられていた。  鉄格子の向こう側に、灯台の下で海を見つめる烏山の姿があった。  渚は一瞬ためらったが、意を決すると鉄格子の扉をこじ開け、烏山の元へ向かった。 「烏山先生!!」  渚の呼び声に烏山が振り返る。 「探しましたよ!」  さぁ、帰りますよ。  そう声をかけようとした瞬間、大きな波が打ち寄せてきて、烏山の姿が見えなくなる。  ぼこぼこという音に我に返ると、渚の体は海の中に沈んでいて、明るい海面が頭上に見えた。 (息が苦しい)  必死に手を伸ばすが、もがけばもがくほど海面は遠くなる。 (誰か……) 「助けて」と言葉にならない声を漏らした瞬間、飛び込んできた人の腕に抱えられて、遠かった海面が見る間に近くなった。     『なぎさ……くん。なぎさ、くん』  誰かの呼び声に遠かった渚の意識が戻ってくる。 『戻ってこい! 渚君!』  必死な呼び声が渚のすぐ側から聞こえてきて、誰かが渚の胸を強く押しつぶしていた。 「渚君!」 (烏山先生かな? この声は。締め切り間際だっていつもあんなにのんきなのに、こんなに必死なんて、珍しいな) 「渚! 戻ってこい!」  烏山の声がはっきり聞こえたと思った瞬間、唇に触れる暖かい息遣いに驚き目を開けると、眼前には額から汗を流し必死に人工呼吸を繰り返す烏山の姿があった。  ゲホッと咳き込むと、口の中から海水が盛り上がってきて、苦しさに嘔吐く。  烏山は慌てて渚を抱き起こすと、咳き込む背を優しく撫でてくれた。 「ゲホッ……か……から……先生」 「ごめん。すまない。渚君。俺が悪かった」  元々色白なのに。今の烏山は蒼白で、倒れてしまいそうなぐらい憔悴していた。  その時渚をのぞき込む烏山の髪から、海水がしたたり落ちていることに気がついた。 「烏山先生。もしかして……烏山先生が助けてくれたんですか?」 「うん」 「泳げないのに?」  烏山は困ったように眉を寄せ、息をついた。 「誰から聞いたの? そんなこと」  ゲホゲホと相変わらず咳き込む渚に、烏山は慌てて渚の背をさする。 「泳げないって言うのはただの口実。そう言っておけば海に行こうなんて誘う人もいないでしょ。まさか渚君に海へ誘われるとは思わなかったけど」  そう言う烏山に「海に誘ったわけじゃない」と抗議しようとして、疲労感に口を開くのも億劫になり、渚は目を閉じた。  反応が薄くなった渚に気がついた烏山が、大慌てで渚を背負いあげる。 「からす……やま……先生。俺、重いれすよ……」  酩酊したように寒さでろれつが回らなくなってきた渚の体は、真夏だというのに、カタカタと震えはじめる。  渚の体の冷たさに気がついたのか、烏山は口を閉ざし、黙々と歩き始めた。  高級リゾートホテルのロビーに辿り着くと、海水でずぶ濡れの渚と烏山を見つけたホテルマンたちが、大慌てで集まってきて、そのまま医務室に連れ込まれた。  ベッドに寝かされて、点滴を打たれて、医務室から解放された頃にはもう夜だった。      医務室から解放されたものの、今日はもう何もする気が起きず、一足早く寝室のベッドに潜り込んだ渚の元へ、神妙な顔をした烏山が現れたのは、夜も深くなってきた頃だった。 「渚君、まだ起きてる?」 「起きてますよ」  ベッドから渚が起き上がるのと同時に、寝室のドアが開き烏山が顔を覗かせた。 「今日は……ごめんね。俺のせいで、渚君に大変な思いをさせてしまって」 「良いんですよ。俺、この通り体育会系なんで。体だけは丈夫なんです。烏山先生こそ、大丈夫ですか?」 「俺は平気」 「それなら良かったです」  烏山の言いたいことはそれだけかと思い「おやすみなさい」と言って布団に潜り込んだところで、まだその場に立ち尽くす烏山の姿に、渚はベッドから起き上がった。 「烏山先生? 今日はもう寝ましょう? 烏山先生もお疲れ様ですし」  苦笑しながら渚は声をかけるが、いっこうに動かない烏山に焦れて、ベッドから降り、烏山の元へ歩を進めた。 「烏山先生」 「渚君!」  突然烏山に抱きしめられて、渚は言葉を失う。  いつになく真剣なまなざしに気圧されて、身動きがとれない渚の体を、烏山は痛いくらい強く抱きしめた。 「渚君が無事で良かった」 「烏山先生……」  烏山の体が小刻みに震えていることに気がついた渚は、烏山の背にそっと腕を回すと、優しく撫でてやる。  渚の体の温かさに安堵したのか、烏山が渚を解放した。 「俺ね……渚君なら。きっとどこまででも、追いかけて来てくれるだろうなって言う自信があったの」 「あ……当たり前です! 俺は担当者ですからね! 原稿を頂くまでは、どこまでだって追いかけて行きますよ!」  渚の言葉が可笑しかったのか、烏山がクスクスと笑い出す。 「何が可笑しいんですか?」  むっとして思わず烏山を睨み付けた渚は、その時初めて烏山の素顔を目の当たりにした。  そこには、いつも眠そうに目を半開きにして、ボサボサの髪にマスクを付けた怪しい男ではなく、綺麗な色違いの瞳に秀麗な笑みをたたえた、一人の男がいた。 「あ……」 「どうしたの?」 「……素顔」 「素顔? 今頃気がついたの?」  渚の鈍さに、烏山は声を上げて笑い出した。 「そうか……今頃か。ここまで鈍いとは思わなかったな」 (鈍いって! なんだか散々な言われようだ) 「やっぱり直球で行くしかないか」 (何が直球なんだ? )  むっとする渚の体を再び烏山は抱き込むと、そのままベッドに押し倒した。 「え……」  驚き呆然と固まる渚を見下ろしながら、目元を赤く染めた烏山の色違いの瞳が揺れていた。 「渚君。はっきり言うよ。俺は君が好き。出会った頃から好きだったの。君が好きだったから、構ってほしくて、逃げ出したり、いろいろと困らせちゃった」 「あ……え?」 「俺は……試してたのかな? 君がどこまで追いかけて来てくれるか。海辺のホテルだって聞いて、あまり乗り気はしなかったんだけど……俺の目、色が違うでしょ? 右目はね、義眼なんだ。海の事故で大事な友人二人と、右目を亡くしたの。だから海には行きたくなかった」 「……」 「そんな悲しい顔しないで。渚君と一緒に海に行ったら、また海を好きになれるかなって思ったんだ」 「からす……やま……先生」 「また好きになれるかもしれない。今夜、君に振られなければ……」 「ふ……」 (振られなければって) 「ふ?」  渚を見つめながら首をかしげる烏山の姿に、渚は目を白黒させながら問う。 「もしかして、俺。告られ中ですか?」 「告られ中って……」  烏山が肩を振るわせながら笑い出す。 「告られ中どころか、貞操の危機だよ?」 (て……貞操の危機!! )  突然回り出した頭に、事態をようやく理解した渚は、顔を真っ赤に染めてわたわたと慌て出す。  その様子に烏山はため息をつくと、渚の鼻をムギュっと摘まんだ。 「返事は慌てなくてもいいよ。お楽しみは取っておかないとね」  摘ままれた鼻を解放されて、ほっとした弛緩した渚の唇に、烏山の熱い唇が重なった。 「んむぅ」  暴れるまでもなく、深く唇を吸い合わされると、酔ったように体に力が入らなくなる。  チュッと音を立てて唇が離れた頃には、もう渚は完全に放心していた。 「今日はここまでね」  烏山の唇が渚のおでこを啄んで、そのまま解放されると思ったのに。  烏山は渚の横に寝転んで、渚を抱き込んだ。 「あの? 烏山先生?」 「今日はキスと添い寝で我慢するよ。もう逃げないからって言うか……逃がさないから」 (逃がさないからって)  烏山の体は暖かくて、睡魔はあっという間に訪れてしまう。  烏山がなにやらブツブツ呟いていた気がしたが、来る締め切り間際の修羅場に向けて「しっかり睡眠を取っておくべし!」という冴子の言葉が聞こえて、渚は眠りに落ちてしまった。  翌日からはじまる烏山からの猛アプローチを知ることもなく。      烏山のプルプルヘブン~桃色果実は熟れ盛り~の連載は大好評で幕を下ろし、ようやく渚も担当から外れてほっとできると思っていたのだが。 「渚! 次はプルプルバスケットの連載が決定したよ!」 「え? バスケットですか?」  驚きの声を上げる渚に、デスクに座ったまま冴子が檄を飛ばす。 「烏山影人の担当はお前だ! 嬉しいだろう?」 「う……嬉しくないですよ! いい加減外してくださいよ!」  そうなのだ。  あの日から本当に逃げ出さなくなった烏山は、逆に渚を追いかけるようになり、口説かれ続けて絆されて、ついに交際を承諾したのがプルヘブ最後の原稿が仕上がった時だった。  これからは仕事では顔を合わせなくなるけど、プライベートでは一緒だから寂しくないって思っていたのに。 「影人のやつ、作風を広げたいとかで、BLにも手を出すんだとよ」 「BL!?」  隣の席でタバコを燻らす明日真の放った一言に、渚は驚愕する。 「プルヘブ、フォーシーズン~愛しのあなたへ~四季折々の恋人たちへの賛歌。烏山影人の新境地。鬼才の放つ禁断の世界へようこそ! リーフ出版初のBLコミックス創刊! だとよ」 「ビ……ビーエル版……プルヘブ……」  渚の脳裏に昨夜の烏山の言葉が蘇る。   『渚君と両思いになれるまで長かった~。でもおかげで良い作品が描けそうだよ!』    あんなに頬を染めて、嬉しそうに可愛い顔で笑っていて。 (烏山先生、あれ本気だったんですね!! ) 「まぁ、夜もほどほどにな。お前を参考に描いてるかと思うと、どんな顔して読んだら良いか分からねぇからな」  明日真の言葉に渚の顔は湯気が出そうなくらい赤くなる。 「プルヘブコミックス増刷! バスケット連載決定! BL版プルヘブ創刊! たまらないねぇ~」  冴子の鋭い視線が渚に飛ぶ。 「渚! 一生烏山影人を逃がすんじゃないよ!! 烏山は渚がいる限り、リーフ出版独占契約だからね!」  あっはっはっはっ!! という冴子の高笑いが止まらない。 (一生逃がすなって……) 「あの……俺、いずれは教師になる予定なんですが……」  大笑いの冴子の耳に届くはずもなく、萎れてる渚の肩を明日真が慰めるように叩く。 「まぁ、影人に捕まっちゃ逃げられねぇからな。あきらめな。うちの甥っ子の勉強の先生で我慢してくれや」 「そんなぁ~」 【完】    

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