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パイナップル・プリンセス

 左右にサトウキビ畑が広がる道を、父親から譲り受けた自転車に乗って、琉衣(るい)が走り抜ける。  青々とした葉が、照りつける太陽に輝いていた。  時折小さな緋色の花が畑のあぜに咲いている。  所々でこぼこのあるその道を、痩せこけた自転車はカシャカシャと音を立てて走った。  そして青空まで続いていそうな坂を一気に駆け上れば、今度は海まで急降下。  突然嘘のように眼前に広がる大きな海に向かって、琉衣がペダルから足を外すと、自転車はたちまち風になった。  被っていた麦わら帽子が後ろへ脱げた。  掛けていた細い紐が慌てて琉衣の首につかまった。  ブーゲンビリアを塀の外まで咲かせた家の角を曲がり、郵便局の前を過ぎると「フルーツパーラー中畑」の看板が見える。  琉衣の顔がにーっと笑顔になった。  「はーるちゃーーん!」  キュッとブレーキをかけ、路上に並んだ新聞販売機に自転車をもたせかけて、琉衣は元気に振り返った。  「はるちゃん、おつかれ!」  「おう。おつかれ」  店の外に設けられたジューススタンドで、遥人(はると)はミキサーにかけるための果物を切っていた。  バナナ、オレンジ、ネクタリン。  マンゴー、それにパイナップルやココナッツ。  色とりどりの果物に囲まれて、遥人の色白の肌がよく映えている。  日除けのパラソルが立てられていたが、少し傾いた太陽の光は、傘の下にいる遥人を覗きこむように照らしはじめていた。  「おまえ、どんだけ急いできたの。汗だくじゃん」  そう言って琉衣を見る遥人の白い肌に陽射しが反射するようで、琉衣は眩しく感じた。  「はるちゃん、バイト時間通りに終われそう?」  「うん、たぶん大丈夫」  遥人の仕事の邪魔にならないように、琉衣はプルメリアの木陰の石におとなしく腰掛けた。  濃い緑の葉を茂らせた木の下は、ひんやりと涼しい。  甘い匂いの花もたくさん咲いていた。  琉衣は背負っていたバックパックをおろして、中からウクレレを取り出して弾きはじめた。  「琉衣、おじいさんのだっけ。そのウクレレ」  「うん。おじいちゃんの思い出の品だよ」  「それ弾いておばあさんにプロポーズしたんでしょ?」  「そう。海の見える丘におばあちゃんと並んで座って、『俺のお姫さんになってくれないか』って」  「ヒュ~。かっこい~、琉衣のじいちゃん」  そんな話をしながら遥人がパラソルの向きを直しているところへ、観光客らしき一団がやってきた。  現地調達したらしいサンドレスやムームーに身を包んだ、いわゆる中高年と呼ばれる年代の女性グループで店先が賑わった。  生地にプリントされたハイビスカスやモンステラの大振りの柄が、元気な女性たちを一層明るく見せていた。  「このお店、洒落てるわね! ハンサムな売り子にウクレレの生演奏付きだわ!」  「あなたたち可愛いわねえ。なんてお名前? 年はいくつ?」  「ちょっと、よしなさいよ! こんなオバサンに迫られて怖がってるじゃないの!」  盛り上がる女性客相手に、遥人は愛嬌のある笑顔を振りまいた。  琉衣もにこにこと、のどかなこの島の風景に合う、穏やかなメロディを奏でた。  二人のサービスにすっかり気を良くした女性たちが、やがて袋いっぱいに島の果物を買い込んで去っていく。  遥人と琉衣は丁寧にお辞儀をして送り出した。  「はるちゃん、さすが。いっぱい売れたね」  「琉衣の生演奏が効いたんだよ」  通り沿いには、小規模ながらさまざまな店がある。  派手さはないが、のんびりと散策するにはちょうどいいエリアだ。  「あの人たちも楽しい旅になるといいね」と二人は話した。  すると背後で、今度は打って変わって若い声がした。  「はるちゃん、こんにちは!」  二人が振り返ると、近所の園芸店の娘である美央が、両手に見事なアンスリウムの花束を抱えて立っていた。  「美央ちゃん」  「はるちゃん、バイトお疲れさま。中畑のおばさんは?」  「ああ、今ちょっと出掛けてるけど、もうすぐ帰ってくるよ」  「そうなんだ。じゃあ待ってようかな……」  「きれいなアンスリウムだね」遥人が花束を見て言った。「中畑さんに届けにきたの?」  「うん。お母さんから頼まれて」  「こっち置いとけば? 抱えてるの大変でしょ?」  そう言って手を伸ばしてくれた遥人に、美央は可愛らしく「よいしょっ」と言ってアンスリウムを手渡した。  美央は店の前に置かれたスツールに座って、遥人の作ったバナナジュースを飲んだ。  そしてくるんとした目を琉衣に向け、たずねた。  「琉衣くんも一緒にバイトしてるの?」  そうたずねる美央の、ストローに添えられた指の爪がきれいだった。  「俺は……ちょっと寄っただけで」  「そっか。仲いいもんね、はるちゃんと琉衣くん」  「いや、べつにそんな……」  「あ、ねえ、それウクレレ? わあ、琉衣くん、何か弾いて? 聴きたい!」  まるでお人形さんみたいだと、この辺りでも評判の美央が、遥人の作ったジュースを飲んで、遥人の横で笑っていた。  何か弾かなきゃ……そう思った瞬間に、琉衣はまったく違うことを口にしていた。  「俺、もう帰んなきゃなんないから!」  えっ? と驚いたのは遥人だった。  「琉衣、帰るってなんだよ。このあと一緒に……」  「ごめんっ! 俺、用事あったの忘れてた!」  遥人がさらに何か言いかけたとき、「大変大変、遅くなっちゃった!」と、せわしない声が通りの向こうから聞こえてきた。  フルーツパーラー中畑の店主、みつ子が帰ってきたのだ。  「遥人君、ごめんなさいねえ! 行った先で話し込んじゃって、すっかり遅くなっちゃったわ!」  あたふたと謝るみつ子に、遥人はおかしそうに「そんな慌てなくても大丈夫ですよ」と答えた。  美央がスツールからおりて、アンスリウムの束を手に取ると、みつ子に差し出した。  「おばさん、こんにちは。これ、お母さんから預かってきたの」  「あら美央ちゃん! わ、立派なアンスリウム! 美央ちゃん届けてくれたの? まあぁ、大変だったでしょ!」  このお年頃の女性というのは、なぜみんなテンションが似ているのだろう。  自由研究の課題にしたら面白いかもと考えながら、遥人はまた少しパラソルの位置を直した。  「じゃあ、わたしはこれで。おばさん、ジュースごちそうさまでした。はるちゃんと琉衣くんも、バイバイ!」  そう言って美央は笑顔で手を振り、来た道を駆けていった。  そんな美央に琉衣が小さく「あ」と声を出したのを、遥人がちらりと見た。  みつ子がアンスリウムの束と一緒に奥へ入っていき、遥人はアルバイトの終了時刻まであと少し、再びスタンドに立った。  琉衣もまたプルメリアの木陰で、黙ってウクレレを弾いていた。  「琉衣、帰んなくていいの?」  パイナップルにナイフを入れながら、遥人が琉衣に問いかけた。  ウクレレを爪弾いていた琉衣の手が止まり、探るように遥人を見た。  「用事あるんだろ?」  「え……」  「さっき美央ちゃんに言ってたじゃん。用事あるから帰んなきゃって」  「うん……」  「ほんとは用事なんてないんだろ?」  「……」  「なんでそんな嘘言ったの?」  軽く咎めるような遥人の声音に、琉衣は困った。  「ねえ。なんで?」  「……邪魔したら、悪いと思って……」  遥人が眉をひそめる。  「邪魔? なんの」  「だからはるちゃんと……美央ちゃんの……」  「はあ!? なにそれ!」  ウクレレと一緒に膝も抱えて、木陰の琉衣は上目遣いで遥人の顔色をうかがっていた。  「琉衣さあ……考えすぎ! なに一人で勘違いしてんの?」  遥人が呆れた仕草で、パイナップルの芯をザクッと落とした。  「でも……」  「でも、なんだよ」  「めっちゃ仲良さそうだったじゃん……」  「普通だろ、べつに」  「はるちゃんのこと『はるちゃん』て呼んでた……」  「だって俺、遥人だもん」  「でも、それは……」  「なに」  それは……と言ったまま黙ってしまった琉衣に、遥人は声を大にして言った。  「とにかく! 俺と美央ちゃんはなんでもありません! だいいち美央ちゃんは生徒会長と付き合ってますから!」  え!? と弾かれたように琉衣が顔を上げた。  生徒会長は、本人の人柄もいいが、家は本土にも名が轟く大金持ちだ。  「生徒会長って、あの生徒会長!?」  「そう」  「うそっ!」  「嘘じゃねーよ。みんな知ってるっつーの。知らないの琉衣だけだよ」  生徒会長と……うわ……そうなんだ……と、もしかしたら島中の人間がとっくに知っていそうなことを、琉衣は今になって一人で驚いていた。  木陰で猿の子のように膝を抱えて、「へええぇ……」と感心している琉衣を見て笑いが込み上げるのを、遥人はパイナップルの芯をざくざくと落として誤魔化した。  遅番のアルバイトと交代の時間になって、みつ子が遥人にねぎらいの言葉をかけた。  「遥人君、お疲れさま! たくさん売ってもらって、ありがとね。また明日もお願いね!」  帰り支度を始めた遥人を、琉衣は自転車と共に待った。  「遥人君、それからこれ、今日は大入りだったから、ご祝儀! 琉衣君と一緒に食べて!」  そう言ってみつ子は遥人に、遥人がさっきカットしたパイナップルを丸々一個分、持たせてくれた。  琉衣が自転車をカラカラと押して、その横を遥人が歩いた。  港の一角には、遊覧船やスノーケリングを扱うツアーデスクの屋台が並ぶ。  路上ではハーフパンツ姿の男が、たった今自分で釣ってきたらしいカジキを豪快にさばいていた。  観光客の行き交う遊歩道を抜けると、地元の人間だけが知る砂浜へ出る。  誰も来ない、小さくて静かな砂浜だ。  自転車を椰子の木陰に置いて、海へと伸びている木の桟橋を遥人と琉衣は歩いた。  桟橋の突端に並んで腰掛けると、水平線の向こうから吹いてくる海風が二人の髪をなびかせた。  「琉衣、パイナップル食べる?」  琉衣が「うん」と頷くと、スティック状にカットされたパイナップルを一切れ、遥人が琉衣に手渡した。  そして遥人も自分の分を取り、いただきますと二人で言ってから、黄色く熟れた実を口に含んだ。  滴る果汁が零れてしまわないようにジュッと吸うと、甘酸っぱい匂いが鼻へ抜けた。  「はるちゃん、おいしいね」  「うん。おいしい」  桟橋に腰掛けて、サンダルを脱いだ素足を、ぷらぷらさせながら食べた。  おいしそうにパイナップルを頬張る琉衣の顔が、日に当たって火照っていた。  「琉衣」  「ん?」  「帽子」  バックパックに引っ掛けていた琉衣の麦わら帽子を、遥人が琉衣の頭に「ん」と被せた。  「ありがと」  「うん」  「はるちゃんは? 帽子」  「俺はこれ」  そう言って遥人は、鞄の中から白いタオルを取り出して首に巻いた。  海辺の観光ホテルの粗品らしい、趣のあるタオルだった。  「なんか、オジサンみたい」  「るせ」  「『ホテル大海原』って書いてあるよ」  タオルには、ホテルの名前が群青色でプリントされていた。  「渋いね」  「だろ」  プリントの文字をよく見ると、ホテルの電話番号も入っていた。  もちろん、お約束の語呂合わせも忘れていない。  「1126で、イイフロ……」  電話番号を読み上げた琉衣が、プッと吹き出した。  「なんだよ」  「ごめん、なんかツボっちゃった」  琉衣はパイナップルを手に持ったまま、くすくす笑いが止まらなくなった。  「人のタオルでそんなに笑うな。失礼なやつめ」  「ごめんごめん、止まんなくて……」  「今朝、洗面所の一番上にあったのがたまたまコレだったんだよ」  「うん、いいと思う……すごく……」  「って笑ってんじゃん! 要は首が焼けなきゃいいんだよ、ホテル大海原でも、いい風呂でも!」  遥人の開き直りに、ついに大笑いした琉衣の麦わら帽子を、遥人がぐいっと押さえつけた。  帽子を鼻まで被せられて、琉衣は、わあっとはしゃいだ声を出して余計に笑った。  「琉衣さ」  琉衣の帽子を押さえたまま言った遥人の声に、琉衣はまだ半分笑いながら「へ?」と返事をした。  「美央ちゃんが俺を呼ぶ“はるちゃん”。琉衣が俺を呼ぶ“はるちゃん”。同じに聞こえても、この二つは全然別物だから」  帽子のつばが大きすぎて、琉衣から遥人の表情が見えなかった。  でもその声はどうしたのかとても真剣で、琉衣は胸の奥がパイナップルのように甘酸っぱくなった。  「はるちゃん……?」  「そんだけ」  琉衣の帽子からぱっと手を離した遥人は、逃げるように二つ目のパイナップルに手を伸ばした。  琉衣が自分で帽子を元の位置に戻すと、遥人の姿が見えた。  少し日に焼けたのか、整った横顔がほんのりピンク色になっている。  遥人は、遠くの水平線に向かって黙々と口を動かしていた。  「はるちゃん……」  琉衣の濡れたような目が遥人を見つめた。  「はるちゃん、俺も……」  「る、琉衣……?」  寄せる波の音が、遥人の耳でどこか夢のように響いた。  琉衣の唇がためらいがちにひらいて、人差し指をそっと立てて遥人に言った。  「俺も、パイナップルもうひとつ食べてもいい?」  桟橋で羽を休めていたカモメが一羽、そんな二人を見て、くいっと首を曲げた。  果汁でべとついた手をペットボトルの水で濡らし、ホテル大海原のタオルで拭いた。  「見ろ。役に立つじゃねーか、ホテル大海原」  「ほんとだね。さっきは笑って悪かったよ」  さっぱりした手で、琉衣はウクレレを取り出した。  波と海風に乗って、琉衣の奏でる音が心地よかった。  祖父母の思い出のウクレレを弾きながら、琉衣が言った。  「おばあちゃん、嬉しかっただろうな。好きな人から『お姫さんになってくれ』なんて言われて」  遥人もそれに答える。  「なかなか言えない台詞だよな」  「はるちゃんはプロポーズのとき、なんて言いたい?」  「そんなの……まだわかんないよ」  「言う相手もいないしね」  「おまえもな」  風が変わったのか、波の音が少し強くなった気がした。  「ねえ、はるちゃんもなんか弾いてよ」  にこっと笑う琉衣に差し出され、遥人がウクレレを受け取った。  「はるちゃん、なに弾く?」  「そうだな……」  「なんでもいいよ?」  「じゃあ……今の俺の気分で、一曲お届けします。聴いてください」  ちょっと気取ってそう言いながら、遥人はウクレレを構えた。  何が聴けるのかとわくわくする琉衣に一旦目をやり、遥人が手を動かすと、楽し気なイントロが始まった。  「なんていう曲?」  「パイナップル・プリンセス」  白い指が弦を鳴らし、軽快なリズムに合わせて遥人が鼻歌を歌った。    ――誰より可愛い パイナップル・プリンセス    海の見える丘で 彼がウクレレを弾きながら言うの    パイナップル・プリンセス 愛してるよ    いつか僕らが結ばれたら 君は僕のパイナップル・クイーン    そうね わたしの素敵なココナッツ    海辺に建てた竹の小屋で 二人楽しく暮らしましょう  弾き終えた遥人がウクレレを琉衣に返すと、琉衣はそれを受け取りながら目をきらきらとさせた。  「すっごく可愛い歌だね!」  「親父のレコード・コレクションの中にあったんだ。アネット・ファニセロって人が歌ってた」  遥人の隣で、琉衣がさっそく曲をおさらいする。  麦わら帽子のつばが作る影を頬で揺らしながら、琉衣は覚えたての曲を楽しそうに弾いた。  「はるちゃん、ここどうやるんだっけ?」  遥人がなぜ、この歌を選んだのか――  そんなこと少しも気にしない、そういうことに鈍い相棒に心の中で苦笑しつつ、遥人は琉衣の指に手を添えて次の音を教えてやった。  でも……と遥人は思う。  今もし、この思いを琉衣に気づかれても、逆に俺の方がどうしていいかわかんないかな。  ウクレレの音が、軽やかに桟橋の上で跳ねては踊る。  複雑なこの気持ち、わかってほしいような、ほしくないような……  そんな遥人の心の内など知る由もなく、琉衣は、祖父のウクレレを楽しそうに弾いていた。  「誰より可愛い、パイナップル・プリンセス……」  琉衣の紡ぐ恋のメロディに、遥人の胸で甘酸っぱい香りが広がった。  桟橋を微風が通り過ぎていく。  椰子の木陰では、琉衣の自転車が、潮騒に重なるウクレレの音に耳を傾けていた。  

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