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満天の星

 桜島からは離れている立地ではあるものの、風が吹けば火山灰で霞む街、知覧。  その日は珍しく空が晴れ渡り、満天の星と言ってもいいほどの星空が広がっていた。 「何をしているんだ?」  兵舎の裏で、草むらに腰を下ろした野村智宏は、声がした方へ振り向いた。 「井上、お前こそ何をしてるんだ。こんな時間に抜け出すと怒られるぞ」  お前はどうなんだ、と言いかけてやめた井上と呼ばれた井上尚樹は隣に腰を下ろし、一緒に同じ方向へある草むらを見つめた。  少し高台になっている兵舎は、今の場所からだと数メートル先から下へ下がっており、今は月もなく真っ暗だが昼間なら訓練をする兵たちが見える場所である。 「俺は、寝たって寝なくたって別にな…」  野村のそんな言葉に、井上は足元の短い猫じゃらしを一本毟って手で弄び始めた。  野村は3日前に、明日13日の出撃を命じられておりその出撃というのは燃料だけ大量に積んで、2度とは戻らない出撃のことである。  井上と野村は徴兵されて集合させられた連隊区の司令部で出会った。  年も同じで、街は違うがそれなりに近いところで育ったために気もあいそこで親交を深めている。  そこで上層部の話し合いにより戦地が決定されるが、その時には一度離れたものの、昭和20年7月の終わりに偶然この知覧に配属されてきていた。 「知覧(ここ)へ来てお前と会った時は驚いたな」  草の先をくるくると指先で回しながら井上は口元だけで笑う。 「全くだ。いくらでも戦地はあるだろうにな…」  連隊区司令部で一緒だった仲間は、知る限り中国やインドネシアなどに出兵していると聞く。ここで再開できたのはある意味奇跡ということもできた。  しかし…である。 「まあ…知覧(ここ)はなぁ…」  野村は星を見上げてため息混じりにいう。 「特別攻撃隊の基地は他にもあるのにな、知覧(ここ)でお前と一緒だったのは何かの導きかな」  明日出撃の友に何を言っていいのか解らず、井上は相変わらず草を弄びながらも少しおちゃらけてしまったことを内心後悔した。  しかし野村は 「そうかもしれんな…」  そう言いながら、隊服の胸ポケットから何か小さな布のようなものを取り出して、それを井上に差し出す。  「なんだ…?」  草を持っていない方の手でそれを受け取って、見てみると小さな袋になっていて、中に何か紙のようなものが入っているようだった。  思わず野村の顔を見ると、 「それは、歳の離れた妹が出征の日にくれたものだ。中の紙には般若心経が書かれている」  笑って教えてくれた。 「見てもいいか?」 「ああ」  袋は本当に小さく、成人した井上の指には袋の口さえ狭いほどで、布を寄せてやっと紙を取り出す。  中には4cm5cmほどの紙に子供の文字で般若心経がびっしりと綴られており、最後の1行に 『無事のご帰還を』と書かれていた。  その1行をみて、井上は涙を堪えざるを得なかった。 ーだって野村は明日には…ー  妹の願いがこもったメッセージが…明日には… 「それをな、井上。無事に地元に戻った時には妹に返してあげて欲しいんだ」  涙を堪え、少し鼻を啜っている井上は紙を折りたたみながら野村を見た。 「俺だって判らんぞ…」  畳んだ紙をもう一度袋に戻そうとして、まだ何かが入っている感触を感じる。 「妹に手紙を書いて入れてある。だから届けて欲しいんだよ」 「だから俺とて…」 「俺な…」  言葉を言わせずに野村が被せてきた。 「この戦争は、あともう少しで終わると思ってる…」  まっすぐ前の…昼間であれば訓練場が見渡せる今は真っ暗な空間を見つめながら野村が話す。 「特別攻撃隊を行うという事は…大本営は何も言わないが、日本はもう劣勢を覆すのに必死でいると思う。声に出しては言えないがそう感じるよ」 ー自分がこの立場になってなー と続けて悲しそうに笑った。 「でもこんな大事なものを預かって、もう直ぐ終わるとしたってその前に俺に出撃命令がでたら…」 「その時は、どっちにしろ帰れなかったとしてお前が持っていってくれ」 「顔も知らない妹さんの思いを俺が持つのは…責任被せすぎだぞ」 「お前にしか頼めないだろう。どうしようかと思ったが、お前は今ここにきてくれた。だからお前に頼むしかないんだ。手紙だと検閲を受ける。検閲に引っかかる内容を俺は書いた。だから頼む。住所は中に書いてある、ぜひ行ってくれ」  野村は隣で上半身を井上へとむけ、返そうとしていたその手を両手で握り込み、真剣な顔で言ってくる。  流石に気圧された。  最期の願いなのだ。聞かないわけにはいかない…。自分も早晩順番が来るだろうが…その時はその時だ…今はこの男の思いを受け取るのが自分のやるべき事だとも思う。 「…わかったよ。痛えから離せよ、馬鹿力だな」  気圧されて震えるかもと思った声が、普通に出せて少し安堵するが野村にはどう聞こえたか。 「ありがとう…」  また穏やかな顔に戻り、野村も足元の草を一本抜いた。  短いぺんぺん草だ。 「今何時かな…」  支給の寝姿の井上が、身体を叩いてみるが時計などありようがない。 「3時43分だな」  まだ隊服の野村が懐中時計を既にしまいながら答えてくれた。 「もうそんなか…」  井上は空を見上げた。 「今日は随分星が綺麗に見えるな…」  もう直ぐ夜が明ける。そうしたら昼前には野村はもう…。  8月13日のこの夜空は、井上は一生忘れないと思った。  野村が言うように、本当にもうすぐこの戦争は終わるのか…日本は勝つのかそれとも…  大本営の言葉は信じるしかないが、現地に身を置くものの肌感はその言葉を信じるには…  井上の言葉に空を見上げている野村の横顔を見てみる。  清々しい顔をしているような、どこか寂しそうな…しかし「怖がって」いる感じは全くしなかった。  自分達は「そう言う」風に鍛えられ教えられてきてしまった。  きっと野村は誇らしく出撃していくのだろう。  たとえ機内で前が見えないほど恐怖の涙を流したとしても、誰にも知られずに名誉の戦死を遂げるのだろう。  だから自分が泣いてもいけない。  どれほどの恐怖かは、その命令を受けたものしかわからないのだ。  野村はふっと息を吐いて立ち上がった。 「夜が明ける頃には起床ラッパの当番が起きてくる。それまでに布団へ入ろう」  笑って手を差し伸べてくるその手をとり、ぎゅっと握りしめた。  この手の感触を、もしも妹さんと、野村の家族と会えたときに伝えられたらどんなにいいか…。  手に助けられて立ち上がった井上の手を握手のように持ち変えて、 「お前のおかげで、こんな生活も楽しかったよありがとう。次に会えるときは…お前が爺さんになってることを願うよ」  そう笑った。  そんなことを言うな。俺が爺さんの時はお前も爺さんになっててくれ、機に乗ったら、違う島へ不時着でもしてくれ、そこで生き延びて…そう言いそうになった。  そうあって欲しいと願った。が、井上は手を握り返し、 「なんだよ、お前ばかり若いままかよ。そっちでも歳を取れ」  泣きそうになる気持ちを手を握る力に代え、思い切り握りしめる。 「痛えって、お前も馬鹿力だぞ」  もう片方の手で井上の手首を掴んで笑い、その手に持っていたぺんぺん草を代わりに渡した。 「これもらってもさ…」 「最初で最後の俺からお前にやれるもんだな」  そう言ってまた笑い、寝るぞと後ろを向いてしまう。  その背中を見て、井上はまた空を見上げた。  今日の知覧の空は快晴。  星が空いっぱいに広がり、満天の星という言葉をそのまま表すような空だ。  この空を忘れない。もう一度誓った。  野村はもう振り向きもしないで暗闇に消えた。  まるで明日のあいつのようだ。とそこで初めて涙が一粒だけ頬を伝った。  辛いのは俺じゃない。  そう言い聞かせまた空を見る。  知覧の空は…  こぼれないように耐える涙で滲んでいた。  玉音放送は、野村が散った2日後だった。  

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