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第1話
町内の一角にある古い神社。
今日は年に一度の町内夏祭りが行われている。
拝殿そのものは小さいが境内は広く作られており、祭りの屋台が十数台並んでいる。
普段は人の少ない神社も、この日ばかりは賑わいをみせていた。
時刻は間もなく夕方。傾きだした太陽に向かって、小さな子どもが楽しげな声を上げて走り抜けていく。片手に握られた風船が慌ただしく揺れていた。
楓は境内の脇に避け空を見上げた。
先程まで顔を見せていた太陽は少しづつ厚い雲に覆われ始め、生ぬるい風が吹き付ける。
◇◇◇
楓は今年大学四年生になった。上手くいけば卒業の年だ。
今日は中学まで同じ学校に通っていた幼馴染が帰ってくるというので待ち合わせをしているのだ。
彼、彰とは中学在学中はいつも二人一緒だった。
「おまえら、仲良すぎじゃない?」「付き合ってんの?」
なんて他の級友に揶揄われるほど仲が良かった。
楓自身も彰は唯一無二の親友だと思っていた。
高校も同じ地元の公立高校に進学しようと約束し、休みの日も一緒に勉強をしたのは懐かしい思い出となっている。
しかし、彼は中学卒業と同時に何も言わずに引っ越してしまい、今日まで一切会う機会は訪れなかった。
何も言わずに引っ越してしまったのには何か理由があったのだろうか。俺が何か気分を害することをしてしまったのだろうか。
楓はしばらくは一人思い悩む日々を過ごした。
成人式には会えるかと期待したが、彰が姿を見せることはなく淋しかったことを覚えている。
そんな彰から突然ショートメールが届いたのが一週間前。
当時中学生だった二人は携帯電話を持っておらず、互いに卒業後の連絡先はわからなかった。
そこで彰は楓の実家に電話をかけたのだろう。電話に出た母が楓の電話番号を教えたのだそうだ。
突然届いたメールはとてもシンプルなものだった。
「元気? 彰だけど。来週の祭りにそっちに行くんだけど会える?」
楓はこの時、驚きに何度もメールを読み返した。
引っ越してから一度も連絡をくれなかったのだ。楓から連絡をしようにも何も言わずに引っ越してしまったため、住所も電話番号もわからない。
楓は諦めざるをえなかったのだ。
あれから約七年が経ち、突然のメール。
誰だって驚くだろう。
「そうなの? じゃあ一緒に祭りに行ける?」
「おう! 浴衣着て行こうぜ! 楓の浴衣が見たい!」
今までの音信不通など無かったかのようなやりとりに若干首を傾げたが、それよりも彰に会えるという喜びの方が勝った楓はそれを問うことはしなかった。
◇◇◇
そして当日。
楓は約束の時間を過ぎても現れない彰を待ち続けているのだ。
「あ……降ってきちゃったな……」
どんよりと重たい空気をまとった雨は次第に強くなり、人々は慌てて駆け出したり、折りたたみ傘を開いたりと忙しない。
土が剥き出しの地面もあっという間にぬかるみ始める。
楓は小さな子どもをおぶって走る父親らしき人に「足元に気をつけて」と心の中で呟いた。
楓は拝殿の軒下に移動し、一つ溜息をつく。
「彰、遅いなあ……」
待ち合わせの時刻から既に一時間ほど過ぎている。
携帯電話を見るが着信はなかった。
連絡なしに約束を破るような奴ではない。何かあったのだろうか。事故に巻き込まれたりしていなければいいのだけど……。
嫌な想像に頭を振り、気を取り直す。
雨はまだ止みそうにない。
雨によって人気の減った境内。
屋台の中では店主が退屈そうに空を見上げていた。
そこに傘を差し、慌てて走り込んでくる人物が目に入る。
「楓っ!」
それは紛れもなく懐かしい顔。彰だった。
中学の頃よりも随分と身長も伸び、その大人びた容姿はきっとモテるんだろうなということが想像に難くなかった。
祭りだから着ようと言った若竹色の浴衣も彼の魅力を引き出している。
「ごめん! 遅くなった!」
慌てて駆け寄る彰に楓は笑顔を向ける。
遅れたことなんてどうでもよかった。彼がちゃんと来てくれた。それだけで嬉しかった。
「本当にごめん!」
「いや、大丈夫。どうせ雨降ってて動けなかったし。……久しぶりだな」
「ああ、本当に……。ちょっと話したいことはいっぱいあるんだけど、とりあえず言い訳させて!」
上がった息を整えつつ、彰は申し訳なさそうに眉を下げた。
彰の説明によると、約束の時間通りに向かっている途中、泣いている男の子に出会ったらしい。祭りに来ていて親とはぐれたそうだ。
迷子らしいその子を保護して交番へ送り届け、手続きをしていたらこんな時間になったのだと。
「警察っていろいろ時間かかるんだな。どこで保護したとか俺の身元とかさ」
「まあ、そうだろうね。なんかあった時に保護した人の連絡先が無いと困るからじゃない?」
「実は俺が誘拐犯だったら? とか?」
「あははっ、ないない! 彰にそんな勇気はないね!」
「まあな。そんなことで人生無駄にはしたくねぇな」
ニヤリと笑う彰の表情は子どもの頃の面影が感じられて妙に嬉しい。
「浴衣、似合ってるな。髪は伸ばしてんの?」
彰に問われ楓は笑う。
「似合うかな? 彰が来るって言ったら母さんが用意してくれたんだよ。過保護だよなー。髪は気分。っていうか、放っておいたら伸びた感じ」
「ははっ、そっか。お前らしいな。でも本当、浴衣も髪型も似合ってると思うよ」
「そういう彰こそ結構背も伸びたんじゃない? 中学ん時はあんまり変わらなかったのに、今じゃ俺の方が圧倒的に小さいじゃん。何か負けた気がする」
そう口をとがらせる楓に彰は声を立てて笑った。
「雨も小降りになったし、店回ろうぜ」
「うん、行こう」
空を見上げると雲は薄くなり薄暗い空に星がちらつき始めている。空気も幾分軽くなった気がする。
二人で屋台を覗きながら、あれが食べたい、あれが美味しそうだと次々に買い込む。
雨が上がって賑わいを取り戻した祭り特有の熱気と、久しぶりに幼馴染と弾む会話に気分も高揚し、随分買い込んでしまった。
「こんなに食べられるかな?」
「昼めし食べてないし、いけるだろ」
楓の心配を吹き飛ばすかのように彰は笑う。
昔もそうだった。
何かと心配性の楓に彰はいつも笑い飛ばしてくれていた。
ある人は悩みを真剣に聞いてくれない。とボヤくかもしれないが、楓にとっては逆にそれが有り難かった。
彰が「大丈夫だろ」と笑うと「そうかもしれない」と気持ちが軽くなるのだ。
「どうした?」
過去の思いに思考が奪われ、ぼんやりしていたようだ。
急に顔を覗き込まれ、驚きに肩が揺れる。
「あ、ごめん、昔のこと思い出してた」
「昔?」
「うん、中学の時もさ、俺に心配事があるといつも彰が笑い飛ばしてくれてたなって。……ねえ、なんで引っ越しするって言ってくれなかったの?……って聞いてもいいのかな」
楓は不安気に彰を見つめる。
ずっと疑問だったこと。彰が来てくれたんだからもういいかとも思ったが、やはり気にはなる。
もともと気遣いができる彰だ。親友だと思ってくれているのであれば、何も言わずに連絡を絶つのは彰らしくない。
彰は足元に視線を落とした。
「ああ、あの引っ越しね。……親が離婚したんだよ。で、俺は父親に連れられて県外に行ったわけ。でもさぁ、父親って子育てなんてできねえじゃん? よその家は知らないけど。俺の親父は学校のことなんか何もしねーし、俺は未成年だから自分でやるのも限界があるし。高校入学してすぐ辞めちゃったんだ。……なんか情けなくてさ。それでなんか恥ずかしくて連絡できなかった。……ごめん」
「そうなんだ。……大変だったんだな」
「いや、むしろ今は吹っ切れてるし。でもお前のことはずっと気がかりだったんだぜ? 俺のことなんてもう忘れてんだろうなって」
珍しく自信なさげな表情をする彰。
楓はちょっとムッとした表情を作る。
忘れる? そんなわけないだろ。あれだけ一緒にいて仲が良かったのに。
「そんなわけないだろ。俺こそもう彰は俺に愛想を尽かしたのかと思ったよ。俺といるのが嫌になったのかなって」
「あー……うん、ごめん。そりゃあ、そんな風に思うよな。高校だって一緒に行く約束してたのに勝手にいなくなったんだもんな。でも、楓のこと嫌になるわけない」
そんなことをぽつりぽつりと話しつつ二人並んで歩く。
彰の状況を考えれば音信不通になるのは仕方がなかったのかもしれない。今でこそ彰は吹っ切れたように話すが、きっと心の整理をつけるのは容易ではなかったはずだ。それでも、彰は楓に連絡を取ってきたのだ。
中学の縁なんてなかったことにすることもできたのに。
嬉しい。ただ素直に嬉しかった。
◇◇◇
両親が離婚すると知ったのは卒業まで一か月を切った頃だった。
両親が何やら揉めていたのは気づいていたが、彰も思春期真っただ中だったために何があったのか尋ねることもしなかった。
そんなある日、学校から帰宅すると部屋に直行しようとする彰を母が呼び止めた。そこには父親の姿もあった。
平日の昼間に二人が揃うなんておかしい。訝しがりつつリビングに入ると、開口一番、母が言った。
「母ちゃんと父ちゃん別れるから。お前は父ちゃんのところに行きな」
何を言っているのか理解するのに時間がかかった。
離婚? 父親のところに行く?
「は? おやじ、出ていくの?」
「ああ、元々このアパートは母ちゃんの契約だったからな。お前は俺と福岡に行く」
「は? 学校は?」
反抗期なんて言っている場合ではなかった。
父親とここを離れるということは、学校にも通うことができなくなる。もう公立高校の合格発表も終わって一安心していたのに。
彰の中に楓の顔がちらついた。
「高校も一緒に通おうな!」
「うん! クラスも一緒だといいな!」
あんなに嬉しそうに笑っていた楓。
俺だって楽しみにしていた。高校生になれば少し自由も増えるだろう。だからもっと楓と遠出をしたり、くだらないことでばか騒ぎしたりするのを楽しみにしていた。
それなのに、引っ越し? 彰は混乱した。
両親に引っ越しは嫌だと説得をしたものの、結局は両親の言うとおりにせざるを得なかった。
その日から、何度もこのことを楓に打ち明けようとしたが、引っ越しの準備や自身の心の整理がつかなかったこともあり、あっという間に卒業の日を迎えてしまったのだ。
今日しかない。彰は最後の日に楓に打ち明けようとした。
卒業式の後、楓はクラスメイトとの別れを惜しんでいた。楓は多くの友人に囲まれている。
彰は何となくそこに入っていくことができず、その場を離れた。
楓の家は近い。家に帰ってから楓の家に行こう。
そう考えていた彰だったが、帰宅すると父は既に車を用意し、すぐに出発すると言う。
「楓に一言あいさつしたい」
そう言ったが、そんな時間はないと一掃されてしまった。
それからというもの、父親と二人の生活が始まったのだが、それはまあ悲惨だった。
公立高校の入試結果を元になんとか引っ越し先の高校に転入することができたのだが、父は仕事が忙しいと言ってなかなか帰って来ず、学校への提出書類なんか全く見もしなかった。高校生とはいえ、未成年だ。保護者の協力なしには学校生活なんてとてもじゃないが送れない。
結局、入学書類さえまともに整えられなかった彰は自身で入学を辞退することにした。
その後も父親の行動は変わらず、昼間は仕事。夜は仕事なのか何をしているのかわからなかったが、帰ってくることの方が珍しいほどだった。
時折、いつの間にかテーブルの上に一万円札がポンと置かれており、きっと生活費ということなのだろうと思った。
しかし、それだけで生活できるわけもなく、何もしないで家にいるのも嫌だった彰はアルバイトを始めた。
中卒で受け入れてくれるところは少なく苦労したが、どうにか働き口を見つけることができたのだった。未成年ということもあり、保護者のサインが必要だったが勝手に印鑑を押してごまかした。とにかく早く独り立ちするために。
彰はずっと楓のことが気がかりだった。
これからもずっと友達だ。そう約束したのに。俺は何も言わずにいなくなった。楓は怒っているだろうか。それとも……心根が優しい楓のことだ。何かあったのではと心配しているかもしれない。
楓の実家の電話番号は知っている。電話をかけてみようか……。
そう思ったが、彰が結局電話をかけることはなかった。
卒業式の日、クラスメイトに囲まれて楽しそうにする楓の姿を思い出したのだ。
楓は自分と違って友達も多い。俺なんかいなくても楽しくやっているかもしれない。そう思ったら何だか恐くなってしまった。
◇◇◇
二人は賑わう通りから逸れ、脇道の細い通りを通って近所の公園に移動した。
ベンチとブランコしかない、小さな公園だ。
ここも思い出の場所だった。
「学校帰りによくここでおやつ食べて帰ったよな」
彰がドカッとベンチに腰を下ろして言う。楓もそれに習い隣に腰掛けた。
「うん、そうだね。よく覚えてるよ。二つ繋がったソーダのアイスを半分こしたりね」
「ああ、懐かしいな」
「うん、懐かしい。……あ、ほらイカ焼き! 冷めないうちに食べようよ!」
買ったものを次から次に口に放り込む。
それを見て彰は笑った。
「あはっ、楓すごい食べるな。昔は小食だったろ?」
「まあね。食べるようになってからも身長はあんまり伸びなかったけど。さっきも言ったけどさ、彰は引っ越した後、身長伸びたんじゃない? 昔は俺と同じくらいだったのに」
「ああ、多分遺伝だろうな。親父が背が高かったから」
何年も離れていたとは思えない穏やかな空気。
楓は改めて彰との時間の居心地の良さを感じていた。
ふと彰を見やると、バチリと視線が合わさる。
「あははっ、彰、口にソースついてるよ」
「あ? え。まじかっ⋯⋯あー、だせぇ」
慌てて口元を拭う彰に楓は笑いがこみ上げる。
「あー、腹いっぱい!」
ベンチに凭れ掛かり腹を擦る彰。
楓は声を立てて笑う。
「彰、おじさんみたい!」
「はっ、こんなイケおじがいたら惚れちまうだろ?」
そう言ってバチンとわざとらしいウインクを決める彰に益々笑いが止まらなくなった。
「あー、こんなに笑ったの久しぶりだよ」
「ははっ、俺もだよ!」
「ねえ、今日はどこに泊まるの?」
「ん? ⋯⋯あー、まあ⋯⋯そのへんのホテル?」
「決めてきてないんでしょ。彰らしいっちゃ彰らしいけど。⋯⋯ねえ、今日うちに泊まっていかない?」
楓の提案に彰は目を見開いた。
「え? でもおばさんとかいるだろ? 突然だと迷惑じゃねえの?」
「あー、それは大丈夫。俺実家は近いけどアパート借りてるんだ。親が社会経験して来いって家から出してくれてさ」
「そっか⋯⋯じゃあお邪魔しようかな」
二人は食べきれなかったお好み焼きの袋をぶら下げゆっくりと歩きだした。
懐かしい通学路。並んで歩くのは何だか心が擽ったかった。
パンッ!パパパパパン!
突然の大きな音。二人は空を見上げた。
「お、花火だ」
「やっぱ祭りと言ったら花火だよね」
ゆっくりと足を進めながら空を見上げる。
色とりどりの花火が暗い空を彩った。雨上がりのやや涼しい風が頬を撫でる。
とその時、花火に夢中になるあまり楓は小さな段差に足を取られた。
「わっ!」
「おっと、大丈夫か?」
「あ、う、うん。びっくりした。ありがとう」
彰に支えられ転ぶことは免れたもののちょっと気恥ずかしい。
背中に触れた彰の手は思いの外大きくて温かかった。
◇◇◇
楓の家は1DKのアパートの古いアパートだ。古いが二階の一番奥という部屋の場所が気に入っていた。一方向だけでも気を使わなくて済むのは有難い。
彰は物珍しそうに視線を彷徨わせる。
「はは、何も面白いものはないよ。狭いし普通、普通」
「いや、彰の匂いがする」
「うわ、何だよ、変態? ……てか臭い?」
「っ、ばーか、ちげえよ!その部屋の匂いってあるじゃん? 別に臭くないし、俺は変態でもない」
慌てふためきつつ彰は部屋の中央に置いたローテーブルの前にドカッと腰を下ろした。
「そんなに慌てなくてもいいのに。ほら、外暑かったからなんか飲む? って言ってお茶かビールしかないけど」
小さな冷蔵庫を確認して言うと彰が後ろから覗き込んできた。
背中に彰の体温を感じ何だかドギマギしてしまう。
「じゃ、せっかくだしビールにする? てか、ほとんど何も入ってねえじゃん。料理とかしないの?」
「んー、だってできないし。買って来た方が早いし、実家近いから母親も持ってきてくれるんだよね」
せっかく独り暮らしをするからと初めは張り切って料理にも挑戦していた。
しかし、簡単だと聞いたカレーライスは大量に作りすぎて食べきるのに一週間かかったし、卵焼きはスクランブルエッグになった。焦げなかっただけマシだと思っている。
それならばと、火を使わないサラダを作ろうとすれば指を切ってしまう始末。楓は自分の料理センスのなさに早々に諦めたのだった。
「ふーん、じゃあ今度俺が作ってやるよ」
ビールを取り出しながら彰が言う。
「え? 彰、料理できるの?」
言っちゃ悪いが、彰と料理なんてミスマッチだ。
中学時代の得意科目は体育のみ! 宿題はやってくることの方が珍しい。という彰からは料理上手なイメージは全くもてない。良くも悪くも大雑把。それが彰だ。
「……楓、今失礼なこと考えてただろ」
「あ、いやっ! そんなことないよ! まあ、あんまり料理のイメージはないなとは思ったけど」
「ほら、俺母親いないし、父親もあんなだろ? 金もないし必然的にな」
「あ、そっか、ごめん」
ついつい中学の頃の感覚になっていたが、彰は大きく環境がかわったのだった。自分の配慮のなさに楓は申し訳なく思い眉を下げる。
すると彰は困ったように笑った。
「あー、いいって! 楓が気にすることじゃねえよ。そのおかげで生活力も身についたんだからさ。楓に料理を振る舞えるなんて俺は嬉しいんだよ。ほら、飲もうぜ!」
ローテーブルにビールと持ち帰ったお好み焼きを広げる彰。どんな状況でも陽気な彰は昔と変わらない。そんなところを楓は尊敬しているし好ましいと思っていた。
◇◇◇
ビールを数缶空けたところで気分がふわふわと浮ついた感じがしてきた楓は、少々覚束ない足取りで立ち上がった。
「トイレ行ってくる」
「んー、転ぶなよー」
そういう軽いやりとりも心地良い。
そうだ、思い出した。昔からこの彰の声も好きだったのだ。中学時代よりも少し低くはなっているが、耳に響くような包容力のある声質。それに男性らしい重厚感が加わって何ともセクシーだ。
こんなこと言ったら気持ち悪がられるかもしれないから言わないけれど。
楓がふらつく足取りで戻ると、彰はチェストの上に置いていた写真を手に取っていた。
あ⋯⋯、忘れてた。
楓は何だか恥ずかしくなり顔に熱が集まるのを感じた。
そう、そこには中学三年の体育祭で彰と撮った写真を飾っていたのだ。
「ごめん」
「何で謝るんだよ?」
「いや、なんとなく⋯⋯」
「この時は楽しかったよなー。おれ、この時はずっと楓とこうやって一緒にいたいと思ってた」
彰が懐かしむように目を細める。
それはどこか憂いを含んでいるようにもみえた。
「今は違うの?」
楓の口をついて出た言葉に彰は目を見開く。そうして写真を元の位置に戻すと、一つ溜息を吐いた。
「⋯⋯いや。今日久しぶりに楓に会って、やっぱり楓の隣は居心地がいいと思ったよ」
「ふーん、そう⋯⋯」
「ああ、既に帰りたくないと思ってる」
「⋯⋯帰んなきゃいけないの?」
なんとなく彰の顔を見ることができず、楓は視線を落として呟く。
彰の反応が恐くて心臓が握りしめられるような感じがした。
「まあ向こうの仕事はあるけど⋯⋯でもなぁ⋯⋯あー⋯⋯ああ、もうっ!」
彰は何かを振り払うように首を振る。
楓は突然の大声に驚き、思わず顔を上げた。
彰はほんの一瞬躊躇いを見せ、再び口を開く。
「うじうじすんのは俺らしくねえな! 聞いてから引くなよ?」
「う、うん」
「俺は帰りたくない。もし楓が嫌じゃないならこっちに戻ってきたいし、一緒に住みたい。その⋯⋯今日改めて気づいたんだけど、好きなんだよ。楓のことが」
楓は彰の言葉を理解するのに時間がかかった。
頭の中で彰の言葉を反芻し、理解が追いつくとドキドキと心臓が早鐘を打ち、顔に熱が集まる。耳までも熱かった。
「⋯⋯引いた?」
彰の不安げな表情に楓は慌てて頭を振った。
「驚いたけど引いてはない。っていうか、むしろ嬉しい⋯⋯?」
「何で疑問形なんだよ」
楓は煩く騒ぎ立てる心臓をどうすることもできなかった。
でも言うのなら今しかない。彰は楓に心を開き素直な気持ちを吐露したのだ。自分だけ気持ちをあやふやにするなんて彰に失礼だし、このチャンスを逃すと恥ずかしくて言えなくなることが容易に想像できた。
楓は一度唾を飲み込んでから口を開いた。
「俺は⋯⋯中学卒業してからずっと彰に会いたかった。何で引っ越したかはわからなかったけど、もう一回会いたいと思ってた。でもそれは親友としての気持ちだと思ってた」
そこで一度呼吸を落ち着かせるように息を吐く。
彰は、真剣な顔で楓を見つめていた。
その瞳には熱が籠もり、燃えているような錯覚を覚える。
「でも、今日彰に再会して思ったんだ。親友として好きなのはもちろん変わりがないけど、それだけじゃないって。⋯⋯彰にもっと触れたい体温を感じたいって思っちゃったんだよ。俺の方こそ引かれちゃうかもしれないけど」
楓はそこまで言って眉を下げる。
今まで告白なんてしたことがなかった。同性はもちろん、異性ともそういう関係になったことも無い。
友人との会話で、あの子が可愛い、この子は美人だと盛り上がったことはあるが、楓はどうにも共感することができず上辺だけ頷いて友人に合わせていたほどだ。
「まじで? 俺、男だしこんな奴だぞ? 嘘じゃないの?」
彰は楓の返事を聞き、疑問を投げかける。
彰から話を振っておいて何なんだその反応は。俺も好きだと告白したんだから喜ぶべきところじゃないのか?
てっきり両想いを喜ぶものだと思っていた楓は頬をふくらませる。
「こんなとこで嘘つくわけないだろ。彰こそ本気じゃなかったの?」
「あ、いや、絶対振られると思ってたからさ」
照れくさそうに笑う彰に楓は表情を緩める。
彰のこんな表情見られるのは自分だけなんだろうな。そう思うと無性に嬉しくなった。
「ねぇ、キスしていい?」
「っ⋯⋯、あ、ああ」
そっと触れ合う唇。
それは触れるだけの、どこまでも優しい口づけだった。
「俺、今の仕事辞めるよ。キリがいいところまでやったらだけど。⋯⋯そしたらこっちに帰ってきてもいい? 俺またちゃんと新しい仕事も探すから」
「うん、俺も卒業したら地元で働く予定だから⋯⋯一緒に住めたら嬉しい」
子どもの頃の親友、そして突然音信不通になった親友。まさかこんな関係に発展するなんて誰が予想できただろうか。
この先、どうなるかなんてわからない。
でも、きっとまた二人の新しい関係が始まる。
離れていた分、それぞれたくさんの経験を積んできた。たくさん話したいこと、聞きたいことだらけだ。
わくわくする。
こんな感覚は久しぶりだ。
「ずっと待ってるから」
「ああ。必ずまた来るよ」
「電話もしていい?」
「もちろん」
「あ、電話番号知らない」
「ははっ、そうだったな」
それぞれの携帯電話に新しい電話番号が登録される。
二人はそれを愛おしそうに見つめた。
いつの間にか夜も更けてきた。
明日は彰が帰ってしまう。朝が来なければいい。
楓はそう思ったが、それは違うと思い直した。
そうだ、これからはいつでも連絡することができる。
いつかは一緒に暮らすことだってできる。
そのためにも、明日に進まなくては。
きっととんでもなく楽しい未来がやってくる。
布団を並べて二人で横になる。
「⋯⋯彰」
「ん?」
「連絡くれてありがとう」
「ああ」
「俺のこと、忘れないでいてくれてありがとう」
「⋯⋯うん。⋯⋯いや、それ俺の台詞だ」
布団の中で繋いだ手。
楓の少し低めの体温と彰の温かい熱は混じり合い、いつの間にか二人は心地よい夢の中へ旅立っていったのだった。
end
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